暗示
風になびく白地の布中央に紅い狼の刺繍を刻んだ彼女を象徴する旗を掲げた一際大きなゲル。
そのゲルの少し離れた城塞には彼女の為に用意された部屋もあったが長らくの遠征生活の習慣から馴れしみ安心出来ると言って断わった。
そして彼女は後悔に悩ませ頭を抱え椅子に腰掛け待っている。
彼女の名はサラーナ、目下ボルドが戦う敵である。
そして待っていた5人が髪を濡らし柔らかげな湯気を纏って帰って来た。
その様子を見てサラーナが安心したように一息つき何気ない顔をしながら聞いた。
「ボルドの様子はどうだった?」
「やはり堂々とした男です。
我らの陽動は全く効果も見せず。」
「そうか予想はしていたが、お前達には恥を掻かせる結果になったな。」
恥の言葉にも5人は笑顔を見せて平然として答えた、つい先程まで湯船に浸かる全裸の男を囲み肌を密着し誘惑していたのだ、そして失敗に終わったのだが。
「いえサラーナ様の為なら恥など恥とは思っておりませぬ。
しかし、サラーナ様のボルド様を想う気持ちを理解して頂けたか、それが心配です。」
そう自らの貞操の危機にあった状況よりも主であるサラーナの感情を心配した。
しかし、その心配されたサラーナは悲しげな顔をし何も答えず、唐突に指を弾きパチっと乾いた音を鳴らした。
その音が響いた瞬間だった、5人の態度が一変した。
いきなり5人がガタガタと震え両肩を抱き膝を着き崩れ落ちたのだ。
自分が湯船でボルドを相手にやった行為が走馬灯のように頭の中で蘇り、突如羞恥心に襲われた。
これは所謂暗示術というもの、相手の目を見つめながら暗示に掛ける洗脳能力。
才能があったサラーナが得体も知れない者から習った技能であり10狼女でも、この場にいる5人の幼馴染達しか知らない技術。
あのボルドが相手だ。
生半可な嘘など見破るに違いない。
ならば話す者自身が誠だと思わないと通用しない。
そう考えたツォモルリグの進言により自分達に無理矢理に暗示させ羞恥心を消し想い人がボルドなどと思い込ませたのだった。
あのような破廉恥な事を私はしたのか‥‥。
涙を浮かべ今更ながら恐怖に襲われた。
戦場とは違う恐怖、男という生き物についての恐怖に今更襲われたのだった。
「すまなかった‥‥‥友、いや……姉であり妹とも呼べる其方らに取り返しの付かぬ役目をさせた……。」
頭を下げて5人に詫びる。
しかし5人の筆頭格の女ツォモルリグが震える身体を必死に抑え立ち上がると詫びるサラーナの頬を打った。
「サラーナ様!
貴女が我らの貞操など要らぬ心配をしてどうする!
我らは貞操などサラーナ様の為なら犬にくれてやっても惜しくはない。
我らが望み、サラーナ様は施しただけ!
貴女は我らよりもボルドが色仕掛けと陽動にも微動だにしなかった男という事実を心配なされよ。」
「そうだな‥‥‥気をつけよう。
ツォモルリグ、ペルジド、ホルロー、オルツィイ、バヤン。
もう後悔しないと私は誓おう。」
そう戸惑いと決意の狭間でサラーナが答えるとツォモルリグを除く4人が話し始めた、ボルドについてだ。
「それにしても、あの男には人としての感情は無いのか⁉︎
普通なら自分を幼き日から恋焦がれていたなんて聞けば少しは動揺もするはずだが眉一つ動かさなんだぞ。」
「さすがに幼き日より摂政という地位にあり国を切り回しただけはある。
あの男は権力にしか興味が無いのだろうな。」
「だな、我らも東南部では無茶もしたがボルドほどでは無いからな。」
「やはり白い髪を持って生まれ出た『忌み子』という事だな。」
そう口々に自分勝手に話すがツォモルリグは違った感想だった。
違う、あの男の興味は妹ハタンを守り抜く事だけ、そうでなければ我らを蹂躙し犯したはずだ。
この世界は女が上の女尊男卑の世界とはいえ男が女を蹂躙すれば、女にはどうする事も出来ないのだ。
子など孕まされては、それだけで逃げられなくなり、いずれは情に流され義理友情愛情など全ての感情を支配される結果となる。
そういう女は幾人も戦場にて、この目で見て来た。
どいつもこいつも悲惨な結末だった。
だが、やろうと思えば出来たボルドはやらなかった、いや選ばなかった。
それは妹ハタンに義理立てし忠誠を尽した故の結果。
蹂躙などして自身は兎も角ハタンに悪印象を持たれる事を嫌ったのだ。
そんな男を味方に引き入れようとした我らの策略は甘過ぎた。
単に自分達に男を見る目が無かったという事だ。
ツォモルリグは自分勝手に、そう考えた。
本当は単に巨乳を押し付けられ『気持ちが悪い』がボルドの中に本能的に拒絶が発生し抱かなかっただけである。
もしかしたらツォモルリグだけだったなら我慢もしてでも犯ったかもしれない。
そんなボルドの性的な感情など知らずに勝手な想像の元にツォモルリグの策略が話された。
「ボルド……やはり、あの男に下らない陽動などは効果はありません。
今まで国を切り回した才覚が惜しいと思い勧誘など試してみましたが効果どころか警戒を呼んだだけ。
当初の予定通りに排除しましょう。」
ツォモルリグの言葉の展開にサラーナは同意した。
「どちらかと言えば、その方が良い。
あの男が私の婚約者など、いつまでも我慢出来ぬからな。」
ここで漸く6人から笑みが零れた。
その光景を見てツォモルリグは思い出す。
あの頃、小さかった頃は、こんな笑みは当たり前のようにあった。
亡きボルテ様がおられた頃は、当たり前だった事が今や当たり前で無くなった。
あのハタンが帝になってから全てが変わった。
そして、『あいつ』が現れた。
『あいつ』がボルテ様とさえ出会わなければ……。
『あいつ』……今思い出しても異様な奴だった。
『あいつ』が現れてからボルテ様は変わられた、そして今、サラーナ様も。
一体何者なのだ?
