(五)
「――で? 何やってんだよ」
夜、曹司に戻ったわたしに、孤太が問いかける。
「見てわかんない? 琵琶を用意してるのよ」
「いや、それはわかるんだけどよ。オレが訊きたいのは、どうして琵琶を用意してるかってことだよ」
「それは……宇治に誘われたからよ」
近衛中将、藤原雅彰さま。(お名前は、あの後で先輩方に教えてもらった)
彼が、桜花さまや安積さまを宇治の山荘へ避暑に誘うと同時に、わたしまで一緒にとおっしゃられた。もちろん、他の女房方も一緒にってことなんだけど。
「だから。宇治に行くのは知ってるけどさ。なんで『宇治だから琵琶』ってなるんだよ」
坊主には袈裟、奈良には大仏のようなつながりは、宇治と琵琶には存在しない。
「……宇治で中将さまが、楽を奏でたいとおっしゃったからよ。わたしや先輩たちは奏でられる楽の音を聞き入る役だと思ったら、なぜか、『そちらの女房殿にも是非奏でてほしい』と言われちゃって」
「は? 本気か、ソイツ」
孤太が眉間にシワを寄せる。
「本気なんじゃない? それに安積さままで、『楽しみだ』とかおっしゃられて。わたしの参加は絶対になっちゃったのよ」
「嘘だろ?」
「わたしだって嘘でしょって言いたいわよ。そういう雅なことをなさるのは、身分の高い方たちのほうだって。わたしなんかの拙い演奏を、そこに混ぜちゃダメなことぐらい、重々承知してるわよ」
一応、女性の教養として、母さまから琴とか琵琶は教えられてはきたけど。
「どうやらあの中将さまは、わたしが安積さまの想い人だって、勘違いなさってるみたいなのよ」
「はあ? 想い人ぉっ!?」
孤太の声が、ひっくり返った。
「なんかね。わたしの持ってた扇を見て誤解なさったみたい。『宮が足繁く妹宮の元に参られるのは、あなたに逢うことが目当てだったのですね』とか言われちゃってさ。なんでって思ってたら、『その扇ですよ』って。『珍しく宮が女物を用意なさってるので何事かと思いましたが、いやはや』みたいなこと言われたのよ」
安積さまから贈られた扇。
どういうわけか、わたしが使っていたそれの贈り主が安積さまだと、中将さまはご存知だった。
珍しく女物の扇を用意なさった安積さま。それを持つわたし。なるほど、彼は妹宮の女房に懸想しているらしい。だから頻繁に妹宮のところに通っているのか――っていう発想になったらしい。
「それ、面白半分に贈ってきた扇だろ?」
うん。人をバカにしたような歌もついてた。
「そんでもって、今日持ってたのは、圧し折りすぎて予備の扇が失くなったからだろ?」
うん。腹立つたびにメキメキ折っちゃったせいで、これ以外に持てる扇がなかったのよ。一応、美濃の父さまに追加の扇を頼んでるけど、それまではとりあえずってことで、使ったのが悪かった。
「宮さま、えらいとばっちり、いい迷惑だな」
うん。扇を持ってたからって、わたしを恋の相手にされちゃあたまんないわよね――って。
「とばっちりはないんじゃない? そもそも、あっちがふざけて贈ってきたのが悪いんだし」
贈られたものを使う、使わないはこっちの自由。それで誰かにヘンに勘ぐられても、それは使ったわたしのせいじゃない。
――人言を しげみ言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
(なんだかんだとこの恋の噂をされて、うるさくてたまらないので、渡ったことのない朝の川を渡って、アナタのもとに行きたいわ)
――家にありし 櫃に錠さし 蔵めてし 恋の奴が つかみかかりて
(家の中、櫃に鍵かけて蔵に入れて閉じ込めておいたのに、「恋」のヤツ、勝手に出てきて、オレに掴みかかってきやがった。恋に落ちてしまった)
大昔の皇子皇女が詠まれた恋愛の歌らしい。
親王と女房の恋愛なんて、どんなそしりを受けるかわかんないけど、宇治でなら、人目もないし、自由にしていいよ? って意味で中将さまはおっしゃったらしい。
そして、なぜか「薔薇」の話になったのは、
綠樹陰濃夏日長 楼台倒影入池塘 水精簾動微風起 一架薔薇満院香
(木々の緑は濃い影をお歳、夏の日は長い。高殿は池の水に逆さまの影を映す。水晶でできた御簾が動いて風が起こり、棚に飾っていた薔薇の香りが室を満たした)
っていう唐国の漢詩が下地になっていたらしい。
涼しいのに、薔薇の香りがしないのは残念だ~みたいなことを中将さまがおっしゃったから、桜花さまが、「薔薇はないけど、春の花(桜とか菫)はございましてよ」って歌を詠んだんだとか。
一部始終、障子に張り付いて見てた(聞いてた)先輩方からは、「これぐらいの教養は素地として持っていなさい! 桐壺の恥よ!」と叱られたけど。
(そんなの、上手く返せるわけないじゃない)
というのが本音。
当意即妙、臨機応変っての?
