センセー、どこいくの?
冷たい監獄の中で、マリアアリスと説教使は寄り添うように横たわっていた。腕を後ろ手に縛られ、背中合わせになっている。
冷え切った檻の内部にあって、すでに説教使の体温は感じられなくなっていた。生命を失った皮膚の感触は固まりかけた粘土のように弾力を失っている。
牢屋の寒気によって体力が極度に低下した、マリアアリスの意識は混濁していた。半ば夢うつつとなり、浮かんでは消える幻影に囲まれている。
むせるような悪臭を伴う湿気のような執拗な不快感を肌になすりつけるかのような悪夢の中で、マリアアリスの腹は丸く膨れ上がっていた。内蔵のはざまに抱えているのは、マリアアリスの子供だった。いまだ人の形にならない赤子は、その体積を膨張させ、母親を圧迫している。その重みと体温による負担が、マリアアリスを錨のように地面につなぎとめている。
目の前にはこの次元に到着したときにカルロススハイツ使がはりつけにされていた車輪架がそそり立っている。だが、今そこには自分が殺したパンフィロロドリゴ使が縛り付けられているのだった。
説教使の首から垂れ下がった鎖の端を、マリアアリスは力の限り握りしめ、引っ張っていた。
本来なら、もはや一度手にかけた説教使にマリアアリスは決して顔向けすることはできない。
しかし、車輪架にかけて殺してしまえば、そう、守の御児であるイェスカのごとく彼を憎む人々の罪すら背負って死に臨んだならば……必ず蘇ってくるのではないか? “けがれたおんな”によってほうむられた墓から、再び会いに来てくれるのではないのか? いや、絶対にもう一度会えるのだ! なぜなら彼を殺した罪は殺された説教使によって償われ、そしてなにより、マリアアリスは“けがれたおんな“なのだから。
車輪架は崩れ落ちて、説教使はとるに足らぬ者のように荒涼とした砂漠にふるい落とされる。緩慢な動作で説教使は乾いた砂の上に立ち上がった。
呼びかけようとマリアアリスは口を開く。しかし、わずかでも自分が説教使に触れることを恐れ、声が出なかった。マリアアリスは息を殺し、無言で待った。
しかし、説教使はマリアアリスを一瞥だにせず、背を向けた。関節の油が切れた機械人形のようなぎこちない動きで歩み去る。
愕然としたマリアアリスは、声を限りに叫んだ。
「センセー、どこいくの?」
ぴりぴりと腫れあがった唇が痛む。ほおに激痛がずきずきと脈打った。マリアアリスは恐怖に震え上がった。腹部の重量が、不意に消失していた。
足元に目をやると、白くふやけた赤ん坊が長い肉色の管を引きずって這いまわっている。異臭をはなつ管はいやらしく膨れたり細くなったりしながらマリアアリスのくるぶしにからみついていた。その赤ん坊は、マリアアリスと同じ人間……HF次元人ではなかった。
銀色の頭髪、白い矮躯はマリアアリスが幾人も殺害してきたAO次元人のものだった。
マリアアリスは赤ん坊を抱きあげようとする。しかし、赤ん坊は電流に触れた悲鳴のように鋭い鳴き声を上げた。白い赤ん坊の肌が、黒く汚れてゆく。異臭が鼻を突いた。マリアアリスの両手は、AO次元人の血にまみれていた。
赤ん坊はマリアアリスの手から転がり落ち、へそからぶら下がっている自らの体の一部を頸部に絡ませて悶絶した。
「……」
説教使が何かをつぶやいたように思えた。その言葉は、穴倉においてマリアアリスの手で絞殺される寸前の説教使が漏らしたささやきと全く同じ響きだった。マリアアリスがうかつにも聞き漏らした言葉だった。
……いや、それは説教使の母国語だったのかもしれない。拡張感覚の翻訳ソフトに存在しない方言だったのかもしれない。生前、説教使はマリアアリスたち修道士をあたかも自分と同等の存在であるかのように扱ってきた。しかし、本当は違うのだ。説教使は自らの属する文化をあまねく次元に広げる世界の中心的な存在であり、ひるがえってマリアアリスたちはその手助けをする付与された、代替の可能な付属物に過ぎないのだ。説教使が最期の言葉を託す相手にふさわしくないのだ。
