桔梗、その花言葉 1
初めて好きになった人は強く逞しく、どこか寂しげだった。
どんなに竹刀を振るっても、どんなに修練しても同性でなければ話す事すら、どこか憚られた時代。
まして自分は生まれついての話下手。
他者が認め、強く成長していく中でも常に募る想い。
憧れた、好きだった、羨ましかった。
男に生まれていたなら‥‥同じ強さを持ちえ戦えたのだろうか。
※ ※ ※
時は昭和10年代後半位、2人の女の子がいた。
あの娘は天狗か?
はたまた鎌鼬か?
それとも女牛若丸か?
そんな噂の2人の女の子。
『東の天才剣士少女:田中希枝』
『西の天才剣士少女:山下花子』
後に『切り落とし技の田中希枝』『巻き込み技の山下花子』と呼ばれ剣道界の歴史に名を刻む2人である。
その2人が年少の頃は未だ武士社会の精強無比な気風と荒々しさを残す時代。
この頃は未だ戦時中、戦況は次第に日本に不利となり武道大会開催など何処となく憚られた時代。
しかし事態を憂慮した剣士達の呼び掛けにより野良剣道大会が開催された。
政府公認でもない野良大会なんだから良いだろう、文句でもあるのか?
軍部の高官達には彼らの弟子も多かったから何も言えずに知らん振りを決め込んだ野良大会が開催された。
当時の一流と呼ばれる剣士達の呼び掛けである。
公とはされなかったが話題は呼び腕に覚えのある者達は年齢を問わず集まった。
だが、そんな野良大会で事件は起こった。
年少の部の中に全国剣道界でも噂になっていた2人がいた。
当然のように勝ち抜き初対戦になった決勝戦の出来事だった。
徒歩や荒廃した路線ながらも生き残った汽車を乗り継ぎ応援に駆け付けた2人の両親や親戚、近所の人達が引き起こした大乱闘。
「裏切者の長州野郎が!」
「時代の読めない会津野郎が!」
長州という地に生まれた人(現在の山口県)と会津という地に生まれた人(現在の福島県)が引き起こした罵倒合戦から始まった。
それは日本という国を形成する上で仕方の無かった歴史的対立が生んだ悲劇。
幕末という日本国が新に国際社会に立脚していく上で起こった対立、遡れば安土桃山時代後から始まった悲劇。
要は因縁があるから嫌いなのだ。
その地に生まれ刻まれ受け継がれたDNAと因縁によって嫌悪した結果だった。
忽ち会場は血の海と化した。
元々がお祭り気分で観戦に来ていたから日本酒を鱈腹飲んでいたのも不味かった。
持ってきていた一升瓶片手の罵倒合戦から大乱闘が始まり殴り殴られた大人達の頭から酔いも手伝って勢い良く噴水のように血柱が出来上がっていった。
2人の少女に関係する大人達が大乱闘を繰り広げ運営を務める大人達と更には観客達をも巻き込んで血嵐を演出した。
もはや誰もが主役である2人を見ている余裕が無くなり、それが最悪に不味かった。
2人が子供だった点である。
子供は好き嫌いが、はっきりしている。
こいつ‥‥なんか嫌いだ。
ここで一目見て相手に対し『嫌い』という感情が発生した。
そこへ以って自分の関係する大人達の大乱闘である、拍車が掛からぬはずはない。
しかし大人達のように安易に乱闘には参加しない。
冷静だった、自分は剣道をしに来たのだ。
但し冷静の度合いが違った。
2人は謂わば、この場にいるDNA達の最先端であり、互いに互いを嫌悪するという人生初の因縁が発生しているのだ。
2人同時に冷静に考えた、冷静だったから極論にあっさりと辿り着いた。
どうやったら竹刀という安全を保障された武器で相手を撲殺出来るのかを。
奇しくも同じ行動を起こした。
自分の身を守る防具を外し誘いを始めたのだ。
面具を外した際にも希枝は三つ編み、花子はオカッパと互いの髪型に嫌悪が増した。
片方は『異様な刈り上げも鬱陶しいのに異常に直角に切りやがって!』と、片方は『未練がましく後ろ髪を残しやがって、バッサリいけよ!』と。
そして袴姿を残し互いに蹲踞の姿勢を示した。
これは剣道なのだ!と正当な理由付けを残し子供同士の殺し合いが始まろうとした。
子供とは思えない程の殺気を放ち竹刀を繰り出そうとしたその時に審判を務める老剣士が感心し叫んだ。
「君達は偉い!
アホな大人達が馬鹿をやっている最中に礼を持って演武を披露しようとするとは!
