木蓮屋敷 1
「人攫いが出る」という噂を聞いたのは昨年の秋頃だった。
働いていたマッチ工場での噂話だったが、それから時折その話題が蒸し返され、
たびたびわたしの耳にも入ってきた。
なんでも、美しい女が娘っ子を攫うのだとか、洋装の紳士が隣町をうろついていたと思うと娘が三人姿を消したのだとか、怪しげな話が囁かれていた。
その話をわたしはどう受け止めただろう。
狭い長屋住まいで尋常小学校を出てすぐに近くのマッチ工場に働きに行かされているわたしにとって、その話はけして恐ろしくてたまらないものとも言えなかった。
もちろん不気味さ空恐ろしさはあるものの、どこか惹かれる面すらあった。
この倦むような、うんざりするような今の暮らしはいつまで続いて、
わたしはいつまでここでこんな風に生きてそして死んでいくのだろうと思っていた。
父は、私が産まれる前に母を捨て、母はたった一人でわたしを育てたという。
その事を何度聞かされ何度父への恨み言をぶつけられたか。
数年前母は新しい男の人と親しくなり数年はその小父さんと一緒に暮らし、
わたしには父の異なる弟妹が産まれたが、いつの間にか小父さんは帰って来なくなり、
家賃を払えず住んでいたところを追い出された。
今の朽ちかけたような長屋に移って三年になる。
一番下の妹を産んで以来体調を壊した母はもはやろくに働きにでることもできず、
家で籐の草履を編む内職をしている。
わたしがわずかな賃金とはいえ働かなければ家族四人は行き倒れになるだけだ。
でも、こんな暮らしいつまで続ければいいのだろう。
人並みな縁談など来るとも思えず、なんの希望もなくただ無為に日々を過ごすだけだった。