マリアアリスは自らを陥れる不快な疑念をかき消すように言い募る。
「ごめんなさい! わからなかったの!」
マリアアリスはあえいだ。
「お願い、もどってきて。せめてもう一度だけ教えて……」
しかし、説教使からの答えは無かった。マリアアリスの全身から生命力が消失していった。体中が脱力し、崩れるようにマリアアリスはぐにゃりと床に伸びた。全体をまとめる大事な部品が弾け飛び、各部がもはや統制も取れずに投げ出されているだけだった。空虚そのものと化して、マリアアリスは屍のようによこたわっていた。
放心するマリアアリスに何者かが語りかけた。
――嘆くことはありません。
物柔らかな、優しげな声だった。唐突な声に驚くことも無く、マリアアリスは機械的に反応した。
「誰?」
――あなたはよくご存知のはずですよ。
声は、親しげな、多少からかうような調子を滲ませていた。
一度も聞いたことの無い声だったが、不思議によく知ったような落ち着く響きだった。ほとんど考えることもせず、マリアアリスは返答する。
「……ゴメン、わかんない……誰?」
――あの~、おわかりになりませんか?
不思議そうに声が語りかけてくる。妙な心地よさがマリアアリスを包んでいた。
「うん……ほんとゴメンネ。マジで誰だっけ?」
マリアアリスはいつの間にか、会話に引き込まれていた。声の主を思い出そうと記憶を探る。甲斐なく、該当の人物は思い当たらなかった。
――わたしは、家須賀です。はじめまして。
はきはきとした声が丁寧に名乗る。マリアアリスは、半信半疑の声をあげた。
「……は? ……はああぁ?」
――あの、家須賀です。
声は、優しくささやきかける。マリアアリスはいまだに相手の言い分を飲み込めていない。
「……え? えええええええええ!? マジでぇ!?」
――間違いありません。家須賀です。
「あの……おなじ年に生まれた子どもが全員殺されたとか、部下に裏切られたとか、車輪架にかけられて死んだとかの人ぉ?」
――あぁ~……そうですね、そんなこともありました……。どれもつらく悲しい記憶です……。
「あ……ごめんなさい」
――いいえ、構いません。それがわたくしの存在意義なのですから。あなたも本当に苦労しているでしょう? わたくしはそれをなぐさめに来たのです。
「え……」
マリアアリスは浮かない声を出した。どっと押し寄せる重苦しい記憶に、押し潰されそうになる。肉体に苦痛を受けたような悲鳴を上げた。
「どうして……」
マリアアリスは胸を引き裂くような激しい懊悩に耐えかね、恨みがましい言葉を漏らした。
「どうして、こんなことになったの? あんまりだよ……センセーは何も悪いことしてないのに」
――世の中に起こることは信じられないくらいひどいこともたくさんあるのです。
「そんなの、ひどいよ! 守の御児なんでしょ? 奇跡を起こして、センセーを返してよ……それか、今すぐあたしを楽にして」
――わたしにはそのような力はないのです。ですが、最期にあなたの説教使が何を伝えようとしたかお教えいたしましょう。
マリアアリスは束の間ためらいを覚えた。最期の言葉が、実は恨み言かもしれない、と考えたのだった。愚かな自分の行動が引き起こした問題に巻き込まれ、命を失うことに対する呪詛なのではないか、とマリアアリスは恐れを抱いた。が、それ以上に、説教使が自分に何を思ったかを知りたいという衝動が勝った。
「なんて? なんて言ったの!」
あわてて訊ねるマリアアリスに、家須賀は答えた。
――『自分は無力だった』と。
マリアアリスは真剣そのもので聞き耳を立てている。続きを催促した。
「で? で?」
家須賀は咳払いした。
――以上です。
