(三)
「へえ、蓮の花……ねえ」
夜、ようやく局に訪れた孤太に、庭の花のことを話す。
「というか、アンタは見てないの?」
「見てないって。こっちは船で優雅にドンブラコしてたわけじゃねえ。船着き場で牛を下ろしたり、荷を運んだりで大変だったんだぞ」
だから、こんな暗くなるまでかかった。
疲れてるのだろう、孤太が少しだけ不機嫌になる。
「でもさ、蓮なんか育ててどうするんだ? 根でも掘り返して食べるのか?」
「は? 違うわよ」
アンタ、わたしの話を全然聞いてなかったでしょ。
「じゃあ、実を取り出すのか?」
蓮の実は蓮の実餡にしてお菓子に使ったり、薬種としての効用も期待できるけど。
「違うってば。池の蓮は、観賞用に植えられてるの」
多分、極楽を表現するために。間違っても、食用とするためじゃない。
「ふぅん。人間って、よくわからねえもののために手間ひまかけるよなあ」
ドタッと腕を枕に、仰向けに寝転がった孤太。
「アンタに理解できなくても、人間が生きてくためには、〝風趣〟ってものが必要なのよ」
「そんなもんかねえ」
「そんなもんよ」
まあ、わたしにも完璧に理解できてるかって言われると怪しいけど。蓮の花を愛でるのはいいとして、その先は孤太と同じで、実とか根とか利用したらいいと思う。
「ねえ、それよりさ。箏の琴を用意してちょうだい」
「箏ぉ!? 今から弾くつもりなのかよ」
「当たり前でしょ。もう時間がないのよ」
おそらくだけど、演奏会は、明日の夜か明後日の夜。日中は練習することできないんだから、今やっておかないと。
「夜にやるって。怨霊呼び寄せてるって騒がれちまうぞ?」
「大丈夫よ。そこの塗籠にこもって弾くから」
わたし位割り当てられた曹司近くの塗籠。御簾で外と区切っただけの曹司と違って、扉と壁に囲まれた塗籠なら音もそこまで響かないと思う。
「そんなに気になるなら、アンタが音を隠してよね」
「オレが?」
「できないの? 妖狐の力でそういうこと」
「できるけどさあ。そうすっと、オレは一緒に塗籠にこもらなきゃいけなくなるじゃん」
「ダメなの?」
別にわたしとアンタがこもったって、いけないことないわよ?
誰か公達とかなら、まあ、そういう噂もたてられるかもしれないけど。召し使ってる小舎人童と女房じゃ、特に問題ないでしょ?
「オレの耳がどうにかなる。頭がおかしくなりそう」
「なに? ケンカ売ってるの? お買い上げするわよ?」
「買うな。アンタの強力で殴られたら、オレ、ペッチャンコになっちまう」
作った拳にハーッと息を吹きかけたら、あわてたように孤太が箏を用意し始めた。
そうよ。最初っからそうやって従順だったらいいのよ。まったく。
箏を孤太に持たせて塗籠に向かう。一度、簀子の縁に出なきゃいけないけど、そう遠い場所でもないし、誰にも見られることな――くはなかった。
「おや。こんな夜更けにどこに?」
バッタリ出くわしたのは、なんと安積さま。と、その帯刀。
口元に蝙蝠をあて、わたしだけじゃなく、その後ろの孤太と箏までバッチリ見られる。
「えっと……。なかなか寝つけないので、箏の琴でも奏でようかと」
嘘はついてない。嘘は。
寝つけない理由が、一般とちょっと違うだけで。
普通なら、「ふだん、家の奥深くで暮らしてるから、こうして旅に出て、いろんなものを見て、興奮して寝つけない」なんだろうけど、わたしの場合は「明日かもしれない演奏会が不安で寝つけそうにない」だけで。「寝つけない」ことに嘘はない。
「では、ご一緒に、いかがですか?」
「え?」
「僕も寝つけなくて。蓮でも眺めながら、少し心を落ち着けようと、泉殿に向かってたところなんですよ」
あ、なるほど。
どうしてアナタはこんなところに?
その謎が解けた。
わたしたち女房に割り当てられた曹司の前は、ちょうど泉殿の向かう通路にあたる。それに、安積さまの後ろに控える帯刀。こんな屋敷の中じゃあ、帯刀付きで夜這いには行かないわよね。帯刀を連れているのは、護衛というより、ちょっとした語り相手として連れていたんだろう。
「では参りましょうか。月明かりに照らされた蓮と、箏の琴の調べ。格別なひとときを過ごせそうです」
いや、待って。
なんで行くことが決定してるわけ?
わたしが行きたいのは、塗籠であって泉殿。
蓮の花より、琴の練習ぅぅぅぅっ……。
言いたいの。でも言えないの。
言ったら確実大爆笑。
そして、言えないままに泉殿到着。
「……うわぁ」
目の前に広がる蓮池に、思わず声が上がる。
今日は満月に近い月。
その煌々とした光に浮かび上がる薄桃色の蓮の花。池の水は、銀色にさざめく。遠くの山の稜線は黒く、月夜の空との境界を、クッキリ浮かび上がらせる。池から吹く風は涼しくて、旅で疲れてる体に心地いい。
日中は、極楽もかくやとばかりの光景だったのに、今は、夏の夜の静謐とした美しさを際立たせている。
こ、これは確かに、箏が似合うだろう場所だけど。
だけど、それは一流の手による演奏ならって話しで、わたしなんかの手だと、その……。
「どうしたの?」
孤太が箏を下ろしても、「さあどうぞ」とばかりに場所を空けて安積さまが座っても。立ちすくんだわたしに、安積さまが声をかけた。
えっと。
どうしよう。
このまま座って、「じゃあ一曲」ってやる? わたしの「怨霊を呼び寄せそうな」腕で?
孤太に、音が漏れないように結界みたいなのを張ってもらうのならともかく、こんな間近で弾いたりしたら。帯刀は踏ん張ってくれるかもしれないけど、おそらく安積さまは悶絶、泡吹いてぶっ倒れるかもしれない。
弾く? 弾かない? どうする? どうしたらいい? どうするのが正解?
「あ、あのっ! わたし、実はっ……!」
ええーい、ままよ!
「実は、琴とかあまり上手じゃなくって、それで一人練習しようと思ってたんです!」
どうせすでに笑われてるんだし。一回笑われようが、百回笑われようが同じことでしょうが!
悶絶させるより、洗いざらい話して呆れられたほうが百倍マシ!
「練習?」
「お前の演奏はその……、怨霊を呼び寄せると言われたもので……」
ゴニョゴニョ、ブツブツ。
口をとがらせ、言った本人を、チラリとふり返る。
「怨霊……」
一瞬、目を丸くした安積さま。けど。
「おっ、おん、りょうっ……!」
ブハッ。
笑いが爆発した。
背を丸め、アハハハッと笑い続ける。
(こんなのだから、恋愛とは程遠いのよ)
中将さまだけでなく、桜花さまも期待なさってたみたいだけど、こんなふうに爆笑されて、恋愛が発展するわけないじゃない。
そして、白状したせいで、またからかいのネタにされるんだろうな。
まあ、もうどうにでもなれって感じだけど。
どれだけ笑われても、怒る気力もなくて、フンッと鼻だけ鳴らしておく。
「す、すまない。ちょっとおかしくって……」
謝罪とともに、体勢を立て直した安積さま。ハアッと息を吐き出し、目尻を拭いて笑いを収める。
「ねえ、それなら一緒に弾いてみないか?」
へ?
「僕で良ければ、箏を教えるけど、どう?」
なっ、なんですとっ!?