未だに10狼女であり幼馴染の自分は、あいつの正体すら知らない。
知っているのはサラーナだけだ。
そんな想いにツォモルリグが捉われた時、ゲルの中に異常な気配を感じた。
感じ取った5人が警戒するがサラーナ自身は笑みは崩さずにいる。
そして『あいつ』が気付かぬ間にゲルの中に立っていた。
小さい者、異様な雰囲気を纏った者、それを隠すように何時も全身を覆う大きなマントを被り顔すら確認できない。
それでも、こいつ……人か?とさえ思わせる気配が漏れ出ていた。
「すまぬ、この者と話がある。
退出してくれぬか。」
サラーナから頼まれた5人は疑いも無くゲルから出た、毎度の事だったからだ。
こいつが現れると必ずサラーナは自分達に退出を求め2人で話している。
一度何を話しているのだと思い聞き耳を立てた時もあったが会話の内容が、さっぱりと判らなかった。
一方的、訳の分らない言葉をサラーナが喋っているだけだった。
ただ今回は5人にも理解出来る単語がサラーナの口からゲルの外に居ても分かるほどの大きな声で聞こえた。
ミザリー・グッドリッジ……。
百鬼夜行……。
その単語、いや名前は確かボルドの副官の1人が知っていると語ったサラーナと瓜二つの西方の者の名前と百鬼夜行はハタンの愛剣の名だ。
何故、あいつがいる場で瓜二つの者の名と剣の名が出て来るのだと変な疑問がツォモルリグに沸いた。
そして暫くして、あいつの気配がゲルから消えた。
ゲルに入るとサラーナが真青の顔で震えていた、完全に怯えているではないか。
「サラーナ様、どうされた!?
あいつに何かされたのか?」
慌てる5人を制し顔を歪めながらも難とか態を整え、そして当初の予定ではない話を5人に始めた。
「何でもない!
しかしボルドの事だ、直ぐにでも動くかも知れない、こちらも直ぐにでも兵達を動かせるようにしておけとエメチ、コンジェル、朱淑娥、カチューシャ、チャナムに伝えろ!
必ずウルバルト帝国を手に入れるぞ。」
5人が膝を着き応えたがツォモルリグには心配事がある。
毎回、あいつが来ると今回のようにサラーナは落ち着きを無くし震えている。
それは亡きボルテも同じだったが、どういう事だ?
『あいつ』、一体何者なのだ?
「サラーナ様、『あいつ』一体何をしに来たのですか?
この前、東南部から出陣する時も来ていましたが、毎回何をしに来るのですか?」
自分が信用されているとは分っているが、『あいつ』の事となると必ず口を閉ざすサラーナに無駄とは思いつつツォモルリグが聞いてみると、やはり毎度の事ながら拒否はされたが逆に聞いて来た。
「それは言えぬ。
知らない方が良い事もある。
それよりもツォモルリグは知っているか?
あのハタンの百鬼夜行の事を?」
先程の『あいつ』との会話に出た百鬼夜行について聞いて来たがツォモルリグ自身も、あまり知ってはいなかった。
ただ元は野盗の剣をテムルンが手に入れ彼女の失脚後にハタンの愛剣になったと聞いただけだ。
しかし自分は、その百鬼夜行でハタンに首を落とされそうになったのだ。
どこか並の剣ではない雰囲気を醸し出しているとは感じた。
「詳しくは知りませぬ。
只の剣ではない雰囲気、何処かしらの名工の作でしょうが。
しかし『あいつ』との会話にも百鬼夜行の事が出ていたようですが?」
「その事については話しておこう。
『あいつ』が言うには、ハタンの殺気の正体それが百鬼夜行。
あの百鬼夜行さえ奪ってしまえばハタンは恐れる必要は無いらしい。」
只が剣、いくら名工の作だろうと剣ではないか!
剣に、そのような能力も機能も無いはず。
『あいつ』はサラーナ様に何を吹き込んだのだ!?
「しかし奪うにしても警戒厳しく、まして親衛隊長リューク・ガーランドや副隊長兼侍従の楊雪麗が守るハタンを襲い百鬼夜行を奪うなど至難の業。
その警戒を潜り抜けるなど……そして、あのハタンの実力。」
とても人間とは思えなかった目と動き、どう考えてもハタンから剣を奪うなど不可能とツォモルリグには思わざるえなかった。
「ならば逆に言えば、その2人ならば奪えるという事ではないか!
その2人のどちらかに渡りを付けよ。
何としても我が前に連れて来い。
そうすれば……分かるだろ!」
なるほど、暗示を使う気か!
納得しツォモルリグが策謀を練る時間を1日だけ貰った、その夜だった。
結局はハタンを守る親衛隊長リューク・ガーランドや副隊長兼侍従の楊雪麗に渡りをつける必要など無くなったのだった。
別の人間がサラーナのいるゲルにやって来たのだから。
勿論、友好的に酒など持って語り合いに来た訳ではない。
狙うはサラーナ自身の一応は命なのだから。
だが、これは狙われた本人にとっては有難い事だった。
正に『飛んで火にいる夏の虫』だった。