マリアアリスは安堵すると同時に、落胆した。短すぎて正確な意味がわからず、なにより、別れをたった一言で済ませてしまうほど、自分は説教使にとって軽い存在だったのかと、幻滅した。
家須賀は言葉を続けた。
――彼はあなたをよりよく導けなかった、と悔いていたのかもしれません。
家須賀の感想をよそに、マリアアリスは訊ねた。
「センセーはあたしのことキライだったのかな」
元気付けるように、家須賀は言う。
――あなたを嫌っているなら、身を挺してかばったりするでしょうか? 彼は最後まであなたのことを気にかけていました。でなければ、残虐な暴力に最期まで懸命に抗い、耐えるでしょうか? いずれもあなたを案じ、身を守ろうとした行動に違いありません。
マリアアリスはうめいた。
「でも、当たり前かも……あたしが……あたしがセンセーを殺したんだから」
――あなたの意思ではありません。
いたわるような家須賀に、マリアアリスは叫び声をあげた。
「だからって、気が楽になるわけない! だって、怖かったから、痛くされるのが嫌だったから、死ぬのが怖かったから……あたしが死ぬより、センセーを苦しめて殺すほうを選んだんだもん! ホントはあたしが死ねばよかったのに……でも怖かった! どうしようもなく怖かったの!」
家須賀は激昂するマリアアリスをなだめた。
――あなたの苦痛はわかります。
マリアアリスは憎悪に満ちた叫び声をあげた。
「だったら、あのクソどもをぶち殺して! それからセンセーを生き返らせてよぉ!」
申し訳なさそうに家須賀は言った。
――そのような力はわたくしにはありません。
マリアアリスの声が、悲痛な響きを帯びる。
「え? どうして? 守さまでしょ?」
――わたくしはあくまで守の御児なので。それに、守はそういったことは決してなさらないでしょう。
謝るように家須賀は言った。マリアアリスは興奮し、懇願した。
「わかった! なにか報酬的なものが欲しいんでしょ? だったらあたしなんでもする! おカネでも、ブランド物のバッグでも、ブランド物の時計でも、モノだけじゃなくて、あたしのカラダでもココロでも、もうなんでもあげちゃう! 命だってあげる! もう今すぐ殺していいから! 地獄に行けって言うなら行くよ! ね、だから早くセンセーを生き返らせて!」
――そういうわけにはいきません。報復行為は一切ないのです。
家須賀の重々しい口調で放たれた言葉に、マリアアリスは噛み付いた。
「なんで? あたしはともかく、センセーは守さまによくお祈りしたり、修行とかしてんじゃん! なのに、何もしないの? だったら何のためにセンセーたちは苦労してんの?」
苦しげに家須賀は返答する。
――本当は、守のために人間がいるのであって、人間の為に守がいるのではないからです。
「でも、守さまを信じてる人たちは特別に大事にしてもいいじゃん?」
――守は人をえこ贔屓したりはしません。守の前では、全ての人間は等しい価値を持つからです。守への信仰を持つからといって扱いが変わるということはありません。善人、悪人も然りです。修行する者は、それがみずからに必要だからするのです。
説教使が畏敬をこめて語っていた、あるいは祈りを捧げていた守が、説教使の無念を晴らす報復を行わないと明言されたことに、マリアアリスは衝撃を受けた。イェスカの言葉を信じまいとして、必死に望む答えを乞う。
「でも、信じてない奴はヒッドい目にあうんでしょ? で、センセーみたいにちゃんと信じてた人は、永遠に安楽に暮らせるんだよね? これはセンセーからも聞いた!」
家須賀は気の毒そうに反論する。
――人の死後について言及することはできません。というより、生物の死後は、生前とは全く異なる存在へと変化する為、同列に語ることはできないのです。はっきり言えば、死んだ後に今と同じ姿でどこかに、それが良かれ悪しかれ存在できるか、と聞かれれば、それはできません。
抑揚に欠けた、生気のないようすでマリアアリスは言った。
