(四)
翌朝。
出立の日は、これでもかってぐらいの、雲ひとつない快晴だった。
ちょとぐらい雲、残っててよ~。日差しキツすぎで朝から暑い。
前駆けの馬。後駆けの馬。随身。先触れの侍。荷運びの雑色、舎人。
近衛府から借り受けた随身。馬駆けの者たちが、足並みをそろえ轡を並べる号令をかけ合ってる。中将さまは不在だけど、親王さま、内親王さまの一行なんだもん。暑いからって、グダグダ行列になるわけにはいかないから、号令をかけ合うのは意外と大事。暑い中、大変だろうけど。
帰りは行きと違って、庭から池に出て「じゃあ、さよなら」ってわけにはいかないから、ちゃんと荘の入り口、門から出ていく。荘から船着き場へ。船で渡ってからは、また牛車で都に向かって、夕刻には内裏に戻る予定。
「帰るとなると、名残惜しいね」
そうおっしゃったのは、安積さま。庭先に出て、その行列の準備を見てたら、こちらにやって来られた。安積さまも、準備の進捗を見にいらしたのかもしれない。
「帰るって決めたのは、僕なのにね」
うん。
その気持ちは、よくわかる。
帰らなきゃいけないから、先頭を切って「帰ろう」って提案するんだけど。だからって「帰りたくて仕方ない。ここにいたくない」ってわけじゃなくって。
遊び終わって帰らなきゃいけない寂しさは、ここにいる誰もが同じ。
都を出発する時にも同じ光景を見たけど、同じ光景でも「帰る」ってなると、どこか寂しい気持ち、「ああ終わっちゃうんだな」って気になる。
「また、遊びにいらしたらよろしいのでは?」
その寂しそうなお顔に、つい声をかけてしまう。
「宇治だけじゃなく、他のところにも。いっぱい遊びに行ったらいいんですよ」
帰るのは寂しいけど、また次に遊びに行くことを考えれば、ちょっとはウキウキするかもしれない。夏の水辺だけじゃない。秋の紅葉、冬の深雪、春の花桜。どこかに出かけてなんでも楽しめばいい。
「そう……だね。それは楽しそうだ」
かすかに笑って、目を伏せた安積さま。
(まただ)
昨夜の桜花さまを見ていたときと同じ表情。笑ってるのに、見てるこっちが全然楽しい気分にならない笑み。
「菫野は、どこか行ってみたい所とかあるの?」
「へ? いや、別に、特に……」
いきなり言われても、そんな場所、パッと思いつかない。
「この宇治からずっと南に下るとね、奈良にたどり着くんだよ」
「奈良……ですか。たしか、いにしえの都で、大きな御仏が座していらっしゃるという……」
おっきな御仏って、どれぐらい大きいんだろう。ここで見た御仏よりも大きいのかな。それこそ見上げたら首が痛くなるぐらいに。
「そうだよ。雲太、和二、京三。この世で一番大きなものは、出雲の大社、ついで大和の大仏殿、そして京の大極殿。すごいよね、この宇治を挟んで南北に、二つの大きな建造物があるんだから」
「宮さまは、ご覧になったことがあるんですか?」
そして首を痛めた経験が?
「いや。僕はまだないよ。都を出たのは、これが初めてなんだ」
「じゃあ、次に出かける時は、その大きすぎる御仏を見に行きませんか?」
「菫野?」
都の大極殿より大きな建物の中で座しておられる御仏。間近で見たら、お顔というより鼻の穴を覗けそう。
「大和だけじゃないですよ、その雲太? も行きましょうよ」
出雲がどれだけ遠いのか知らないけど。でも、こうやって出かける楽しみを、安積さまに味わってもらいたい。
「後は……、そうですね、『富士、墨俣、淡海』もどうですか? きっと驚きますよ」
「富士、墨俣、淡海?」
「はい! わたしの知ってる、高いもの、長いもの、広いものです! まあ、富士は見たことないんですけど」
墨俣は美濃を流れる大きな清流。いくつもの川を束ねて伊勢の海に注ぐ。淡海は、海のように広いのに塩っぱくない、不思議な湖。
大和でも出雲でも。美濃でも近江でも駿河でも。どこでもいいからいっぱいお出かけしましょう。そうしたら、そんな寂しげに笑ったりしなくなる?
「そうだね。いろんな所に出かけたら。そうしたら、桜花をもっと楽しませてやれるか」
「そうですよ。ああでも、桜花さまだけじゃないですよ。宮さまも楽しまれたらいいんです。それこそ思いっきり、腹の底から笑っちゃうぐらい」
なんでもかんでも桜花さまのためじゃない。安積さまだって、楽しんだらいい。お腹の底から笑って、笑いすぎて頬が痛くなるぐらい笑ったらいい。
「ありがとう、菫野」
へ? 別にお礼を言われるようなこと、してませんけど?
「ところで、菫野。いつになったら、名を呼んでくれるの?」
「ふぇっ!?」
「いつまでも〝宮さま〟呼びなんて、つれないじゃないか。僕は桜花だけじゃなく、きみとも一緒に出かけたいって思っているのに」
「あっ、あのっ、あのあのあのっ、み、宮さまっ!?」
近い近い近いぃぃぃっ! 安積さまのお顔がとっても近いぃぃぃっ!
「〝安積〟と、呼んでくれないか?」
ついっとわたしの手を取る安積さま。物憂げな視線がわたしを捕らえて……。
「――菫野!」
庭先からかかった声。
「筵道が足りねえってあっちで騒いでるんだけど、見てねえか――って、悪い。邪魔したみたいだな」
ガサガサと下の茂みをかき分けて、ヒョコッと顔を出したのは孤太。わたしと安積さまの様子を見て、クルッともと来た茂みに戻って行く。
「ま、待って! 待って、待って、待って! 筵道! 筵道ならあっちで見かけたわよ、あっちよ、あっち!」
見てないけど。
見たことにして、適当なとこを指さして、緒太をひっかけ庭に降りる。筵道が足りなきゃ、みんなが牛車に乗り込めなくて、出立が遅れちゃうもんね! うん! 筵道、筵道、筵道大事!
「それでは、宮さま、失礼いたします!」
足早に。でも失礼のないように。
「なんだよ。顔赤けえぞ?」
一緒になって並んで走る孤太が問う。
「うるさいわね。暑いからよ」
夏だから。暑いから。だからわたしの顔は赤いの。火照ってるの。
「で? 筵道はどこにあるんだよ」
「え、えーっと……。どこだっけ?」
走ったものの、そこに筵道はない。あるわけない。(当たり前)
「役に立たねえなあ」
うるさい。
ちょっと助かったって思ったけど、絶対お礼なんか言ってやんない。