37. 逃走
「どうですか、この辺の紅葉はとても綺麗で……」
そう言って振り返れば、目を細めた昂良と目が合った。
それが何となく居た堪れずに、つい言葉が途切れてしまう。
「そうですね」
そう言って隣に立つ昂良から逃げるように一歩離れる。
不思議な事にこの人はこうして距離を取ろうとすると喜び、近付いてくるのだ。
(変わった人だなあ……私が遠慮してるように見えるのかしら……)
にこにこ笑う昂良に愛想笑いを返し、史織は俯きながら先導する。
「ねえ、史織さん。知ってます? 麻弥子さんと兄のお見合いの件は白紙になったんですよ」
「あ、」
先程朔埜が断ると言っていた話。もう話が纏ってしまったのだろうか。流石にこれには驚きを隠せない。
「でも、大っぴらに破談という訳では無いんです。うちにとっても千田との縁は重要ですから。内々で済ませようと思いましてね、だから俺が直接話しに来たんです」
そう言って昂良は唇に人差し指を立てて、片目を瞑ってみせる。
そんな可愛らしい仕草も様になっているのだから大したものだ。けれど、その話はついさっき決まった事でもないようだ。
破談ではないけれど……結局朔埜は乃々夏さんを選んだという事だ。
その事が史織の心を重くする。
「……そうなんですか。麻弥子ちゃんは、落ち込んでいませんか?」
「ええ、それは。大丈夫そうでしたよ?」
「なら良かったです」
そう言ってほっと息を吐くと昂良は少しだけ意外そうな顔をして、やはり嬉しそうに表情を緩める。
「良かった、俺の未来のお嫁さんは、とても優しい人のようだ」
「……」
え、と声も出せないまま昂良の顔を凝視してしまう。
「麻弥子さんは……うちの母と気が合わなそうだったんです。だから……」
「ち、ちょっと待って下さい!」
両手を前に翳し、史織は困惑のまま後ずさる。
「四ノ宮の当主ではなく、弟の俺ですから。そうなると、千田家も後継者の子ではなく、あなたが適任という事です。麻弥子さんのお父上が後継戦に勝たれ、彼女には相応しい相手が別に決まりましたから」
千田の令嬢、麻弥子には婚姻は大事な縁だ。父親が後継に決まったのなら、背景を固める縁が重要になるだろう。かと言って四ノ宮への体裁も無視出来なかったという事か……
合理性という言葉が頭を過ぎる。
確かに言い分は分からなくもないが。
すらすらと言い募る昂良に向けていた両手のうちの片方を下ろし、それを額に添えた。
気持ちは追いつかない。
「私は……聞いていません」
「ええ、俺が直接話したかったんです」
そう言って、じりと近付く昂良に顔を向ける。
「……私、あなたの事、何も知りません」
「お互い様ですよ、俺もです。けど両家がこれに乗り気なんです。あなただって両親やお祖父様の望みは叶えたいのではありませんか?」
史織は眉根を寄せた。
確かに両親も祖父も、史織を悪いようにはしないだろう。だからこの縁を悪いものと判断しなかった。でも、
「私は出来るだけ、自立したいので……両親が私を結婚させたいのは知っていますが、その、今はまだ……」
勝手に決められて、史織は嬉しくない。
今なら少しだけ分かる。
朔埜が後継の立場で縁付く事に悩む気持ちが。
少なくとも史織は自分の意思が追いつかない事に、責任は負えない。
「決まった相手がいないという事なら、お互い歩み寄る努力をすれば……」
「いえ、そういう事ではなくてですねっ」
思わず昂良の言葉を遮り、声を荒げてしまう。
はっと息を飲み、恐る恐る顔を上げれば昂良はやはり嬉しそうに史織を見ている。
「あの、私はあなたの期待に応えられません。から……」
「──何故ですか?」
柔らかく静かな声が、史織を上から圧迫する。この人も人の上に立つ立場なんだと、改めて身体が急に強張った。
「せめて直接、両親に話をしてから……」
「必要ありません、自立したいなら、結婚くらい自分で決めて構わないでしょう。──それとも俺に不満があるとでも?」
じりじりと追い込んでくる昂良に、史織は根を上げたくなった。
「違います、そうじゃなくて……他に好きな人がいます」
「それは……」
正直言いたく無かったけれど。
そう言えばもう踏み込んでこれないと、そう思った。それなのに何故、この人は更に嬉しそうに史織に迫るのか。
「近寄らないで」
「大丈夫、気にしないで。その相手を心に残したまま、俺のところに来て下さい。ちゃんと幸せにしますから」
ひく、っと自分の頬が引き攣るのを感じた。
何だろう、この何を言っても通じない、もう決定事項という雰囲気は。
彼を良い人そうだと思った自分の感性を叩き割り、一から構成し直すべきだと、頭の中で喚く自分がいる。
(ああ、本当に私って。見る目が無いわ!)
見回せば紅葉狩りなんてしているのは自分たちだけだ。この旅館は広い。従業員はイベントの手伝いに奔走している最中だし、旅行客は観光名所で各々の時間を楽しんでいる頃だろう。
どうしよう……
スマホの警備システムを使うべきか。
……けれど相手はこの旅館の関係者だ。それは問題があるのではないだろうか。それに史織が怖いと感じているだけで、昂良には史織を傷付ける意思は無いようにも思う。
「史織さん」
名前を呼ばれ、びくりと反応したその時、視界の端に竹林が目に入った。
……ここはもしかしたら、この旅館に来たばかりの時に迷い込んだ場所かもしれない。だったら上手く逃げれば自室に逃げ込んで立て篭れる。
ごくりと喉を鳴らし、出来るだけ温和な声を出す。
「……私や麻弥子ちゃんの他にも、千田家には未婚の女性がいますから」
それから史織はばっと踵を返し、脱兎の如く駆け出した。
「史織さん!」
追いかけてくる声を聞きながら、史織はとにかく走った。後ろに迫る昂良を躱したくて、整えられた樹々の隙間に身体を捩じ込み垣根を飛び越え先を急ぐ。
ようやっと辿り着いた竹林を進み奥へ奥へと進んで行けば、見知らぬ場所へと辿り着いた。
「あ……れ……」
違う、ここは自分の部屋へ続く道では無い。
そこには小さな庵がぽつりと一つ、佇んでいた。
どうしようかと躊躇うも、よく見れば中から煙が立ち上っている。誰かいるのかもしれない。
一縷の望みを掛けて、史織は庵に飛び込んだ。