「それじゃあ、死後の世界とか、守さまとかって嘘ってこと? それって本当にどういうこと?」
親身そうな声音で、家須賀は話しかける。
――定義にもよりますが、守というものは、そもそも人知を超えた所業を容易に為す超越的な存在であり、それゆえ、人がその存在の有無を判断すること自体が極めて困難なはずです。なので、いる、いないを人間が断言することはできません。結局、人それぞれの考えを持てばいい、ということでしょうね。
マリアアリスの声が憤りと悲しみで震えた。
「センセーはいるって信じてたんだよ? いまさらそんな曖昧なこと言われてもさぁ!」
――あなたがいると思えば、いるのです。ですが、守は人間の都合を考えて人間の世界に干渉をしたりはしません。
マリアアリスはすっかり家須賀に失望した。虚ろにつぶやく。
「それじゃあ、何のために守さまがいるの? 意味無いじゃん」
――そうです。少なくとも何らかの見返りを得ようと考える人にとっては、きっと無意味だと思えることでしょう。
マリアアリスは力なく沈黙した。
――ですが、そもそも守とわたくしは、人々をただ安楽に生かす為に、存在するわけではありません。守としては、人間はただ定められたように生まれて死ねばいいだけであって、その幸福や不幸などの矮小な事柄は眼中に無いのです。
いらだたしげにマリアアリスは応えた。
「だったら何しに来たんだよ」
家須賀は誠実そうな声音で言った。
――あなたを救うためです。
マリアアリスは怒りを爆発させた。
「は? なんで!? 守さまと人間はカンケー無いってさっき言ったじゃん!」
怒りに耐えるような我慢強い口調で、家須賀は告げる。
――両者の間に立つのが、わたくしなのです。あなたの苦痛は独りで担うには重過ぎると思いました。わたくしはあなたを放っておけなくなりました。
マリアアリスは敵意をむき出しにした。
「はぁ~!? なんもできないって言ったくせに、わざわざあたしを救うとかってバカにしてんの? だいたいこっちは呼んでないし! 何するつもりだよ! 死ね、バーカ(トント)!」
家須賀の声が遠慮がちにやや小さくなる。
――まあ、お待ちなさい。あなたの気持ちはわたくしにもよくわかります。
マリアアリスは聞く耳持たず、否定する。
「わかるわけない!」
家須賀は独白のように、言葉を続けた。
――わたくしは何度かつらい目にあいました。そのときを思い返すと、今でも苦痛がよみがえってきます。つい今しがた飢えて乾き、骨を折られ、肉を裂かれたのように体が痛み、罵られ、嘲られ、裏切られたかのように心が悶え、わたくしを頼るものを置き去りにし、悲しませたかのように魂が苦しむのです。
マリアアリスは石になったかのように黙っていた。
――そして、同じようにつらい目にあっている人々に、心から共感を覚え、同情します。わたくしは、人々の苦痛を共に感じ、苦しみます。
頑なに口を閉ざしたまま、じっとマリアアリスは耳を澄ましていた。家須賀の穏やかな声は、説教使に似ているような気がしていた。話し方は母親のように、女性的なようにも感じた。
――つまり、私もあなたと同じだということを思い出してください。苦悶するあなたはただ独りではないことを。
マリアアリスは頭をなでられている幼児のごとく、恍惚とつぶやいた。
「あたしと同じ……あなたが」
不意に体をつつんだ安寧に流されそうになった瞬間、つい先ほどの凄惨な光景がつかのま訪れた安息の予兆を蹴散らした。
我に返ったように、マリアアリスは家須賀の言葉を拒否した。
「ムリでしょ……だってあたしなんかサイテー、だよ……だって、昔、子供を堕ろさせられたことがあるし、原住民を殺しまくったし、その赤ちゃんも助けられなかったし、センセーを……どこに守の御児といっしょな部分があるんだよ。ありえなくない?」