こんな年少の子供達が剣道の精神を理解し相手を敬い礼儀を持っているのに、お前らは何んだ⁉︎」
そう一喝された自分に関係する大人達が恥じ入った顔をする、そして観客達から2人に拍手喝さいが起こった。
‥‥勘違いされた。
‥‥こいつを殺し損ねた。
それから2人に手作りの表彰状が授与された。
どちらも優勝である。
撲殺も出来ず剣を交えもせずの引き分けであった。
この手作りの表彰状、字は下手の極致だが当時の誰もが憧れた老剣士が書いたという事もあり2人の後の知名度と尊敬への付加価値を高める事となる。
だが、その表彰状を書き授与し自分達を止めた老剣士に2人は小声で忠告された。
「仲良くしなさい。」
優しく鋭い注意。
自分達の殺気が老剣士にはバレていたのだ。
子供の2人は素直に頷き、老剣士は笑顔で優しく頭を撫でた。
だが心中は違った。
この爺さんを立てて今は退いてやる、しかし次は‥‥。
そんな事があり時は流れ昭和20年代後半になり敗戦後に初の大学剣道選手権が開かれた。
美しく強く、それでいて礼儀正しい女剣士がいるぞ!
そんな2人の女剣士、あの2人の成長した姿だった。
それまではGHQの監視下に置かれた日本で表切っては全国的に武道大会など開催されていなかったが、それでも武道家達が切磋琢磨し腕を磨いた時代である。
大会などなくとも強者を求め集まり競い合ってはいた。
当然ながら2人も何度も戦っていた。
勝敗は五分と五分。
試合なれば闘志剥き出しの2人。
だが全く喋らない目も合わせない。
そんな2人を見て周りは勘違いしていった。
ライバルだから常に闘志を燃やし勝負に徹する為に親しく話すなどないのだ、だが相手を敬い礼儀は欠かさない。
とんだ勘違いだった。
子供時代に殺気を安易に剥き出しにしてバレた経験があるから互いに喋らない、それだけであった。
どこにどんな猛者がいるかわからない。
幼き日の失敗はしない!
だから極力殺気を抑え互いに顔を合わせないようにしていただけであった。
しかし勿論だが試合になれば竹刀でも唯一殺せる可能性の高い咽喉への突きを多用した。
試合の上なら『不慮の事故』で死んだとしても‥‥それは不幸な事故だ。
そんな2人が、ある時に人生初の経験と感覚を覚える事となる。
2・3日違いだけだったが同じ経験をした。
初恋である。
当時の剣道界において、いや敗戦から立ち上がりを始めた日本経済と伴って娯楽というものが流行り始めたが、現在とは違い多分類されてもおらず、未だ戦前以前の気風が残り強く逞しいものに憧れ尊敬されていたから一時期だけ芸能と混同されたのだ。
そんな時に真っ先に槍玉に挙げられた者がいた。
とある旧帝国大学剣道部に所属する早宮静流である。
その当時の日本人男性とは違った欧米人のような長い足と中性的な容姿そして大学選手権準優勝者であり旧帝国大学学生という身分に誰もが憧れた。
女の子達は皆が彼に夢中になった、当の本人はひたむきに真剣に剣道と向き合っているから迷惑以外になかったのだが。
当たり前のように彼女達の同級生や先輩後輩達も夢中になっていたが2人は見向きもしない。
後に特に親しくしていた友人に理由を聞かれた彼女達は全く同じ答えを言った。
苦戦はするかもしれないが勝てない相手じゃないから。
皆は早宮静流の容姿と頭の良いところだけを見ていたが彼女達は違った。
「確かに早宮静流は強い、それに上手いというだけなら彼が一番だ。
反応速度もズバ抜け頭も良いから応用力もある。
だが残念ながら優しすぎる。
まるで殺気を感じない、『競技』の域を脱していない。
だから私は勝てる。
もし殺気を伴ったなら話は変わるけど、これについては早宮静流自身が一番理解しているはずだ。」
そう聞いた者は背筋にゾッとしたものを感じると同時に彼女達は自分達とは違う剣道を見ているのだと思ったのだ。
「じゃあ‥‥鈴木美和はどうなの?」
早宮静流の流れから彼女達には全く勝てない鈴木美和についても話が及んだが、これも同じ答えを言ったが付け足しがあった。
「‥‥それに美和は剣道だけを見ているわけではなさそう。」
これは後に正解となった。
後年、鈴木美和は剣道連盟の会長となり、とある栄誉を授与される。
○○陛下から手自ら頂いたという美和の名誉に戦前生まれの2人は悔しい思いをする事となる。
「じゃあさ‥‥あの佐藤巧也は?」
再び同じ質問、当時誰も勝つ事が出来ない大学生最強であり二刀流を駆使する佐藤巧也を例に出した。
すると滅多に笑わない2人が笑い出し先の2人とは全く違う返答を出した。
「あれは鬼だ、人じゃない。
この世に現れた剣鬼だ。」
「剣鬼って、どういう意味?」
「剣鬼、あれは生まれついた時から人ではないという事。
人の皮を被った鬼だ。」
「早宮静流と違って殺気があるって意味?」
「いや無い、あれは剣鬼だから戦いとは飯を喰らうという行為と同意義だ、だから殺気なんて必要はない。
例えるなら蚊を殺す時に殺気を出すか?
