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人類を君が救いたまえ

 暗い部屋で一人、ベッドの上で壁にもたれ足を投げ出していた。手元の明かり、携帯電話の画面が火曜日の午後九時過ぎと教えてくれている。

 昨日も今日も学校に行っていない。両親は特に何も言わなかった。行けとも休めとも。携帯電話を眺めていたら、いつのまにか夜になっていた。

 トークアプリを起動して、新しいメッセージがないことを確認して、閉じる。

 開いて、閉じる。

 開いて、閉じる。

 新しいメッセージなんか来るわけがないのに。

(奈々ちゃん)

 新しいメッセージを自分から打ち込んでみる。

(学校、休んじゃった)

(寒いね、今日は冷えるね)


(助けてくれて、ありがとう)


 答えはない。


(僕が死ぬべきだったのに)


 答えなんかない。


(僕が死ねば良かったのに)


 答えてくれない。


(ありがとう、助けてくれて、ありがとう)


 もう届かない。


(けれど、辛い)


 僕の声はもう、彼女に届かない。


(死んでもいいくらいの幸福で、いきなり死んでも文句はないくらいの幸福で)


 彼女の声はもう、二度と誰にも届かない。


(そう思っていたのに、そりゃないよ、そりゃ、ないだろう)


(君が死ぬなんて、そりゃないよ)


 死ぬ、死んだ、死んでしまった。


(寂しい)


(寂しい、会いたい、会いたいよ奈々ちゃん)


 絵文字を、イラストを、送信する。


 恥ずかしがって、ためらって、そんなことをしているうちに届けられなくなったそれらは、画面で躍る。


 もう見てもらえないというのに、陽気に、躍る。


 こんな事になるのなら。


 何も躊躇わず、くだらないプライドなんか捨てて、正直に言えば良かったのに。


 彼女のように、飾らず、正直にあればよかった。


 あと三日で死別すると分かっていたら、僕はもっと。


 ふと。


 その考えがよぎる。ずっとくすぶっていた考えが。


 目を逸らせないほど正面で、燃え上がる。


(奈々ちゃん)


 もしかして、君は。


(君は、自分が死ぬことを)


 そんなわけがないのだけれど。



(知っていたの?)



 「…んですかあなたたち!」

 扉の向こう、階下からお母さんの叫び声がかすかに聞こえた。どさっ、と何かが倒れるような音。

 ゴツゴツと、硬い足音が階段を昇ってきた。

 靴のまま歩いているような、硬質な音。一定で、なんの躊躇いもないリズム。

 ガチャッと扉が開いた。

「…」

 知らず泣いていたらしく、廊下からさした明かりがぼやけた。黒い人影が幾つか見える。涙を拭っている間にその人影は何の遠慮もなく、何も言わず、近づいてきた。

 黒いスーツを着た男性が三人。


 なんですか


 たぶん、僕はそう言おうとした。


 けれど、それより早く先頭の男性が右手を僕の首のあたりへ伸ばした。何か箱のような物を持っているような気がした。



 ビリッと痺れたような感覚があって、真っ暗になった。



 目を開いて見えたものは、銀色の天井。鈍く光る、けれど電灯は見えない、全体がぼんやりと光っている銀色の天井だった。

 横になっていると分かった。体の重さをふわりと支えられている。ベッドに寝ているようだった。

「…ん」

 首を動かそうとしたら、鈍い痛みが走った。

 構わず首を巡らせる。枕、壁、反対側を見ると、質素な椅子とテーブルが見え、テーブルの上に置かれたマグカップからは湯気が立ち上っていた。


「起きたかね」


 声に反応するより早く、その人は視界に滑り込んできた。細い腕が伸び、白い手がマグカップを掴む。


「おはよう、杉本隆一君」


 その人は、マグカップを自分で一口飲み、横になったままの僕のすぐ傍らへ来た。

「…う、うあ…」


 怖い。


 本能が叫んだ。


 ダメだ、この人はダメだ。


「勘の鋭い子だ」


 マネキンのように整った顔、絶世の美女なんていう言葉がしっくりするような、美人。長く艶のある黒髪、白い肌、涼し気な眼。


 ダメだ、怖い。


「手荒な真似をしてすまないな。事態は急を要するため、やむなしだがね」


 凛とした声。同調も理解も求めていない、孤高の絶対的な存在感を体現したような声。


「う…うぅ」


「私の名は戸倉。見てのとおり軍人だ。司令官という肩書もある」


 戸倉と名乗った女性は、自分で言う通り、軍服を着ていた。けれど、その軍服は黒かった。まるで喪服のように、真っ黒だった。

 色鮮やかな勲章が左右の胸にそれぞれ二つ。それだけが黒の中で鮮やかに浮いていた。


「あなたは…僕は…」


 怖い。眼を合わせるだけで怖い。真っ黒な洞穴をのぞき込んでいるようで。けれど、恐怖の根源は、その暗闇じゃない。


 暗闇なんかじゃない、そんな得体のしれないものじゃない。


「色々と思うところも、言いたいこともあろう。可能な限り説明はしてやろう。疑問にも答えてやろう。身の安全も保障する。五体満足で家に帰す事も約束しよう。報酬も約束しよう。家族も無事だ。三日後には再会できる。今まで通り幸せに暮らすがいい」


 淡々と、戸倉さんはしゃべり続ける。


「その代わり、今から三日間、働いてくれ」


 そういい、身じろぎすらできない僕に、戸倉さんは上体を折り覗き込むように顔を近づけてきた。


「ひっ」


 至近距離で目があう。


 そして、確信する。


「可愛い彼女が目の前で死んで、かわいそうだったな」


 暗闇のような瞳の奥に。


「会わせてやろう、もう一度、岬奈々に」


 暗闇の奥、真っ黒で空っぽのように見える空虚さの向こうに、何かがいる。


「幸せな三日間を、与えてやろう。慈しみ、語り合い、存分に語らえ」


 苛烈な意思を秘めた、猛獣のような存在が。


「触れ合うことは、できんがね。愛し合うことも、できんだろうが。けれど、彼女の心はそこにある。青少年、どうぞ夢のような三日間を彼女に与えてやるがいい」


 姿は見えないが、絶対にそこにいる、という熱量と存在感。


「幸せを与え、そして三日後、君が彼女に言え」


 ぐい、と顔を近づけて。戸倉さんは小さく微笑んだ。


「人類のために死んでくれ、とな」


 絶対とさえいえる意思を奥底に湛えた瞳が、僕を射抜く。


「君に拒否権はない」


 美しい唇が、冗談のような言葉を、力強く紡いだ。


「八回目の人類滅亡の危機は、今から三日後にやってくる」


 冗談ならば、どんなに良かったか。



「杉本隆一、人類を君が救いたまえ」



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