――苦しみにあえぐという点では、同じです。そもそもわたしが苦難を求めたのは人々と苦痛を分かち合うためなのですから。
「や、やめてよ! センセーまで殺したあたしがそんな話を聞いて、気持ちが楽になっちゃいけないんだよ!」
――あなたを愛した人はあなたが苦しむことを望むでしょうか? あなたを憎んだ人はあなたが安らぐことを願うでしょうか? あなたは自分の自然な感情に任せて、自分自身を保てばよいのです。すでに傷ついたあなたには、罪悪感は不要です。
マリアアリスは困惑した。安逸を願う心と、それをとがめる心が激しく争っていた。
「あたしが救われたら、死んだセンセーはどうなるの? それってセンセーを忘れることになるんじゃないの? もしセンセーが苦しんだことが誰にも影響がなかったら、センセーはいったい何のためにこの世にいたの?」
家須賀から、うなずいたような気配があった。
――彼らの命には、そして苦しみにも当然意味はあります。こう考えるのはいかがでしょうか。守がこの世界をおつくりになりました。そして世界は過去から未来まで全て一続きで、同時に作られているのです。それが守の精巧な作品なのです。遥かな古代から果てない未来まで、神にはこの宇宙そのものが一目で見渡せます。われわれはこの世界の中にいる以上、その精巧かつ大規模な作品の一部です。ほんの一片でもかけては、この宇宙そのものが立ち行きません。われわれが毎日感じては忘れてゆく、ささいな気持ち、幸せ、不幸せ、どうしようもない事、すべてが宇宙全体を支えている。われわれは過去から未来にかけて全てが互いに支えあって存在している、それ故、何者といえども、ひとつとして無意味なものはありません。
マリアアリスは突然の衝動に耐えかねて涙を流した。
「守さまは認めてくれるんだね? 皆に忘れられても、知られてなくても、センセーのことを……それから……あたしの子供は、生きておなかの外に出ることもなかったのに、それでも守さまにはわかるの?」
真摯に、家須賀は語った。
――はい。あなたのお子さんも、全宇宙にとっては大事な大事な仲間です。同じ宇宙を支える力です。無論あなたも。そして何人も死んでいった現地人、なによりあなたの説教使も、きっと守にとっては換えがたいこの世界唯一の存在なのです。
マリアアリスは言葉も無く泣き崩れる。家須賀は重ねて語りかけた。
――ですから、あなたは苦しみから自由になってください。
マリアアリスは涙にむせびながら、しかし喜びに満ちた声音で家須賀に問いかけた。
「よかった……センセーの命は無意味に終わったんじゃないんだね。子供にも、原住民にもこの世にいる意味が、理由がきちんとあったんだね」
――そうです。みんな神の御作りになった、神のために存在するなくてはならない人たちです。
「これであたしも安心して死ねるよ。センセーが報われてるってわかればあとはどうだっていいもん」
――いいえ、あなたは死にはしません。なぜなら、説教使と同じ理由であなたもこの世界に必須の存在なのですから。
「でも、これだけひどいことをしたのに、ほかの何もしてない人と同じなわけないじゃん」
――守はこの世にその目的にかなわぬものをおつくりにはなりません。つまり、あなたも守にとっては守の思いにかなって動く存在なのです。つまり守の意思を実現する存在なのです。だから、地獄になど行くはずもありません。
「でも、あたしは原住民を自分の都合で、わりと何も考えずに、適当に殺しちゃったんだよ。実際、もう数も覚えてないし……それから、センセーまで……」
――どこに気に病む必要があるでしょう? 世界は全能の守が完璧に一つの遺漏もなく造りたもうたものです。あなたが殺した人々は、あなたに殺されるために生きていたのであり、あなたは彼らを殺すために生きているのです。そう守が世界を創造したのです。
「殺したのは守のためだったって……世界のためだったっていうこと?」
