悲しみとレモン別れのキス
「知ってる? はじめてのキスってレモンの味なんだよ」
訳知り顔でそう言う彼女は、既に“はじめてのキス”を知っているのだと伝えられて思わず僕は眉を顰めた。
「そんなわけないだろ、本当に単純で羨ましいな。苺食ってたら苺の味だろうし、ニンニク食ってりゃ最悪の思い出の出来上が」
最後まで言わせてもらえることなく、その時僕は彼女に殴り倒された。パーじゃなく、グーで。とんだゴリラである。
あの時いっそ強引にでもキスしておけば、未来はまた変わっていたのかもしれない。
けれど実際は、意気地のない僕は彼女の腕を引っ張って引き留めることすら出来ず。そっぽを向いてしまう彼女の、一瞬見えた横顔にきらりと光る涙が見えたのは、眩しい夕日が見せた勘違いだったのかもしれない。
それから互いにぎこちない関係になってしまった僕達は、そのまま卒業を迎え、進路は別々だった為それっきり。
まさかの再会をしたのは、それから何年も後のことだ。
運動神経抜群で、勇ましい彼女とは反対に細やかなことが得意だった僕は、元から興味のあった製菓の職に進み、まだまだ未熟ながらもパティシエとなっていた。
お菓子は趣向を凝らせば凝らす程美しさに磨きがかかり、僕自身が努力すればするほど成果が上がる為、遣り甲斐のある仕事だった。逆に怠ればすぐに腕が鈍るのを感じる、厳しい世界でもある。
そんな風に一日一日を必死にお菓子に向き合って研鑽を積んでいた頃に、店が提携している結婚式場からウェディングケーキの依頼が来た。
僕も職人として中堅となっていたので、任されることもよくあったが、今回は式場の方から僕をご指名。しかもケーキの内容もかなりリクエストが細かく書かれていた。
ウェディングケーキは、味は当然だがケーキ入刀シーンが花形である為、見た目に大層拘る花嫁さんも多い。
当然メインは見栄えのする苺が人気。その次にカラフルな果物が続いていくが、ごく稀に二人の好物だから、とチョコレートケーキを希望される方もいる。
しかし、今回のリクエストはレモンのケーキ。理由は花嫁の好みらしい。変わったリクエストだな、と思いはしたがそれでも勿論、見た目も味も完璧で喜んでもらえるものを作るのが、僕の仕事だ。
二段のケーキには、ごくごく薄いレモンイエローのクリームでデコレーションしていく。スポンジにも当然レモンの皮を細かく刻んだものをいれる。飾りは銀色の細かなドラジェだけ、というシンプルなものだがたっぷりとしたクリームが、花嫁のドレスのように優美なドレープを描き光が当たるとドラジェが反射して夢のように彩られる、美しい一品となった。
出来栄えに僕は満足して、結婚式場へと搬入した。そこに、彼女がいた。
「えー! 久しぶり! 元気だった?」
花嫁にパティシエとして一言お祝いを、と向かった部屋で再会した彼女は、まだドレスにも着替えていないごく普通の女性のように見えた。しかし、その表情は溌剌としていて、今日の主役に相応しい輝きがある。
「素敵なケーキ! ありがとう、パティシエの一覧の中に名前を見つけた時に、もしかしたら、と思ったんだけど、本当にあなたに作ってもらえるなんて嬉しいわ」
溌剌とした笑顔を浮かべる彼女は、本当に美しい。
「……結婚おめでとう」
「ありがとう」
ようやく絞り出した声でそう告げると、彼女は柔らかく微笑んだ。
式場を出ると、大きな鐘の音が鳴り響く。
荷物の中には、飾り用に持ってきたレモンの残りが転がっていて、僕はそれを手に取る。
「……本当に、おめでとう」
そう呟いて、レモンの表面にキスをした。