1.皇女と求婚者
大カッサンドラ帝国の謁見の間で、第一皇女エリザベート・ヴィ・カッサンドラは帝国の正式な作法で礼をする隣国の王子を無表情に見下ろしていた。
表向き同盟国となっているが実質は帝国の属国である王国の王子は、エリザベートから声を掛けて顔を上げることを許さなければ礼の姿勢を崩すことはできない。
このまま声を掛けずに暫く様子を見るのも一興。
耐えきれずに礼を崩すなら、不敬を理由に国に追い返してやればいい。
そう思う一方でふと遊びを思いついて王子に声を掛けてやると、王子は顔を上げて皇女に拝謁する際のお決まりの台詞を口にする。
エリザベートとしては聞き飽きた挨拶でしかなかったし、目の前の王子に興味もないので適当に聞き流して本題に移るよう命じる。
とはいえ、王子の謁見の目的は事前に申請されており、エリザベートの返答も決まっているので、これらのやりとりは茶番でしかなかったが。
「皇女殿下、どうか私と結婚して下さい。至らぬ身ではありますが、帝国と殿下に尽くすと誓います」
エリザベートの様子から、長々とした求婚の台詞が好まれないことを察したようで、王子の求婚は装飾を省いたシンプルなものであった。
だが、その台詞の中に望む言葉がしっかりと入っていたエリザベートは内心でにんまりと笑う。
「わたくしと結婚したいのなら、今ここでわたくしへの永遠の愛を誓いなさい。生涯わたくしだけを愛し、他の女に目をくれることなくわたくしだけを愛し続けることを誓いなさい」
王侯貴族の結婚は政略結婚であり、義務を果たした後は夫婦共に愛人を作るのが一般的なので、エリザベートの要求は王子にとって予想もしないものだったのだろう。
王子は驚きに目を瞠り、言葉を発することもできずにエリザベートを凝視している。
「結婚するなら同じことを神の前で誓うのだもの。今ここで同じことをわたくしとわたくしの国に誓うことに何の問題があって?」
王子がエリザベートとの結婚後は愛人を囲む気でいるのは明白で。生涯それを認めないというエリザベートの要求にどう応えるかが見ものだ。
「…誓います。王女殿下とカッサンドラ帝国に、私とサクゼリア王国の名をもって永遠の愛を」
暫くの間の後、エリザベートの要求に王子は応えて見せた。
自身と自身の王国の名をもって、エリザベートへの永遠の愛を誓った。
そうする以外、王子にとれる選択肢はなかった。
弱小国の王子である彼には、大陸に覇を唱えた帝国の皇女であるエリザベートの言に従う他なかったのだ。
だが、王子のその返答は予想済。エリザベートのお遊びはここからが本番だ。
「そう。なら、これも誓ってくれるわよね?」
そう言ってエリザベートは意地悪く笑って見せた。
その言葉と表情に、王子が嫌悪と恐怖を感じたことを知りながら、エリザベートはそれを意にも介さず更なる誓いを王子に強制すべく口を開いた。
「わたくしを誰よりも何よりも愛することを誓いなさい」
それは、先程の誓いと同じようで、全く別の意味を持つ誓い。
「……誓います」
「なら、わたくしがもしも貴方よりも早く死んだなら、貴方もすぐにわたくしの後を追って死んでくださる?」
「……は?」
王子は想像もしていなかった言葉に絶句した。
だが、エリザベートはそんなものは意に介さず矢継ぎ早に続ける。
「わたくしを崇め奉り、信仰のようにわたくしを愛してくださる?」
これに頷く人間はいない。
エリザベートの要求は度が過ぎている。
そのことを理解しながら、エリザベートは王子がどう応えるかを見て楽しむつもりだ。
エリザベートの要求を呑むなら、結婚してやってもいい。
もちろん誓いは全て守らせるし、夫ではなく下僕として扱うが。
だが、こんな要求を呑むはずもない王子がどう反応するか。そちらが本命である。
「誓うなら、わたくしの靴を舐めなさい」
酷い侮辱の科白だった。
弱小国とはいえ、一国の王子に対する言葉とは考えられない言葉の数々。
エリザベートは王子に、侮辱を飲み込み、彼女の言うとおりに行動することを求める。それが皇女の夫になる最低条件でもあった。
「…ふざけるな」
王子はとうとう我慢の限界を超え、低く言葉を発した。
自国であれば王子のその言葉に周囲は震え上がるのだろうが、ここは帝国。小国の王子の怒気などに怯える者はいない。
「ふざけてなどいなくってよ。全てを誓う者以外、わたくしの夫になる資格はないわ。貴方は失格ね」
帝国皇女であるエリザベートに対する無礼。
それをどう償わせてやるかを考えるだけで笑いが溢れる。
「何様のつもりだ。お前など帝国の皇女でさえなければ誰にも見向きもされないくせに。その醜い外見で図々しいんだよ!」
王子はついに我慢し続けた言葉を発した。
肥え太った胴体、太い指。顔の贅肉に埋もれたような細く小さな双眸。脂ぎった皮膚。
正視することさえ耐えがたいエリザベートの姿。
王子はそれを明確に指摘する。
肥え太った醜女。
そんな相手であっても帝国皇女という身分に惹かれ、王子は国の為に求婚し、愛人を作ることを禁じられても耐えた。
けれどエリザベートの要求はついに王子の我慢の限界を超え、これまで我慢してきた反動で本音が溢れる。
「無礼者!」
エリザベートは激昂し、手にしていた扇を王子に向かって力一杯投げつけた。
扇は王子の胸にぶつかり床に落ちるが、それに目をやる人間はいない。
「わたくしに対する侮辱が其方に許されると思うてか!属国の王子風情が生意気な!」
王子を冷たく睥睨し、エリザベートが言い放つ。
もはや二人の間には求婚などという甘やかな雰囲気は微塵も残っておらず、互いが互いを憎々しげに睨んでいる。
「わたくしへの無礼、よもやただで済むとは思うておるまい。覚悟はできているであろうな?」
王子が醜いと評したエリザベートの顔は、今や嫌らしい笑みに歪み、醜悪さを余すことなく醸し出していた。
「覚悟ならできている。殺せ」
王子は怯えることなく言った。
だが、エリザベートはその言葉に更に笑みを深めた。
「殺してなどやるものか。其方は国へ帰してやるとも。国へ戻り、自分のせいで愛する祖国が滅ぼされる様をとくと眺めるがいい」
エリザベートはそう言うと、王子を顧みることなくその場を後にし、室内には怒りと屈辱、祖国への悔恨の念に打ちひしがれる王子だけが残された。