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この幸せの代償は、僕の命でも足りない

 予期しない、身に余る、超弩級の幸運が僕に舞い降りて三日。その日の帰りに死んでもやむなし、くらいの考えだったが、どっこい生きている。

 三日経った今も、幸せのただなかで、どっこいしっかり生きている。

 ただただ、幸せな三日間だった。

「ドッキリでしたー! ぷぷーっ!」もない。

「すみません…罰ゲームだったんです…」もない。

 ひたすらに、突き抜けて幸せなだけの三日間だった。

 廊下ですれ違った時、少しだけ目を合わせ、小さく笑って、小さく手を振る。小説や漫画で見たような事をまさか自分がするなんて、できる日がくるなんて思ってもみなかった。

 どうした? と聞かれ、なんでもない、と素っ気なく答える。

 その後ろで「え? だって杉本先輩と私、付き合ってるもん!」と大きな声が聞こえて(えっ!?)となったけれど。

 どうやら彼女は隠すつもりもないようで、らしいといえばらしかった。まだそんなに彼女の事は知らないけれど。

 ただ、僕がリサーチしていた以上に彼女は有名で人気があった事は、教室で皆に囲まれて尋問された事で思い知った。

 何故だ! と泣き顔のクラスメイトに問いただされるが、答えようがない。

 ずるい! と怒られても、同感だくらいしか言いようがなくて。

 人生で初めて、輪の中心に僕がいた。僕の言葉をみんなが息を飲んで待って、僕の話題でみんなが盛り上がった。それは、本当に人生で初めての事だった。

 自分の力ではないけれど、けれど、そうなんだけれど。


 なんだか、とても幸せだった。


 手の中で携帯が震えて、心が躍る。なんでもない風を装って、けれど頬のにやけは止められず、スタート画面からトークアプリを起動させる。

(ウィーン、ウィンウィーン、私起動しました!)

 吹き出しにそんな言葉が表示される。続けてウィーンと擬音のついたロボットのイラストが画面に表示された。にやけながら僕も返す。

(おはよう奈々ちゃん)

 絵文字やイラストは恥ずかしくてまだ使っていない。色々と使う彼女には退屈な応答になっているのではないか、と不安になったりするのだけれど。なんだか見たことあるキャラからないキャラまで、可愛いのからわけわからないのまで、同じ物を二度使っていないのではというくらい、次から次へ賑やかに彼女はイラストを使う。

 それはもう、明るく楽しくを全身全力で体現するかのように。

(えっへへ、えへへ、恋人になってはじめての土日! 今日は何するんでしたっけ)

 かじかむ指で、答えを打つ。

 ハートを持つ熊のイラストを続けて送信しようとして、迷って、恥ずかしくてやめた。

(忘れてないよ)

 使わないまま、彼女のようになろうと集め続けたイラストが画面に所狭しと並んで出番を待っている。

(当たり前じゃないですかー、やだー先輩! 察してくださいよ! サッシテ!)

 言葉の後に、牙のはえたリンゴがミカンを食べるイラストが表示された。

 野蛮でシュールなイラストだった。やはり僕はまだ彼女の事をいろいろ知らないらしい。

(察して?)

 恥ずかしいのだ。こんなやり取りに僕は何の免疫もない。

(カッ!)

 短い返答。そして怒り狂う天狗のイラストが表示された。

 しかも連打された。

(デート楽しみです)

 耐えきれず急いでそう返す。

 すぐさま、ハートをもって踊る豚のイラストが表示された。

(私もです。張り切って支度してます、遅刻しちゃダメですよっ、シーユー!)

 アプリの画面を閉じ、携帯をポケットに仕舞いながら僕は呟く。

「遅刻なんてするわけないさ、奈々ちゃん」

 真っ白な息が広がって、薄まって、消えていく。

「なぜなら、僕はもう待ち合わせ場所にいる」

 駅前、今は午前八時。約束の時間は九時半。実際には三十分前からここにいる。一番おしゃれだと思われる服で、買った日に一度使っただけのヘアワックスをつけた。ちなみに出来が気に入らず三回シャワーを浴びて髪のセットをやり直した。

 その様子はもうほんとにモロバレだったみたいで、母親が「お父さん! お父さん! 隆一がデート! 隆一がデート! おしゃれしてる! デートよデート!」と大声で騒ぎ、休日は昼まで起きない父親が二階から飛んできた。

