10. あれ、騙された?
史織は勤め人だ。
だから一ヵ月の間、理由もなく仕事を休めない。
だからそこは千田が根回しをした。
──『有名老舗旅館のおもてなしを知る』企画。
レポートだ。
半年程前に史織が提出してボツ案となった企画が通り、そのレポートを書くという、建前の仕事ができたのだ。
自分の欲望の限りを書き連ねた企画書だったので、かなり熱を入れて書いたのを覚えている。だからボツった時はがっくりと落ち込んだのだが、今更こんな形で日の目を見るのも複雑だ。
ただその記事が活かされるかどうかは正直怪しい。凛嶺旅館の許可を得られるのは、麻弥子と朔埜の婚約が成立しないと、それくらいのコネがないと難しい。
まあ、難しい話は置いとく事にしよう。
当事者でありながら他人事のような話ではあるが、既に現状にいっぱいいっぱいであるのも事実なのだ。
「西野 佳寿那です」
そんな事が頭を掠める中、史織は偽名で挨拶をした。
千田の事を考えていたら、少しだけ冷静になれた気がする。
ついでに大学時代、着物の着付け教室に通って良かった、とか。その流れで礼儀作法の初級講座を受けておいて本当に良かった、なんてそんな思いが頭を駆け巡った。
「どうも、おこしやす。頭を上げて下さいまし」
三つ指をついて史織が頭を下げていると、頭上から澄んだ、けれどぴしりと厳しい声が響いた。
四十代後半くらいだろうか。案内人に三芳と呼ばれていた女性は、書き物をしていたらしい手を止めて、眼鏡を外し史織を見た。
「西野さんですってね。あなたの教育係を務めます、三芳といいます。葦野様に頼まれたら、うちかて嫌なんて言えまへんけど。来たからにはきちんと教育せな、凛嶺旅館の──四ノ宮の名前に傷が付くさかいに。きっちり躾させて貰いますわ」
「は、はい。よろしくお願いします」
葦野、というのは、伝手を得るために用意した名前だろう。……史織がここに潜入するだけで、どれだけの人が関わっているのか……しかも中味は、ただのお見合い相手のリサーチである。
(割に合わないような)
気がしなくも無くも無いが。
まあ、これも気にしない方がいいだろう。当人が気にしていない事を史織が気にしても仕方がない。
そんな事より──
折角凛嶺旅館に来れたのだから、是非特室にも足を運びたい。
この為に来たと言っても過言でもない潜入調査だが、実は自分が客じゃない事に史織が気付いたのは、つい今しがたであった。
──当たり前だが寛げない。
(これって詐欺って言うんじゃないのかな……)
目の前の三芳女史の貫禄に押しつぶされそうになりながら、史織はひっそりと母を恨んだ。