出さないでしょう、邪魔になるから殺す。
ただ、それだけでしょう。」
「貴女なら勝てる?」
「わからない。
だが剣は交えてみたい!
あの剣鬼と戦ってみたい!」
そう言いながら楽しそうに笑った。
この希望は後に叶えられる事となった。
機会があり佐藤巧也が通う脳筋体育大学に練習に赴く事になったのだ。
実際、彼女達と互角に戦えるのは彼女達だけであり並の男子などでは相手にもならないからだ。
だから赴いたのだ。
そして自分の見識が正解で甘かったと思い知らさせられた。
まずは山下花子からだった。
対峙した瞬間から身体を突き抜けるような威圧感を感じた。
並の者にとっては、正面切っての戦い方など選択できそうにない。
だが攻めに攻めてこそ自分の剣道であり、それ以外選択する気も無い。
蹲踞の礼を取り『初め!』の号令の元に一気に怠そうに構えすら取らない佐藤巧也に襲い掛かった。
小手・面・突き、そして意表をついての離れ際に放つ胴へ一撃、合わせて四連打、しかし佐藤巧也の二刀の左右大小竹刀によって、あっさりと弾き飛ばされた。
さすが大学生最強‥‥いや剣鬼だ。
まるで隙が無い。
だが、こいつ‥‥。
私は舐められている。
見るからに佐藤巧也の様子から自分に対して興味が無いと言わんばかりの態度が露わだった。
確かに威圧感はあるが、その面具の奥にある瞳から自分を単なる『弱者』としか観ていないと窺えた。
舐められている‥‥だが当然か。
相手は剣鬼なのだ。
強者にとって弱者など眼中には無い。
獅子が獲物を前にし殺す時に殺意はあるか⁉︎
いや無い、目の前に飯があり御菜があったから手を出し喰らった。
そんな感じだ、所詮は生活の一環としての何気ない行為に過ぎない。
剣鬼からすれば自分はか弱い女であり、ひ弱な人間に過ぎないのだ、人間でもない小虫ほどの存在なのかもしれない。
本気すら出しては貰えない存在なのだ。
だったら‥‥。
私も鬼となれば良い、修羅道に堕ちれば良いのだ!
そう覚悟と期待を醸し出した時、一息つき吐いた。
私は鬼だ、剣道という修羅道を歩む鬼。
この目の前に立った剣鬼を殺す!
そして佐藤巧也の目の前に鬼が現れた。
何処を観て何を考えているのか判らない、そんな目を伴った鬼が現れた。
自分が持てる殺気の全てを放ち隙を見せれば咽喉を噛みちぎるであろう野獣を内に秘めた鬼だ。
剣鬼、いざ尋常に勝負!
持てる殺気の全てをぶつけるように佐藤巧也を睨んだ、その時だった。
佐藤巧也の目付きも変わりぶらっとさせた両腕も変化した。
両上段の構え。
大刀・小刀共に上段に構えた、相手を眼下にし気合で制圧していく、二刀流攻撃特化の構え、敵は虫けらのように打ち倒す構えであった。
それでこそ剣鬼だ!