 悪ふざけした両親に万歳三唱で送り出され、待ち合わせの二時間前に到着となった。しかし正直、寒さで震えが止まらない。

 いきり立ちすぎたと反省している。どうせあと一時間は来ないだろうし、その辺のファストフード店に入って暖でも取ろうかという考えが頭をよぎる。

 けれど、僕は立ち上がらなかった。

 この幸せを、味わっていたかった。

 待ち合わせ場所に早めに来て、可愛い彼女が来るのを待っている。そんな良く聞く話の、よくある話の、ありふれた話の、けれど三日前までの自分には一切縁のなかった、そんな幸せを、とにかく味わっていたかった。

 携帯を取り出し、トークアプリを起動して、この三日間のやり取りをゆっくりと読み返していく。

 彼女の言葉はいつでも素直で、受けるこちらが気恥ずかしくなるくらい直球で好きだと伝えてくれていて、楽しそうなイラストが、感情を表現した絵文字が、全てが明るくて、楽しそうで幸せそうで。

 その原因が自分だという事が、こんなにも誇らしい。

 好き、とはっきり表現してくれる彼女の言葉、照れて誤魔化してまだ一度も「好き」と伝えていない不甲斐ない自分の言葉。そんな僕の言葉に焦れる彼女の言葉。

 全てが幸せだった。

 幸せで、幸せで。

 幸せすぎて、怖かった。


 この幸せの代償は、僕の命でも足りない。そうとさえ、思っていた。


「えー」

 俯いて携帯をいじっていた僕に頭上から可愛らしい、不満げな声がかかった。にやける顔を精一杯制御して、わざとらしくゆっくりと携帯をしまって腕時計を見る。

 午前八時半、一時間前だった。

「おはよう、早いね」

 座った僕を見下ろす奈々ちゃんが、頬を膨らませる。

「まさか一時間前に来て負けるとは…」

 可愛かった。

 化粧をしてくれているのが分かった。髪型もいつもより手が込んでいた。服も、詳しくないけれど、けれど凄く素敵でお洒落だと思った。

 目の前にいる自分の恋人は、文句のつけようがないくらい、可愛かった。

「ふふん、まだまだだね」

「次は夜明け前からいます、わたし」

「…いや、それはやめよう。風邪ひいちゃうよ…」

 薄いピンクのダッフルコート、小さいサイズなんだろうけど、やはり袖が余っている。その小さな手が僕の頬を挟んだ。

「あーー、こーんなに冷えて。いつから待ってたんですか先輩」

「ひみつ」

「んーっ! 風邪ひいたら怒りますからね! でも体調悪い時は無理しないでくださいね!」

 さらっと難しい事を言い、奈々ちゃんが手を放す。そのまま目の前に差し出された手を握り、弱い力で引っ張られるまま僕は立ち上がった。

 立ち上がっても彼女は手を離さない。手を繋いだまま僕の横へぴょんと立って、僕へ顔を向けてにっこりと笑った。

「あらためまして、おはようございます先輩!」

「おはよう」

 そんな些細なやり取りですら、泣きそうになる。

 なんだろうこの幸せぶりは。

「行きましょーっ」

「どこ、行く?」

 レパートリーなんてない。経験もない。心臓が飛び出ていきそうだった。

 すげえ、僕こんなかわいい子とデートしてる。手つないでる。

「いいからいいから」

 彼女はぐいぐいと僕を引っ張っていく。駅前の広場を横断し、大通りにかかる横断歩道が赤になったので止まった。

 休日の朝だけれど、国道なので交通量は多い。運送トラックがあからさまに法定速度を超えた速さで次々と目の前を通り過ぎていく。

「先輩」

「ん?」

 横を向くと、彼女は微笑みながらじっと前を見ていた。


「キスしていいですか?」


「……………えっ?」

 なんて言った?

「キス? ちゅー? 接吻? くちづけ?」

「あ、いや……えっ?」


 悪戯っぽく笑い、彼女が僕を見た。

「キスしていいですか? 先輩」

「いや…えっ? いや、えっ? えっ? あの…いや、えっ?」


「キスしてください」


 そう言って、彼女は眼を閉じた。

「…奈々ちゃん?」

 なんだこれ。冗談?


