7. 撒き餌に食いついてしまった
「それに、しおちゃんの大好きなものも用意してるんだけどなー」
ちらりと窺う母の顔は少しだけ得意気だ。
対して史織の温度は低下中である。
「……私はSHAPに興味は無いんだけど」
「違う違う違う〜」
肘を張り、首を左右に振る仕草はとても成人済の子を持つ親には見えない。自然と眼差しが生暖かくなるのも仕方ないだろう。
そんな史織の心情はさておき、母は人差し指をぴっと立て勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「凛嶺旅館の特室よ!」
──凛嶺旅館
それは旅行ファンの間で一目置かれる、格式高い老舗旅館の名である。
一般客への宿の提供とは別に、特室と呼ばれる他の客とは隔絶された安らぎの空間……
「絶対に予約できないのに?!」
当然の如く史織は食いついた。
何故なら史織は趣味、旅行。そして趣味が高じて旅行会社に就職までしたのだから。
勿論コネも何も無く入社したので平社員である。入社二年目の、まだまだ仕事も新人に毛が生えた程度のものにしか携われないし、企画審議が通った通らないで一喜一憂しているような状態だ。
そしてそんな企画書のグレードを上げる為にも、史織の趣味は仕事に大事な材料となる。
凛嶺旅館の噂は業界でも有名だ。
一般枠でも簡単に予約が取れない上、特室は一生に一度縁があるかないか分からないとまで言われている部屋。一見さんは絶対に入れないなんて話もあり、旅行ファン心理を擽る、憧れの宿である。
しかもかの旅館は史織が勤めている会社は付き合いが無く、記事すら取り扱わせて貰えない。
旅行会社も限られており、勿論メディアお断り、絶対き入り込めない超プライベート空間。
憧れの宿──凛嶺旅館……
旅好きであり、好きが高じて仕事にまでなった史織には是非一泊させて欲しい宿屋である。
「ふふーん、お母さんがSHAPのLIVEに行きたい気持ち、少しは分かったんじゃないかしら〜?」
「うぐっ」
確かに良く分かる……
「……り、旅館に泊まって、何を調べるの?」
史織は視線を彷徨わせながら、ぼそぼそと口にする。
「違う違う、それじゃ内情なんて分からないじゃない〜?」
「え……?」
しかし母は立てていた指先をチッチッチと左右に振ってから、きらっと瞳を瞬かせた。
「ずばり、潜入捜査よ!」
……何を言い出すんだろう、この人は。
二人の間に微妙な空気が横たわる。
「……あのね、お母さん……どうやって? 流石に私、そんなのはテレビドラマでしか見た事無いんだけど……一宿泊客じゃ無理な話でしょう?」
「ふふん。だから〜、宿泊客じゃないんだな〜。しおちゃんには凛嶺旅館に仲居として潜入して貰います!」
びしっと史織に人差し指を突きつけて。
母は無謀を言い切った。
「……えっとあのね、私も苗字が千田なんだから、バレちゃうよ」
「大丈夫大丈夫! 別名をちゃんと用意してあるから!」
「ええ……?」
何て本格的なんだろう……
「こういう時こそ、使え! 千田の権力ってね!」
無駄遣いも甚だしい……
「でもね、こういう場合、架空の人物とかは駄目なんだって。で、美鶴のね──」
美鶴、母の妹の事である。
「別れたご主人の妹の娘さんの名前を借りるのよ!」
────?!
「ちょっと待って、何それ。誰よ?!」
突然出てきた見知らぬ人物の名前に頭がさっぱりついていかない。ついには混乱に声を張る。
「だから〜、美鶴の元旦那の妹──の、娘さん。彼女も結婚して苗字が変わってるから、その娘さんまで辿り着かないと思うの」
「えーと」
だからと言われても。何故こちらが物分かりの悪い人みたいな扱いをされているのか分からないが……
構わず話を続ける母に頭を抱えたくなる。
「美鶴叔母さんに離婚歴があるのは知ってるけど……」
「うんそう、でね。あの子ったら、その元ご主人の妹さんと仲が良くてね、今も交流があるらしいのよ」
「そうなんだ、それは凄いね……」
この一言に尽きる。
普通そんな間柄、気まずくなりそうなものだけど。
しかし美鶴叔母さんという人を思い浮かべ、彼女ならそんな人間関係も築けそうだなと、妙に納得してしまう自分もいる。
急に出された弟の名前に、気づけば史織は即答していた。だって他に適任者がいないような事を言っておいて。
ミッションをやり遂げる自信は無いが、旅館には行ってみたい。どうしても。
という訳で史織は観念して居住まいを正した。
「彼女がいるか、見てくればいいのよね?」
それなら誰か人を捕まえて、聞いてみれば分かるかもしれない。というか、それ位しか思い浮かばないけれど……
史織が方法を模索していると、母は合わせた両手を頬に付け、にっこりと身をくねらせた。
「そうよー。住み込みの仲居として、潜入捜査よー」
「え……」
史織は思わず固まった。
「……住み込み? どさくさに紛れて入り込む。とかじゃなく、て……?」
固めていた決意から、ふしゅーと何かが抜ける音がして。
「やるって言ったわよ、ね?」
母の止めの一言が、頭に響いた。