32. 不和と企み
「あ……」
「あら〜、逃げちゃったわ? 朔埜が追い出すような真似をするから〜」
確かにここから立ち去るべきだと背中を押したけど、何だろう。何故か胸がもやもやするのは……
ころころと笑う乃々夏にむっと顔を顰めていると、昂良が顎に手を添えてにやりと口元を歪めた。
「自分の立場を弁えたんだよ」
「勝手な事言うな、あほ」
じろりと睨めば異母弟はキザったらしく肩を竦めてみせる。
どうせ史織の仲居着を見て彼女を使用人扱いでもしているのだろう。
「誰だか知らんが、お前は乃々夏さんと結婚すればいいんだ。いつまでも身を固めずふらふらして、悪い噂でも立ったらどうするんだ」
低く告げる父に朔埜は鼻で笑って返す。
「……人に事業関係の縁談を押し付けておいて、何を言ってるんですか。そもそもあなたの結婚観なんて聞いていません。自分が失敗したからって、その価値観を俺を押し付けるのは止めて貰えますか?」
「何だと?」
「幸せな結婚生活を自慢したいなら、自分の息子に好きなだけしたらいいでしょう」
「あらあら、もう〜、朔埜ったら〜」
父と義母、弟の昂良は東京に住んでいる。
そんな中で彼らとどう関係を深めていけばいいのか、朔埜には分からない。そもそも父に関しては会ったその日から嫌いだ。
自分と良く似た容姿で、嫌でも血縁者であると分かってしまう。
その顔で恋した母を子どもごと捨てておきながら、今こうして白々しく自分の前に立っている。自分の全てを否定しておきながら……四ノ宮に必要だからと父親面をするようになったのだ。
ただ、昂良の事は、よく分からない。
「千田家との事を気にしているなら気にしなくていい。昂良がいる」
「──は?」
弟の事を考えていた矢先にその名を口に出され、何だか嫌な予感が胸に湧く。その気持ちのまま眼差しに険を乗せ、父親を睨んだ。
「まあまあ兄さん」
とりなすように自分と父親の間に入る昂良に苛立ってしまう。
(……こいつは一体、何を考えているのか)
確かに東京で手広くやるのなら、その地で根付いている家と縁付くのが良い。婚姻による家同士の繋がりは、昔から取られた手段であるものの、形骸化するには上がる声は途切れないからだ。
「兄さんには東郷が、俺には千田が必要だってだけだろ。そうピリピリするなって」
「……」
裏表なくそう話しているのだと思えないのは自分の見方が穿っているからだろうか……そもそも昂良との関わりは薄く、どんな人物か詳しく知らない。けれど朔埜からは好意的な目で見られない。弟、と言われるも、それが何であるかも、出会った時からいまいちよく分からないでいる。
確かに千田の婚姻を昂良が引き受ける事にメリットはある。けれど、それは朔埜が乃々夏と婚姻する事が前提だ。
(昂良は史織の事は知らんと思ってたけど……)
ふと過ぎる嫌な予感。
昂良は、朔埜が千田 史織に執心している事を知っている。千田と縁を結ぶなら、自然と史織にも近くなる。
(つまりそういう事か?)
──弱み、という単語が頭を過ぎる。
鼻息荒く昂良を睨めば、弟は、おーこわ。と戯けた風に両手を上げた。
「ただの政略結婚だって。仕方ないって事くらい兄さんだって分かると思うけどなあ、立派な後継者になるのは四ノ宮の為、お祖父様の為なんだから。だろ、兄さん?」
「……んな事は言われなくても分かってる」
自分が四ノ宮の後継者の資質を持つと知った時、継ぐと頷いた時の祖父の顔は今でも忘れられない。
安心して隠居して欲しい。代々受け継ぎ守ってきた理を、自分の代で全うし、必ず次代へ繋ぐのだと。……そう決意したのだから。
その為に乃々夏との結婚は朔埜には必要なのだ。
愛情だって必要なら育めばよい。
それだけだった……
史織と会うまでは──
「ほらね父さん、やっぱり兄さんはちゃんと分かってるよ。言った通り、千田の縁談は俺の名前で進めてくれて構わない」
「本来なら、望まぬ縁談をお前が受ける必要は無いと言いたいが……お前が気に入ったというなら話だけでも聞いてみればいいだろう」
「……」
父の声をいらいらと聞きながら、纏まり掛けていた思考が霧散するのを感じる。同時に目の前のやりとりを茶番のようだと鼻白んだ。
千田家との縁談は東京進出中の四ノ宮にとって良縁だろうに。きっと千田 麻弥子という女性を父は気に入らないのだろう。朔埜は勿論、彼女の情報を持っているし、父が内密に調べた事も知っている。
朔埜に難癖でも付けたいのかと思っていたが、昂良が関心を示していたからか。特段文句は無さそうだ。
それにしても父の話を聞くのは相変わらず気分が悪い。母や自分から目を逸らし、自分が完璧な主張をしていると言いたげで。
「……あほくさ、好きにしたらええやん。乃々夏、話があるから後で……三芳の部屋に来い」
「……分かったわ〜」
「お前、何だその態度は!」
「まあまあ、父さん」
「止めて下さいな〜、おじ様」
ふんと鼻を鳴らし背を向けて歩き出す。
……変わらず騒がしい背後から意識を離し、既に朔埜の心は史織に向かっていた。
その背を見て一人、込み上げる笑いを抑えられ無い人物がいる事に、朔埜が気付く事は無かった。