――具体的な理由をわたしに説明することはできませんが、それこそがきっとあなたをおつくりになった守の意思なのでしょう。だからあなたがやったことは善い行いなのですよ。あなたが罪を感じているのなら、守はそれをすべて許しています。
「ダメダメなあたしも、守さま的には間違ってないの?」
同意するように、家須賀は答えた。
――すでに許されています。どこも悪いところはないんですよ。
マリアアリスはうっとりとつぶやいた。
「そうなの? いいんだね? あたしはあたしのままでいいんだね? いままでも、これからも!」
――それこそが守の望みです。そしてあなた自身を、そしてほかの人々全てを認めることが愛への第一歩なのです。
マリアアリスの視界は見る間に晴れていった。全身の痛みまで軽快してゆくかのようだった。
子供のような無垢な声で、マリアアリスは訊ねた。
「じゃあ、これからどうすればいいの?」
家須賀は安心したように答える。
――あなたの心が赴くままのことを行いましょう。それが人の規範に照らして良かれ悪しかれ、あなたがそう欲するということはすなわち、守がそう望んでいるということと同義なのですから。
「怒りや憎しみにおぼれても?」
――怒りなさい。憎みなさい。存分に醜い感情に浸かり、理不尽な激情をすべてにたたきつけるのです。それがあなたの気持ちならば、あなた自身に何一つ偽る必要などありません。守があなたの存在そのままを受け入れているのですから。
「与えなくても? 愛さなくても?」
――結構です。むしろ、無視しなさい。黙殺しなさい。そして、奪いなさい。壊しなさい。
「人を……あらゆる種類の次元人を、たくさんたくさん殺しても?」
――殺しなさい。虐待し、なぶりものにしなさい。種族に関係なく、自由に選んで破滅させなさい。あなたがそう考えたなら、そうしてもよい、というのでばありません。そうすべきなのです。せねばならないのです。
マリアアリスの憂いは消失した。湧き起こった全能感が、体の深奥から溢れる光のように周囲を照らしているようだった。
「そうなんだ! なら、あたしは……あたしは、AO次元人の味方になる! わたしの手から彼らの血が消えたら、きっとセンセーは帰ってきてくれる。家須賀みたいに。わたしの、女のもとへ……! 今度はもう折れない! 絶対に!」
――お好きになさい。なぜなら、守があなたを、そのように創造されたのですから。そして、一つ覚えておきなさい。あなたがそう望むのであれば、どんな形であれいずれあなたが殺した者は、実は生きていることに気づくでしょう。
「死んだのに生きてるって、そんなことあるの?」
――すべては、守の御心のままに……祈りなさい。心を謙虚にもって祈るのです。そしてなにもかも守にゆだねなさい……。
家須賀のこの上なく優しい声が、マリアアリスを慰撫した。マリアアリスは至福に身を委ねる。
檻の鍵がガチャガチャと音を立てた。扉が開き、男が侵入する。ミルエルマノスの片割れだった。
「おう、おんどれが一人で騒いどるから、わしが呼ばれたやんけ。なめとんか、コラ」
男はおそるおそる檻の中を歩く。脅えた顔付きで、微動だにしない説教使へと近づいた。そっと体の端に触った。
檻の外に向かって、こわごわとねこなで声をかける。
「すんまへん、死んどるみたいでっせ」
やってきた兵士が、説教使の死体を持ち上げた。何の感慨も無く、マリアアリスと説教使のわずかに触れていた指先は引き離された。マリアアリスは静寂に包まれている。腫れた鼻から、呼吸の音が漏れていた。牢屋から、説教使の死体は運び去られた。
男は兵士の姿が消えると、安堵したように床に膝を突いた。そそくさとマリアアリスの衣服をめくり、下半身を露にする。立ち上る悪臭に顔をしかめた。ぞんざいに、マリアアリスの肌を衣服でぬぐい、腰を持ち上げた。マリアアリスは後ろ手に縛られており、両膝を突いて胸と顔で体を支えている。露になった夜目にも白い体に男が覆いかぶさった。
