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[ʌntáitəld]  作者: N.river
11/34

白紙に虫 11

 ハアハア。ハアハア。

 破裂しそうな心臓に荒い呼吸が重なる。

 体力に問題はないのだから野津川は朝から全力で走っていた。

 ワークショップは一定の時間を過ぎると、途中から参加できないルールになっている。すっぽかしたところでペナルティーはなかったが、野津川に二度寝することはできなかった。

 選考結果が届いてからというもの、夜は眠れず朝が起きられない。ずれ込んだ食事は回数も時間もばらばらで、書きかけていた小説も放りだしたきり、病を気にかけるその前に生活は健全なリズムを崩しつつあると、外出するきっかけさえ失い始めていた。

 そもそも誰が面倒を見てくれるわけでもない野津川だ。そうするうちにも出し損ねたゴミは玄関に積まれ、たまりゆく洗濯物が風呂場を侵食していった。シンクに至っては汚れた食器が積み上がり、食べ残しの酸い臭いもうっすらこもり始めている。

 様子をマズイ、とは眺めていた。このままズルズルゆけば他人事だった担当医の心配こそ現実のものになりそうで、このまま唯一の「仕事」であるワークショップさえすっぽかしてしまえば次の予約さえ取ることもなくなってしまうのではないか。覚えた恐怖はついに野津川の許容範囲を超えた。

 急き立てられてて疾病センター前の緩い坂道を駆け上がる。門扉をくぐり、徐行するどのタクシーよりも早くロータリーを回り込んでフロアへと飛び込んだ。

 探すのはいつも事務局前に用意されているパイプ椅子のラックだろう。見当たらず、やられた、と目を細める。事務局の窓口にはモッズコートを引っ掛けた背のヒョロ高い男性が一人立っているだけだ。どこにも参加者は見当たらない。

「すみません。十時からのワークショップはもう入れませんか」

 不躾だろうとかまっている余裕がない。隣へ駆け込み窓口へ呼びかけた。

「無理なら次の、次の予約をお願いします」

 なら振り返ったのはほかでもない。モッズコートに応対していた事務局員だ。野津川へ眉をさげるとこう言ってみせていた。

「申し訳ありません。本日のワークショップですがリーダーの都合により急遽、中止とさせていただきました。昨日のうちにも一斉メールでご連絡させていただいていると思うのですが。なにしろ急なことで本当に申し訳ありません」

 え、と言う声も漏れないそれは不意打ちだろう。カバンへ放り込んできた携帯電話を、野津川は阿波踊りを織り交ぜ急ぎ取り出す。画面を突っつけばメールフォルダに疾病センターからのメールはあり、目にしたとたん「ああ」と声はもれていた。自堕落な生活と寝過ごし動転したせいだ。いつもならワークショップリーダーの声掛けを守ってチェックしていたはずも、今日に限って見ていない。知ってたちまち襲われるのはバツの悪さというやつで、ここまで死に物狂いと走ってきた秘密もあれば内心は恥ずかしいどころの騒ぎでなくなる。だからして膨れ上がる自意識のままだった。野津川は呆気に取られて見ているだろう視線を確かめる。おずおずモッズコートへ首をひねっていった。

 とたん、あ、と心の中で驚きの声は上がる。

 彼じゃないか。

 いや知っているのは野津川だけで、相手は野津川のことなど欠片も知らないだろう。先週、楽し気な様子にどうしても目が離せなかった二人連れの「彼」は、間違いなくそこにいた。

「いや、俺もでなんですよ。ホント、急でしたよね」

 来週はいつも通り開かれるらしい。

 駆けつけたせいでむしろ誰より早く予約を済ませる。

 それだけでずいぶん解消される不安など、果たして不安と呼べるものなのだろうか。つまりワークショップは不謹慎な野津川だろうと、すでに心の支えになっている様子だった。

「どうやらうっかりしているのは俺たちだけだったみたいですね」

 予約票をコートのポケットへ押し込み彼は投げかけている。

「みんなちゃんと見てるんだなぁ」

 返事をためらう野津川をヨソに、辺りを見回し頭おまたかいてみせた。面持ちは襟元からわずかに漏れる光のせいか、失態をもろともせず実にさっぱりしたものだ。きっと二十代に違いない。直線で構成された造りは精悍で、病をこれっぽっちも連想させるところがなかった。コートの中もよく見ればリラックス極まるスゥエットときている。それはもう病人というより陸上選手がトラックへ上がる前か何かのようだった。