そこからは互いに防御らしきものはない剣道。
互いに攻めをギリギリで躱すのみ。
竹刀で受ける暇があるなら躱して攻め優先、剣道というよりも戦国時代における真剣での合戦をするかのような戦い、鍔迫り合いなんてものはない戦いになっていた。
だが互いに百合ばかり打ち合った時に山下花子の動きが崩れ始めた。
『基本的』な違いが見え始めたのだ。
男と女、極限まで鍛えた互いの身体だが、どうしようもない性的な差が出来たのだ。
単純に体力である。
更には佐藤巧也の二刀流である。
その二刀からなる威圧感、初めて二刀という恐ろしさを感じ、そして佐藤巧也の恐ろしさを改めて知ったと同時に根本的な間違いに気づいた。
この頃、現在の剣道についても言える事情。
剣道を習い始める年齢、現在なら小学校入学と同時もしくは早い場合でも5歳位が適当である。
そして最初に心構えを説かれ竹刀を握り素振りを通し基本的な足使いと面・小手・胴といった技を習得していく。
これは戦前でも多少の違いはあれど同じである。
幼き頃から当然のように幾度も幾度も型を繰り返し、相手を置いて敵を仮想し攻め守りを身体に叩き込んでいく。
一刀を一心不乱に打ち込んでいく。
これが剣道に生きる者の通念であり常識、いや人間であれば仕方なき事情、早くから修練をするが為の事情、教える者の事情。
佐藤巧也と対戦し知った。
そんな常識が通用しない、常識が無い世界があると知った。
こいつ‥‥もしや剣道の修練に入った時から‥‥初めから二刀か⁉︎
そんな疑問、そして確信への流れた。
打ち打たれ躱して躱す、その単純で高等な作業。
その一撃を躱す為に削がれる気力と体力に伴う疲労感。
そんな疲労感が微塵も佐藤巧也には見られない。
嘘だ‥‥私は両腕だぞ⁉
例に挙げるなら野球、どんな強打者でもホームランを量産し記録を残す選手でも片手打ちなら球に当てる事すら難しい。
片腕ではスイングという軌道を整えられない。
第一インパクト、その衝撃に耐えうる手首の力が片腕では持ちえない。
人間の身体の構造上の不利、リストバンドの様な靭帯に覆われだけ、下方に豆の様な幾つかの骨がある脆弱な関節、その手関節が耐えられない。
更には腕の筋肉が長時間の運動に耐えられない。
ボクシングが良い例だ。
3分に一度のインターバル、セコンドが指示を伝えるなど様々な理由がある、しかし12ラウンド36分をインターバル無しで体力的に不可能であり精神的にも不可能なのだ。
そして人間には利腕という言葉がある。
もう一つ、ボクシングでの例にするなら大砲を備えた利腕、牽制する為、謂わばジャブを放つ逆腕となる。
だから左右両方に大砲を備えるボクシング選手はいない(練習により利腕に近づいても超える事は無いという意味。)
もし存在したなら恐ろしい選手である。
これは剣道でも同じである。
普通ではありえない。
剣道に入門して最初は必ず一刀。
子供の脆弱な身体では一刀さえ最初は覚束ない。
例え二刀を希望したところで『一刀を確実にものにしてから言え!』なんて言われて却下される、当然だ。
その教える者達ですら二刀を使いこなすなど知らない。
一刀を修めてから二刀へ、という通念が当然だと認識されているからなのだ。
だが‥‥。
もし幼き頃から剣道の稽古で初めから二刀だったなら?
竹刀、いや真剣の荷重に耐えられる強靭な手関節を生まれ持ち、それを超越出来る体力と耐久力の持ち主だったなら?
最大の利点、利腕という概念がない存在だったら?
そして二刀流を教える事、一刀という最初に起こりうる当然の理念がない師を持っていたら?
佐藤巧也からすれば女の細腕。
最大の力を振り絞って佐藤巧也の利き腕からの太刀を受けた。
ギリギリと竹刀が何時折れてもおかしくない唸りを上げる中で確信は確定への変化を告げた。
間違いない‥‥!
そう思ったと同時だった。
佐藤巧也が面具の奥から呟いた。
「少しだけ驚いたよ。
早宮の域に近い奴が他にいるなんてな。」
自分が自分より下だと思っていた早宮静流と比べられていたのだ。
近い域なんて表現をする意味。
自分の中では早宮静流と比べた場合は自分彼より下と考えていても、佐藤巧也から見れば早宮静流の方が上と認識されている事実があるという事だ。
ふざけんな、私より早宮静流の方が上だと⁉︎
ここで山下花子の勝利は無くなった。
自分より下の存在と比べられ尚且つ下位に見られた事実に怒りと動揺したのだ。
そして無闇矢鱈な得意の巻き込み技に出た。
「だから早宮静流より弱いんだよ。
ちょいと自尊心を刺激すると動揺する、早宮静流なら動揺などは絶対にしない!」
あの佐藤巧也と早宮静流の試合、自分は単純に早宮静流が人の域を超えていない者と認識していた。
あの一合の攻防に隠された意味。
自分は単純に観ていたが、佐藤と早宮の間では途轍もなく高度な技術の応酬だったのだ。
たった一合、僅かな一撃。
そんな数秒にも満たない駆け引き。
衝撃の事実に焦った山下花子が得意の巻き込み技に全てを賭けるように放った。
「お前‥‥やっぱりアホだろ!」
巻き込み技は佐藤巧也の強靭な手関節の動きと技術、仕掛けた両手での巻き込み技に対し逆方向に片腕で捩じ伏せられて不発に終わった。
焦る山下花子が逃げるように一歩退いた瞬間、脳天に衝撃を感じ気絶した。
ふん!という面白くないという意思表示を残し佐藤巧也は面具を外した。
「まぁ初手だけは面白かったな。」
そんな呟きを残し籠手を外した佐藤巧也だった。