21. そ、それは憧れの……
「──と、いう訳ですので藤本君とは何でもありません。たまたま会ったから挨拶をしただけですし、これからは旅館のご迷惑にならないよう、細心の注意を払いますので」
にこりと告げると、朔埜ははっと意識を戻し、真顔のまま頷いた。
「そういう事なら、分かった。──けど……会いたいとは、思わへんのか?」
その言葉に史織はぱちくりと目を瞬かせた。
勿論いつか会えたらと思っている。
けれどそれは現実味のない「いつか」で、それに肯定するのは何だか夢見がちな気がするのだが……
いや、それを言うなら、通りすがりの人物に心酔している時点で、史織が怪しい言動の持ち主だと不審がられていてもおかしくないか。
そう結論付け史織は首を横に振った。
「いえ、流石にそこまでは……」
思ってないと続ける前に、朔埜の表情が常に戻った。
「……ふうん」
そうして懐手をして何かを考え込むように黙りこくる。
このままこの場を去ってもいいだろうかと逡巡していると、朔埜の携帯が震える音が聞こえた。
「もしもし?」
それに出た朔埜の顔は「若旦那」で、つい今迄史織に見せていた表情から一変している。
(私情と仕事を混合しないようにしているのね)
そう考えて、ふと頭を捻る。
──私情?
それはおかしい。史織は仕事上の注意を受けていただけだ。今受けている電話も、朔埜にはどちらも仕事。同じ筈だ。……けれど、
不思議と自分の判断に間違いが無いようにも見える……のは、気のせいか。
史織は、ぶんっと首を振った。
(気のせい、よ)
平手でぺちぺちと頬を叩いていると朔埜の話し声が聞こえてきた。
「──ああ、分かった。今から行くわ」
会話に区切りがついたらしい朔埜が向ける表情は、史織にとってはいつもの不機嫌顔。
史織は居住まいを正した。
「お前は花崎様からの呼び出しが来るまで掃除でもしとき」
「えっ」
忙しいのでは? という言葉は飲み込む。確かにこの場に不慣れな史織が手伝える事に大したものは無いだろう。面倒を掛けるのが関の山、だ。
けれど忙しい中、何もさせて貰えないというのは分かっていても寂しく思う。
勝手ながら消沈する気持ちを叱咤していると、朔埜がごほんと咳払いをした。
「──必要に応じて声を掛ける。お前は待機や」
「……え」
そんな歯痒い思いを見透かしたらしい言葉に、史織ははっと顔を上げた。
朔埜は眉間に皺を寄せて頑なな様子で視線を逸らしているけれど。これは、
(もしかして……照れているのかしら)
今迄見過ごしていた朔埜の表情に新鮮な思いが芽生える。それと同時に込み上げる温かい思いを胸で押さえ、史織はにっこりと笑顔で答えた。
「畏まりました、若旦那様」
「っ、……ああ。それじゃな」
はっと息を飲み、朔埜は慌てて踵を返して行った。
その背中を見送りながら史織は呟く。
「メモに、書かなきゃ」
調査メモへの追記。
──優しくて、照れ屋。
◇
それから五日、史織は朔埜を見かけてはメモに残していった。新たな発見をしては嬉しくなる。
例えばおじいちゃん子。
ちらりと見た四ノ宮の現当主は、灰色の髪を角刈りにした快活な雰囲気の人だ。そんな祖父に揶揄われている朔埜は照れているのか、口元をむすりと引き結んでいた。
でも祖父を見る目は優しい。
(愛情の表現が子供みたい……)
ふふ、と笑みを溢しメモ帳に書き連ねる。
朔埜の調査メモは日に日にページ数を増やしていく。
にたにたしながら歩いていたせいか、前方不注意で油断していた。
「西野、さん?」
掛けられた声に史織ははっと息を飲んだ。
「藤本君」
慌てて辺りを見回して周囲を探る。仕事以外で話し込む事は、旅館の者だけでなく、お客様にもどう写るか分からない。先日朔埜に連れ去られた後、三芳からきっちりと注意を受けた。
公私混同ダメ絶対。
史織は困った顔で藤本に笑いかけた。
「あのね、仕事中に声を掛けられるのは、困るんだ」
「──うん、ごめん分かってる。だからさ、仕事上がりに少しでいいから時間を貰えないかな? 話したいっていうか、相談したい事があるんだ」
……それは、何だろう?
史織が首を傾げていると、藤本も困り顔で笑う。
「その、西野さんを見かけてつい懐かしくなっちゃって。まだ社会人二年目ってのにもう学生時代を懐かしむのも早い気がするけど……実は研修中に同期が退職するって話になってさ。なんていうかモチベーションが下がっちゃったんだ。気分転換ていうか、誰かと話したくて……どうだろう? 西野さんの話も聞くよ?」
「え、と……」
そういえば藤本の会社の研修は明日で終わりだった。できれば期間が終了するまで会いたく無かったのが本音だが、藤本は史織の頼みを聞いて西野と呼ぶように努めてくれている。なら少しくらい藤本に付き合ってもいいだろうと判断する。
史織はこくりと頷いた。
「少しなら……」
そう言うと藤本は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「研修は十八時までなんだ、西野さんは?」
「その、今日は十七時までだけど、明日早いのと、私も研修中なので消灯が二十一時と決まってるの」
そう言うと藤本は驚いたような顔をした後、じゃあと顎に手を添え考え込む。
「研修中に離れを一室貸し切ってるんだ。そこで話そうか」
「えっ」
その言葉に史織は両手を胸の前で組んだ。
それはもしかして、凛嶺旅館の憧れの特室の事だろうか? 史織の期待に満ちた顔に藤本がにっこりと笑いかける。
「じゃあそこで、十九時でいいかな」
「う、うん。分かった」
こくこくと頷く史織に満足そうに目を細め、そっとその頭を撫でる。びくっと肩が震え思わず藤本の顔を凝視した。
「あとでね」
「あ、うん……」
軽く手を振り、背中を見せる藤本を見送りながら。史織は自身の頭に触れ、違和感に身体を震わせる。
(何だろ?)
十月中頃から始まった仲居業も二週間が過ぎた。だからだろうか、急に感じた京都の冷え込みを払うように、史織は自身の肩を摩った。




