17. 婚約者と初恋
ひぃっ、と喉の奥から迫り上がってきそうな悲鳴を飲み下し。
「も、も、申し訳ありません!」
(何この人、怖い!)
史織は再び頭を下げた。
目の前で不穏な気配を撒き散らす朔埜に、震えが止まらない。
(麻弥子ちゃん、あなたのお見合い相手はとても怖い方です……)
部屋に戻ったらメモ帳に書いておこう。
忘れようと思っても無理な気がするけど。
「こんなんでちゃんと働けるんか怪しいもんやな」
みしぃっと音の鳴る竹箒を片手に、朔埜は意地悪く笑う。史織は途方に暮れた思いで再び謝った。
「申し訳ありません……」
……同じ謝罪を二度言うくらいしか出来ない。
それに挨拶すらまともに出来ないと叱責されるのは、結構辛い。しょぼんと肩を落とすと、朔埜は僅かに動揺を見せた。
「……これから、きちんと躾けて貰え」
「は、はい」
不機嫌そうに視線を彷徨わせ、そう告げる目の前の男性に微かな既視感を覚え首を傾げる。
(あれ、なんか……以前にもこんな事が……)
「……もうすぐ四ノ宮の宴会が始まるさかい。恥かかないよう、それまでに三芳と辻口にに作法を習うんやな」
──あったようなと思い返す前に、続く朔埜の言葉に史織は目を丸くした。
「四ノ宮家の宴会?」
「……やっぱ何も知らんのか……」
ぽつりと呟く朔埜を他所に、史織は内心で焦っていた。まさか自分の顔を知るような人はいないと思うが。
「それは、いつ頃……どなたが……?」
「三週間後や、それまで精進しとき。……ほれ」
そう言って腕を伸ばす朔埜に史織は意味が分からず困惑する。
「え、あの。何でしょう……?」
「箒や、掃け」
「あ、はい……」
腕の先にあるヒビの入った竹箒を恐々と受け取り、視線を逸らす。
……何か妙な勘違いをした気がする。
史織が密かに葛藤している中、ふっと笑う気配を頭上に感じたのと同時に、朔埜は踵を返して去ってしまった。
「何よ、もー」
へなへなと緊張が解ける中、史織はメモ帳に「性格、意地悪」と追記する事を誓った。
◇
「朔埜〜」
明るい声に顔を上げれば笑顔と共にこちらに手を振る女──
「乃々夏」
自分の婚約者だ。
口元に笑みを刷き、目元を和ませる。
どくどくと脈打ち、ざわめいていた心が凪いでいく──
「朔埜どうしたの〜? 何だか楽しそうね」
「……そうか? 別に、そんな事は無いけど」
「ふふ、いい事でもあった〜?」
「無いて……」
「ふうん、そっか〜」
そう言って腕に絡みつく彼女をそのままにする。
「ねえ、大旦那様に呼ばれちゃった〜。また結婚の催促かなあ〜?」
「……どうやろ」
断り切れない縁談が舞い込んでいる以上、それもありそうだ。乃々夏との縁を推したのは他ならぬ祖父なのだから。
「もう、そんなに急かさなくてもいいのにね〜。あたしたちにはあたしたちのペースがあるんだから〜。ねえ、朔埜?」
何の疑いもない顔でそう笑う婚約者。
朔埜は変わらぬ笑みのまま、彼女を抱きしめた。
「そうやな」
ぎゅうと返される抱擁に、心が軋んだ気がするのは、気付かなかった事にした。




