第3話
島田七瀬は階段の陰に隠れていた。誰かが隠れているかと思ってそこに行った。
誰もいなかったが、ここに潜んでいたら不用心に階段を上っている人を捕まえられるのではないかと思った。
作戦は成功した。周りを警戒しながらも、私には気づかず階段を上る川口清を見つけた。
私はすぐに追いかけ、川口さんの手首を掴んだ。
―美樹はどうしているだろう。―
川口清の手首に触れた瞬間、流れてきた音声と感情。
「見つけた相手に触れると、相手の考えていることが分かります。一週間入れ替わる相手ですので、選ぶ権利はありますよ」
先ほど暗闇にそう言われていた。選ぶ権利、つまり相手の人となりを見て入れ替わるかどうか迷うことが出来るのだと解釈した。
川口清は華やかな外見をしていた。すらっとした体型に長身、顔立ちも「イケメン」に属するだろう。美人の奥さんは妊娠中という噂だ。
そして今分かった事実、事務所の美樹という女と不倫をしている。
妻の妊娠中に浮気をする夫というワードはよく聞く気がするが、その噂をそのまま実行している男が目の前にいる。
川口さん、イケメンだと思っていたのに。外見だけじゃ人は分からない。こんなにも爽やかな顔をして、中身がこんなに最低な男だったなんて。
「あっ」
川口清が逃げた。乱暴に私の手から離れて行った。
追う気はなかった。捕まえられたのに逃げるとは。ここまで最低な男でよかったのかもしれない。
私は川口さんが逃げた方向とは逆に歩きだした。
みんなどこに隠れているのだろう。川口さん以外に見かけた人はまだいない。
かくれんぼの参加者はあの時、居室にいた社員だけなのだろうか。他の課の人間は違うのだろうか。それに、この時間に廊下で誰ともすれ違わないのは珍しい。会議室や生産現場のドアは開かなかった。
女子更衣室から誰か出てきた。目が合った。私を見ても驚かない。
耳の下辺りで切り揃えられた髪の毛、感情のこもっていない目。更衣室から出てきた女を見て、私はぞくりとした。けれどもその女は逃げる様子がなかったので捕まえてみた。
本当に、いいのだろうか? 女の手を掴みながらも、そんなことを思った。
私に手を掴まえられてもなに一つ表情を変えない。
目を合わせるのが怖いので、私は視線を下にずらした。その女は手にとろろ昆布を持っていた。今、更衣室から持ってきたのだろうか。
〇〇〇
―私はわかめととろろ昆布をいつも持っている。社員食堂でうどんを食べている人に分けてあげるために。
分けるといっても知らない人にいきなり「昆布いりますか?」と聞くわけじゃない。親しい子に、分けてあげるのだ。
けれども私はそばにとろろ昆布を入れるのも好きだった。うどんのほうがメジャーだけれども、私はそばにも入れる。
袋からふんわり取り出して、そばに載せる。乾いていたとろろ昆布はおつゆに触れるとすぐに溶けてしまう。その時私は、わざととろろ昆布に触れないようにそばをすする。
幾らか食べてから、とろろ昆布に触れる。その頃にはもう、とろろ昆布は全て溶けている。私は少し寂しいような溶けて嬉しいような気持ちを抱えてそばをすする。
今日は朝礼中に変な放送が流れて「かくれんぼ」をすることになった。会社内を適当に歩いてみたが誰にも会わなかった。
今日は更衣室にわかめを置いてきてしまった。こんなことになったし誰もいないし、更衣室に寄ってわかめを取りにこれた、ラッキーだ。
え、誰? 今まで誰にも会わなかったのに。もしかして誰かが捕まったのかな? いや、私が捕まえられた? じゃあこの人が鬼? 私が次の鬼? めんどくさい―
更衣室から出てきた女、藤宮桃は思った。更衣室からわかめを取ってきてご機嫌だったところに現れた女は誰だろう、と。
〇〇〇
島田七瀬は少し怖かった。目の前の女の気持ちが一気に流れてきた。
とろろ昆布を配る女、意味が分からずに怖かった。それにこの違和感。これは普通の「かくれんぼ」とは違う。
なんの説明もないままに始まったゲーム。分からないことだらけだ。分からないことは怖い。みんな怯えている。けれどもこの女から恐怖は感じなかった。
この女とは入れ替わりたくない。七瀬はそっと手を開いて、その場から立ち去った。
よく考えたら入れ替わるのは女の人じゃないと嫌だけれど、今の人は嫌だな。
入れ替わって私の体でなにをされるか分からない。私もあの人にはなりたくない。なんだか思った以上に難しい選択だった。しかし誰かを見つけないと始まらない。