30. 四ノ宮 水葉②
「なあ、史織さん。あんたはあの子に二親がいない事を知っておるかね」
突然の話に固まってしまう。
「いいえ……存じませんでした」
「そうか……ああ、失礼。何というか……親はいるんだが、育てて貰えんかったんじゃ。その片方は儂の息子じゃけどな。不憫な事をしてしまった」
史織は思わず息を詰めた。
史織は両親と一緒に過ごしてきたし、勿論養育して貰っていた。学生時代、片親の子には会った事があるけれど、二親に恵まれない話は初めて聞いた。
「それは、大変でしたね……」
水葉は苦い笑いを零すのみだ。
史織も他に何と言っていいのか、分からない。きっと史織では分からない苦労に耐えてきたのだろうし、易々と掛けられる言葉は無いだろうけれど。
──水葉は、そうだな。と静かに頷いた。
後悔をしているようで、ただ昔話をしているだけのような。そんな流れで彼は続ける。
「それでも儂はあやつに旅館を継ぐ事を望んだ。勿論儂の勝手な願望じゃが、そこで幸せを見出して欲しいと思ったのも事実じゃ。──仕事を通してでもいいから、家族の温かみを知って欲しかった。乃々夏さんの事情は、朔埜に合ってると思ったんじゃ。
……あなたは朔埜と乃々夏さんが婚約関係にあるのは知っているかな?」
その言葉に史織は固まった。
「いえ……その、恋人がいるような話は聞いてきたのですが……」
恐る恐る口にすれば、水葉は軽く頷いた。
「まあ、話が頓挫しておってね。今回のような見合い話が舞い込んだんじゃよ。破談だと噂する輩もおったから、もしかしたら先方は知らんかったのかもしれんな」
何でもない風に水葉は言うけれど、史織の心臓はばくばくと鳴っている。
「そう……なんですね。じゃあ、若旦那様はやはりその、乃々夏さんと──」
「──分からん」
きっぱりと首を横に振り、水葉は軽く息を吐いた。
「儂は二人が寄り添い、認め合い、支え合ってゆくのだと思った。あの二人は賢い。きっと上手くゆく。これでも儂は人の目を見る自信があったからな。でも、出会ってしまったから……」
秋風を受けながら水葉は、ははと笑う。
水葉の行為は間違いなく愛情によるもの。上手く嵌れば皆幸せになる。間違いなくそれを願った。
「けれど朔埜があなたと出会い、違う可能性が生まれてしまった。あやつは儂が示した道の先にある幸せの。そこにいる人々の分も見越しておる。だから……いずれを選んでも……後悔は、あるだろうなあ……」
「私……ですか?」
困ったように笑う水葉と視線が絡む。
自分は朔埜が迷うような、そんな何かをしてしまっただろうか。
思わず考え込むが、とんと思い当たる事がない。
「こういう状況になって、やっと儂は朔埜が揺れる事は悪くないと思った。何もないままなら、儂が進めた道をあやつは悩まず受け入れるだろうから。けれどそれをしてしまったら、もう戻れない。例え間違えたと感じても、あれは己の心を殺してそのまま進むだろう。それは良くない。だから、あなたにはお礼が言いたかった」
「お礼、ですか?」
急な話にびっくりする。
何もした覚えもないのに……
「朔埜に一つ、人間臭い感情が増えた事」
「……?」
「あれは、受け入れるのは得意なんだ。……必死に抵抗しているのは、あなたが初めて」
「は、はあ……」
褒められているのだろうか。
にやりと笑う水葉に朔埜の顔が重なる。
こんな時だけど、ああやはり血縁者なんだなあ、なんて思ってしまう。
「ホールに着いた」
「あ」
散歩は終わったようだ。
「後はあなた次第、かな」
その言葉に史織は水葉を見上げた。
目を細めるだけで、全て見透かされるように感じるのは何故だろう。
「朔埜はあそこにいるよ、話しておいで」
「あ……ありがとうございます……」
史織が聞いて良かった話だったのだろうか。
朔埜の事情。けれど聞けて良かったと思う自分がいる。
朔埜が好きなのだ。彼について知りたい。
そして自分の状況も説明したい。これ以上迷惑は掛けたくないから……
水葉の厚意に頭を下げ、史織はホールに足を向けた。
「もう一つ、厄介なものに絡まれるかもしれないが……それも朔埜にもあいつにも、必要な事だから……」
その背中を見送り水葉はぽつりと呟く。
「すまんな、史織さん」