そんなの返せる頭があったら、扇をもらった時の返歌ぐらいでひっくり返ったりしてないっての。
昔の和歌も唐国の詩も基本の教養かもしれないけど、わたしには無理。
「香炉峰の雪 いかならむ」って言われても、御簾を高く上げるなんて知恵は働かなくて。「は? 香炉峰の雪?」って首を傾げるのがオチ。香炉峰? コウ・ロホーさんの雪? 白居易? ダレソレ。辻占でもやってる白髪のジイさん?
わたしは、清少納言にはなれそうにない。
「でね。『わたくしが扇を失くしたことを宮がご存知で。わたしを哀れと思し召して贈ってくださっただけですわ』って説明しても、中将さまってば、全然聞いてくれないのよ。それどころか、『宇治は人目も少ないから、恋人同士で仲良くやってくれて構いませんよ』って」
「ゲッ」
「その上さ、『私が狙っていた宮の御心を射落とした女房どのとは、これを機に、是非仲良くしていただきたいものです』なーんて言われちゃったのよ」
「ゲゲッ」
孤太が後ずさる。
うん。その気持ち、よくわかるわ。あの中将さま、桜花さまを狙ってたのならともかく、安積さまを狙ってたのだとしたら。それを聞いたとき、わたしもお尻のあたりがゾワゾワしたもん。あの中将さまが求めるこの世の春は、衆道、男色の春だったのかって。
「でさ。せっかくだからわたしも含めて、一緒に演奏しようって流れになったの。宇治での遊びに管弦も加えようって」
なんかさ。
「身分違いの恋人たちが戯れるのに、管弦の席を設けましたよー。いい具合のところであなた達を残してあげますから、充分に楽しんでくださいねー。色んな意味で」みたいな感じに読み取っちゃうのよねぇ。「いい仕事してあげてるだろ?」みたいな。
「なるほど。それで琵琶につながるわけか」
「そうなのよ。わたしが宮さま方の管弦に混じるって聞いたらさ、先輩方が、『何がなんでも素晴らしい演奏をしてきなさい!』ってうるさくって。『下手な演奏したら、桐壺の恥ですからね!』って圧がすごいのよ」
そりゃあ、わたしだって上手に演奏したいけどさ。桐壺の恥とまで言われたら、頑張って練習しておかなきゃいけないじゃない。
準備した琵琶を持って座る。
撥で絃をベベンと鳴らし、転手を回して絃の張り具合を調整して音を直す。
「……って、ちょっと待て! 今から鳴らすつもりか?」
「なによ。今からでも練習しとかなきゃ間に合わないでしょ?」
今からでも時間が足りるかどうか。
寝る間も惜しんでやらなきゃ、桐壺の恥っていうか、わたしの恥になっちゃうじゃない。
焦る孤太を放っておいて、ベベンベンベンと琵琶をかき鳴らす。
――うん。悪くない。悪くないわ、わたしの腕。
悦に入り、琵琶を鳴らし続ける。
「やめろぉ。怨霊でも呼び寄せるつもりかぁ!」
耳を塞いで突っ伏した孤太。なによ、失礼ね。この楽の音の素晴らしさがわかんないの? アンタは。
ベン、ベベン、ベンベン。ベーン、ベンッ!
ほら。この音のどこが怨霊を呼び寄せるってのよ。って、あれ?
「――女房どの。ご無事でありますか?」
なぜか庭からかかった侍の声。ドカドカガシャガシャ。侍の着けてる甲冑の音のほうが、「なにごと?」って気にさせるんだけど。……ご無事ってなに?
「他の女房方から、なにやら恐ろしげな音がこちらの曹司からすると申されまして。怨霊でも現れたのではないか、美濃どのはご無事かと騒がれまして」
は? 怨霊? 恐ろしげな音?
「美濃どの?」
「だだだ、大丈夫っ! 大丈夫ですからっ!」
それってわたしの琵琶の音が怨霊を呼び寄せてるって思われてるってこと? そして、侍はそれを案じて推参したってこと?
「おっ、怨霊っ! よ、呼び寄せ……っ! アッハハハハッ……!」
うつ伏せになってたはずの孤太が、ひっくり返って腹を抱えて大笑い。よっぽどツボに入ったのか、足をバタバタさせて、右に左に体を転がす。
――怨霊ならここにいます! とっても腹立つ化け狐が! とか言ってやろうかしら。侍にこのムカつく狐をバッサリやってもらうの。
下手なことは知ってるけど、ここまで笑われると腹が立つ。