8.取引
自称悪魔のこの男は、エリザベートの外見を作り変えてしまった。
最初は鏡に細工をしたのかとも思ったけれど、皇女の自室の鏡に手を加えることなどできるはずもない。
目の錯覚も疑ったけれど、明らかに身体が軽くて動きもスムーズであったことから体型が変わったのだろう。
自分の腕を持ち上げてその手首や指の細さに驚くが、その動きを鏡に映った女がそっくりそのまましてみせていることが、エリザベートに鏡の女が自分だと思わせる説得力を持たせた。
観察しながら動いて見れば、鏡の女はエリザベートと全く同じに動いた。もちろん鏡である以上、左右対称ではあるけれど。
鏡を見て動いていると、段々と男の言った言葉は本当なのかもしれないと信じ始める自分がいた。
「本当に、私をこの容姿に変えてくれるの?」
「君が望むなら」
「それで、お前の望みは?」
尋ねながら、きっとどんな条件でも自分は呑んでしまうと思った。
こんな見たこともないほど美しい女になれるなら、何を引き換えにしてもいいと思う。
「君の痛覚をもらう」
「…痛覚?」
意味が分からなかった。
何故そんなものを欲しがるのか。
相手は自称悪魔なのだから、生き血だとか生贄だとかそんなものを要求されるかもしれないと思っていた。
寿命と引き換えにされたり、大切なものを失ったり、そういったリスクがあるに違いないと。だけど、実際に要求されたのは痛覚などというとるに足らないもの。
「俺たちは人間になりたいんだ。もちろん、なりたいと思ってなれるわけではないから、少しでも人間に近づきたい。だからこうして人間と取引をして、俺たち悪魔にはない人間の何かをもらうんだ」
エリザベートが不審に思っていることを察した自称悪魔は痛覚を欲しがる理由を説明してきたけれど、聞いたところで納得も理解も出来なかった。
けれど、そんな条件でいいのなら安いものだ。
あの美貌と引き換えにするのが痛覚だけなんて、エリザベートにとっては利点しかない。
それに男の都合や望みなど、どうでもよかった。
「そんなものでいいならあげる。だから私をこの容姿に変えて」
鏡を指して言った。
同じように鏡の女も手をこちらに伸ばしてくるから何だか妙な気がしたが、これからはこれが自分だと思うと嬉しくて仕方ない。
「いいのかい?取引をすれば、元に戻すことはできない。後悔しても知らないよ」
言っている言葉は優しいのに、自称悪魔の口調と表情は面白がるような、人の不幸を楽しむときのそれだった。
そんなところに悪魔らしさを見つけて、やはり相手は人とは異なるものだと感じる。
聖典に出てくる、人を惑わし不幸にしてそれを嘲笑う魔性の存在。目の前のものは、正にそれだ。
「かまわないわ。痛みなんて必要ない。痛みを感じなくていいならありがたいわ。そんなものと引き換えにこの容姿になれるなら、喜んで貴方にあげる」
「では、取引成立だ」
男はもう一度指を鳴らした。
その途端、一瞬自分が作り変えられるような奇妙な感覚がして、その感覚が自分が変わったことを実感させてくれた。
「こちらも確かにいただいた。少し気分がいいので、契約外だが君の昔の容姿を知る人間が違和感を抱かないように手を打っておいた。大切な人には五日以内に会っておくといい」
「どういう意味?」
「君の外見は劇的に変わった。もはや別人と言っていい。今の君を見て、誰が皇女エリザベートと信じる?」
そこまで言われればエリザベートにも理解できた。
まるで別人になったエリザベートを周囲が違和感なく本人と思うようにしてくれたのだろう。
それが適用されるのは5日以内に会った相手だけであるようだけれど、都合の良いことに今はエリザベートとレオンハルトの婚約披露の為に国内の有力貴族が集っている。
「アフターケアも万全なのね」
大したことのない代償で絶世の美貌を手にしたエリザベートの機嫌はいつになく良く、軽口さえ叩いてみせた。
「ではエリザベート、せいぜい楽しませておくれ」
エリザベートの軽口を無視してそれだけ言うと、自称悪魔は突如姿を消した。
それを目にして、彼は正真正銘『悪魔』なのだと実感した。