「助けて……」
無言で息を弾ませる男に、かすかなささやきが届いた。男は動きを止め、マリアアリスを見下ろした。
「なんや? アンコパンマンみたいな面しくさって、キショいねん。黙っとけや」
「これから、いつでもヤっていいから」
「わしの女になるっちゅうんか?」
男は鋭い目付きでマリアアリスの様子を観察する。マリアアリスは、苦しげに答えた。
「うん。だからちょっとだけ、腕のヒモとって下さ(は)い。お願いし(ひ)ます(ふ)」
しおらしく頼むマリアアリスに、男は疑い深い眼差しを向ける。マリアアリスは付け加えた。
「どんなことでもし(ひ)ます(ふ)。さ(は)っきからす(ふ)ごく痛くて、つらいんです(ふ)。どうか助けてくださ(は)い。シ(ヒ)てる間だけでいいです(ふ)」
男は乱暴にマリアアリスの腕を縛っている紐を引っ張った。ばらりと結び目がほどける。両腕が床についた。
男はマリアアリスのほおに、大き目の錠剤を押し付けた。マリアアリスの手が錠剤を拾い、口の中に押し込んだ。
「これも飲んどけ、めっちゃキクで。わしもいっぺん大怪我した時、これ飲んで一晩寝たらすぐ治ってもうたわ」
男はわずかに檻の外を気にするそぶりを見せた。外には誰もいない。説教使がいなくなったことで、ここは監視の対象から外されたようだった。
「ホンマ、DT次元人様々やで。あの方たちはたいしたもんや。こんな薬も作れるし、わしらに職もくれる。国なんぞわしらこんなとこ飛ばしくさって、DT次元人に滅ぼされたらええねん」
男はひとしきりDT次元人を褒め称える。マリアアリスは相槌を打ち、丁寧に礼を言った。男は浮かれたように答えた。
「何言うとんねん、こんなもん常識じゃ。男は女を守るもんときまっとんねん。女を幸せにできるんは男だけや。これからナンボでも天国逝かせたるでぇ」
「うれし(ひ)いです(ふ)。もう好きなようにし(ひ)てくださ(は)い」
男は激しく動き、ほどなく背筋を反り返らせた。恍惚とした表情を浮かべ、だらしなく開いた口から涎をたらす。うっとりとため息をつき、マリアアリスに迫った。
「もう一回や。今度は前からヤったる。人間として扱こうたるんや、感謝せえよ」
男はマリアアリスの体をひっくり返した。両脚の間に、男が割り込んだ。男は多少驚いたようにマリアアリスを見た。
すでにマリアアリスの顔から腫れが引きつつあった。凄まじい薬物の効果だった。マリアアリスはわずかに微笑んだ。下に伸びた手が、男の局部に触れる。
男は期待に目を輝かせ、欲望にたぎった赤い顔をマリアアリスへ向けた。マリアアリスは薄く笑った。
「おおきに。ボンクラさん」
言うなり、マリアアリスは男の睾丸を一息に握りつぶした。男の顔が、高圧電流に触れたかのような勢いで、驚愕の表情へと変貌した。搾り出すかのような異様な声が、喉の奥からほとばしった。
「びっぎゃーーーー!」
男は白目をむいて股間を押さえた。釘のように体をまっすぐ硬直させ、口から泡を吹く。飛び出さんばかりに開いた目が充血し、どす黒く顔が変色したかと思うと、全身が急激に土色へと色あせてゆく。許容範囲を大きく逸脱した疼痛によるショック症状を呈していた。全身に起こった激甚な緊張によって全身の毛細血管が収縮し、わずかの時間に心臓へと莫大な負担がかかったようだった。不整脈から、ほどなく心停止に至るのは明白だった。
マリアアリスはのたうちまわる男の下から這い出した。断末魔の苦悶にあえぐ男のことはすでにマリアアリスの脳裡から消えていた。死に瀕してすらこの男に対して労力を割く必要を感じなかった。マリアアリスにとって、この男は記憶に残す価値を持たない塵に等しい物体だった。
説教使の雑多な私物と共に打ち捨てられた銃槍を拾う。傷のついた車輪架をそっと服の中に仕舞った。
檻の扉は開いていた。




