第4話
休憩室の前を通った時、誰かに腕を摑まれた。島田七瀬は、自分が捕まえる側だと思っていたので混乱した。まさか自分から鬼に触れてくる者がいるとは想像していなかった。
「あっ、いや、これは……今まで誰もいなかったのにやっと人を見つけたからなんとか話をしたくて……」
松本徹平は言い訳をした。松本は過去、セクハラで訴えられそうになったことがある。女子社員の腕を掴まえたなんて知られたら今度はどうなるか分からない。
〇〇〇
―ちくしょう、鬼になったら部長クラス以上を捕まえてやるからな! あいつらどんな顔するか見ものだな。見逃して恩を売るのも手かもしれないな。
しかし斎藤部長には何かしてやらないと気が済まないな。俺をセクハラで左遷させて生産管理なんて職場に送りやがって。現場がノルマを達成しないのにこちらの責任になるんだからな。部下は使えないやつばっかりだし本当についてない。
それとも田中に「この間の昼飯代借りたのチャラにしたら見逃してやる」なんてのもいいかもな。案外鬼になるのもいいかもしれない。ん? 誰か通ったぞ。まさかあいつが鬼か?
確か新人の島田だったかな。まずいな、上司の俺を捕まえるかな? 俺は鬼になりたいから捕まえられたいが、新人が上司を捕まえられるか?
そうだ自分から「見つかってしまった」と認めてしまえばいいじゃないか。それに、こちらから見つかってしまえばいい。そうだそうしよう。早く鬼になって斎藤部長を探しに行きたいな―
〇〇〇
気持ち悪い。島田七瀬は一言そう思った。松本は上司だった。ノルマを達成しろ、それしか言わない。計画書や指示書の数字だけを突きつけてくる。みんなに嫌われていた。
鬼になりたいらしいがこいつとは絶対に入れ替わりたくない。島田七瀬は拒否をした。
感電でもしたかのように、松本徹平の手は離れた。感電した手を不思議そうに見ている松本を無視して島田七瀬は前に進んだ。
休憩室の中を覗いてみると、女子社員がいた。おかしい、松本は誰にも会わなかったと言っているが同じ休憩室の中に人がいるではないか。
もしかして、逃げている側はお互いに見えないのかもしれない。鬼にだけ、見えるようになっているんだ。島田七瀬は休憩室に入った。
浅井美樹は休憩室の椅子に座り、鏡を見てメイク崩れをチェックしていた。今日はまつ毛のカールが上手くいかなかった。やっぱりまつ毛エクステにすればいいかなと考えている。
テーブルの上には缶コーヒーがあった。飲み口にはコーヒーが少し付着していた。
落ちない口紅、のキャッチコピーで爆売れした口紅は、本当に落ちない。カフェで白いカップに注がれたコーヒーを飲んでも、カップのふちは白いままだった。缶コーヒーの飲み口にももちろんつかない。安心して、好きなものが飲める。
気配を感じた。鏡の中の自分の目から視線を、気配のするほうへ移した。知らない女がいる。
「誰?」
浅井美樹ははっきりと言う。怒っているわけではない。知らない者に愛想を振りまく必要はない。ただ単に、知らない女だから「誰」と聞いただけだった。
島田七瀬は自然と浅井美樹の手を掴んでいた。美人だ。それにはっきりとした物言い。自分にはないものを持っている憧れの存在に思えた。こんな美人となら入れ替わってみたい。
「捕まえた。次はあたなが鬼ですよ」
島田七瀬は静かに告げた。
〇〇〇
浅井美樹と入れ替わった次の日、七瀬は午後に早退をした。
浅井美樹を捕まえた瞬間、「かくれんぼ」は終わった。急に会社の中は日常に戻った。
一週間後に新しい「かくれんぼ」が始まるのを知っているのは島田七瀬と浅井美樹だけだった。
七瀬がなぜ早退をしたかというと、仕事がよく分からなかったからだ。今まで浅井美樹がやっていた仕事を同じように出来るわけがなかった。浅井美樹は七瀬とは全然違う仕事をしていた。周りにバレるのも嫌なので具合が悪いと言って早退をした。
しかし浅井美樹の記憶が半分くらいはあるようだ。スマホのロックは解除が出来たし浅井美樹のアパートに帰ることも出来た。
仕事も半分くらいは分かるが最後までやり切る自信がなかった。職場では知らない男性社員によく話しかけられた。さすが、美人は違う。
浅井美樹は不倫をしていた。生産管理の川口が相手だった。そういえば川口の手を掴まえた時に美樹という女と不倫をしている情報が流れてきた。まさかこの人だったとは。