「先輩、キスしてください」

「奈々ちゃん、その、そういう冗談は、あの、僕あんまり…」

「冗談じゃありませんよ」

 目を閉じたまま、こともなげに、さらりと彼女は言う。

 だから僕は、答えた。

「しないよ。まだ、ごめん、その、まだ早いと思うから。こういうのは、もうちょっとその、お互いをよく知ってから…あの、もしかしたら、今日のデートで、ほら、君が僕の事をその、やっぱりつまんない男だって、ほら、その」

 僕の臆病さを笑うように、ふふっと一回小さく笑い、彼女は眼を開けた。

「ですよね、先輩は、そう言いますよね」

 そう言って彼女は、僕の見間違いでなければ彼女は、とても、とても寂しそうに笑った。

「奈々ちゃん…?」


「そんな先輩が、好きなんですけどね」


 ぞっ、とした。


 理由もわからず、ただ、目の前の彼女の笑顔に、僕は震えた。


 立ちすくむ僕の前で、彼女は正面を向いていた体をこちらに向け、ゆっくりと繋いでいた手を放した。


「好き、先輩、大好き」


 音が遠くなる。彼女から目が離せない。


「不思議な事も、あるもんですね。嘘だと思ったけど、けれど本当だとしか思えなくて、それでもそんなわけないじゃんと、そんな風にも思ってたんですが。やっぱり本当だったんですねえ。不思議」


「な…なちゃん…」


 まるで、それは。


「ありがとう、凄く幸せでした。気にしないでください。先輩は悪くありません」


 まるでそれは、別れの挨拶のようで。


「ありがとう、本当にありがとうございます。幸せでした、凄く幸せでした」


 今生の別れの、挨拶のようで。


「先輩、ありがとう。大好き」


 遺言のようで。


 甲高い音が耳に響いた。


 けれど僕は、目の前の彼女から目を離す事ができない。


 身動きすらできない僕の前で、彼女がそっと手をあげた。


 背後から風が吹いた。


「よかったら、一日だけでいいから、泣いて、悲しんでください」


 手がゆっくりと僕へ伸ばされる。背後からひときわ強い風が吹いた。


「そして、きれいに忘れて、しっかりと幸せになってください」


 どん、と押された。ぐらりと視界が揺れる。斜めになる視界の中で、彼女が言った。


 泣きそうな笑顔で、言ったように見えた。


「ありがとう、大好き、さようなら」


 横から突っ込んできた大きな塊が彼女を潰した。


 尻餅をついた僕の本当に目の前、トラックが信号機に突き刺さった。腹が震えるほどの轟音、衝撃で体が後ろにひっくり返る。

 キン、と耳から音が消え、甲高い耳鳴り以外何も聞こえなくなる。背中と後頭部を強く地面に打ちつけ、息が詰まった。

 朦朧とした視界、見える空に黒い煙が広がっていく。あちこちが痛い。

 けれど、生きているようだった。

 何枚も幕を隔てた向こうからのように、かすかな悲鳴や叫び声が聞こえる。

 痛い以外の感覚が消えている体を動かし、転がるように上体を起こした。ついた手がぬるりと滑る。肘をついて目の前に出した手は、真っ赤だった。

 手から赤いぬるぬるした液体が地面へ落ちる。

 見回せば、一面にその赤い液体は広がっていた。靴をズボンを、尻を、手を、全部を飲み込むように、じわじわと広がっていく。

「あぁ…あ…」

 慌てて、僕はかき集めた。


 あの小さな体の、どこにこんなにも大量の血が。


 慌ててかき集める。すくって、けれど震えた手はうまく動かず、掬うたびにすぐ零してしまって。

 早く血を集めないと、こんなに血が出たら彼女が、奈々ちゃんが


「あぁ」

 どこか冷めた自分が、言う。

(見たろ? 目の前で、見たろう?)

 血を集めないと、早く。早く。

(目の前で、トラックと信号機に挟まれて、潰れた彼女を、見たろ?)


 奈々ちゃんが。


(生きているわけ、ないよ)


 血を集めないと。


(顔を上げろ、見てみろよ)


「うぅぅ、あぁ…」


 顔を上げ、僕は見た。

 信号機に突き刺さって止まったトラック、あがる煙、散らばった破片、広がる血、そして、見た。

 

 トラックと信号機の間から、だらりと垂れた小さな手。

 

 千切れた足。

 

 潰れた頭。


 意識はそこで切れた。


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