「あ、ええ。みたい……、ですね」

「来週からは気を付けなきゃですね」

 比べて野津川といえば、不治の病にもかかわらず小太りで、笑い飛ばせずハラハラしながら駆けつけている。そりゃあ親身になってくれる彼女がいても当然だ。急に思えて、犯したばかりの失態も重なれば腹立たしさを持て余した。

「あ、もちろん参加は真面目な気持ちからで。冷やかしじゃあ。って言っても二回目で遅刻してしておいて説得力ないか」

 明かす彼には一方で、だからか、と気づかされもする。こうして気安く話しかけてくる彼はまだ、ここの「ルール」を知らない様子だった。

「しばらくは、こちらに参加される予定ですか」

 だからして野津川のかけた、それが初めての言葉らしい言葉となる。

 はい、とうなずいた彼は少し弱った様子もまたみせた。

「しろとうるさく言われてるんで」

 などと表情からも、野津川の第六感からも、勧める相手こそ想像は容易い。

「こちらへはもう何度か参加されてるんですか」

「まあ、ようやくふた月目、ってところですね」

「あ、えっと」

「野津川と言います」

 おかげで覚えた妙な対抗意識のまま、先輩風なんぞを吹かせ名乗っていた。

「野津川さん。<ruby>文倉<rt>フミクラ</rt></ruby>です」

 受けて頭を下げた彼の間合いに、体育系のにおいを感じ取ってもみる。

「あの、よかったらなんですけれど」

 そうして声をひそめた文倉へなんだろう、と耳を傾けた。

「いつもあんな風なんですか。ワークショップっていうのは」

 様子はまるで、二か月前の自分を見ているかのようだ。

 だからしてワーク中と終わってからの温度差についてを、野津川はここでも先輩気取りで説明している。経緯にははっきり口にしづらいこともあったが、ああなるほど、と察する文倉はすぐにも今の状況と照らし合わせ、話しかけて迷惑ではなかったのか、快活だった面持ちを初めて複雑としぼませた。

「僕も最初は面食らったので。気にすることはないですよ」

「すみません。いきなり」

「いえいえ」

 響きは間違いなく失敗した、と考えている。つまりこの辺りで切り上げるのが互いに最善で、久しぶりに浴びる日光で怪しげな気持ちをリセットしておこう。野津川も考えを巡らせた。

「それではここで」

 善は急げですかさず会釈を繰り出す。

 取ってつけたように文倉も、急ぎ一礼してみせていた。

「あ、はい」

 そうして上げた頭は互いが同時となる。上げてそれぞれ、足を踏み出した。が、そんな文倉の足を踏みそうになって野津川は踏み止まる。

「あ」

 避けて振った体がまたぶつかりそうになり、慌てて身を反り返らせていた。 

「その、時間が余ったので中庭でつぶして帰ろうかと」

 弁解する意味がよく分からない。

 それ以上に間も悪く、文倉もこう言っていた。

「あ、実は俺もそうしようと思っていたんで」

 ワークショップが終わる頃だ。見計らって文倉には車の迎えが来るらしい。そして残念ながら九十分もあるワークショップの時間を潰して埋める娯楽など、疾病センターにありはしなかった。

 せっかくだし、ついでに少し話していきますか。

 野津川が誘ったのは馴染めないワークショップのそれと違い、日の浅い文倉とならごく普通の会話ができそうだと思えたからにほかならない。そして文倉はといえば野津川へ、それまでの杞憂が失せたような会心の笑みを返していた。

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