壊乱
マリアアリスは足を止めた。
かたわらにには説教使が並んで歩いていた。マリアアリスは、説教使の護衛然として、銃槍を背負っていた。
周囲は、行き交うDT次元人で賑わっている雑踏だった。傾きかけた日差しが灰色だった影を青く染めている。忙しげに道を歩くDT次元人たちは、マリアアリスに目を留めると、ある者は畏敬の眼差しで眺め、ある者は親しげに手を振った。マリアアリスはいくぶん戸惑いながら、しかし誇らしげな笑顔で軽く会釈する。
「どうーかしましたか?」
数歩、先を行く説教使はマリアアリスを振り向いた。呆然と、マリアアリスは立ち尽くしている。空を仰ぐように、わずかに頭を傾け、ぽかんと口を開いていた。丸く見開いた薄い青色の瞳が、虚空をさまよっている。
「マリ?」
説教使は不安げに棒立ちのマリアアリスに向き直る。マリアアリスは、我に返ったように説教使を見た。
「あ、ちょっと何か聞こえたから」
うろたえたように、マリアアリスは言った。自分でも不審に感じるほど、奇妙な衝撃を受けていた。強く殴られたにもかかわらず、痛みが全く伝わってこないかのような、薄気味悪い不安が残った。
説教使は注意深くようすをうかがうように、マリアアリスへ話しかけた。
「行きましょーか? 翻訳済みの資料を持っていかないと……」
「あっ」
マリアアリスは横を向いた。心臓の鼓動が急速に早まった。得体の知れない渇望が心を捉えた。
路地の反対側から、赤ん坊の激しい泣き声が聞こえた。
説教使の顔に、後悔の色がよぎった。なだめるように、優しい声音をマリアアリスに言葉をかける。
「大丈夫でーすか?」
マリアアリスは気もそぞろの様子で答えた。
「うん。ここって、赤ちゃんいるんだね。DT次元人の?」
「そうですね。ですが今は、急ぎましょう」
若干あわてた様子で、説教使はマリアアリスを急かそうとする。拝むように、マリアアリスは両手を説教使に合わせた。
「ね、ちょっとだけなら見てもいいでしょ? ほんの少しだけだからさぁ!」
マリアアリスは引き寄せられるように泣き声のほうへ走り出していた。血相を変えた説教使は、とっさに止めようとする。いまだ完癒しない傷に激痛が走った。思わずその場にしゃがみこむ。
説教使の様子に気付かず、マリアアリスは道路を横断した。粗末だが開拓地としては大き目の建物が目の前に出現した。
中から、確かに押さない子供の泣き声が聞こえてきた。マリアアリスは、理由のわからない期待と後悔に翻弄されていた。建物の内部は、薄暗い影に閉ざされて良く見えない。その入り口に、丸っこい白いものが動いていた。マリアアリスは息を呑んだ。
小さな赤ん坊が仰向けになって、泣き声を上げている。大きな頭に比べて、短い手足がもがくように縦横に空気を掻いていた。体全体が雪のように真っ白だった。頭頂部にのびるわずかな頭髪は銀色で、日の光を反射して輝いている。
マリアアリスはそばに駆け寄り、恐るおそる手を伸ばす。想像以上に赤ん坊の肌は柔らかく、手足もぐにゃりとつかみどころがなかった。頭を曲げた腕に乗せ、背中をもう片方の手で支えるようにして持ち上げる。マリアアリスの腕の中で、赤ん坊は身もだえした。泣き声が止み、丸い瞳がマリアアリスを見る。
マリアアリスは目を輝かせ、思わず声を上げた。
「かわゆっ!」
精巧に作られた彫刻を思わせるような、小さな手足がマリアアリスの腕の中を探るように動いていた。洗いたてのシーツのように目も醒めるような真っ白な体色は、AO次元人のものだった。しかし、肌の色以外は、HF次元人となんら変わるところはない赤ん坊そのものだった。
「やぁだぁ! すっごくかわゆーっ!」
マリアアリスはうっすらと涙さえ浮かべていた。胸元に生じた温かな液体がじわりと滲み出し、赤ん坊の中に流れ込むかのような感覚に打ち震える。いまだかつてない鮮烈な感激が、心を揺さぶった。
抱き上げた赤ん坊に吸い込まれるように見入っているマリアアリスの頭上から、ささくれ立った声が降りかかった。
「勝手にさわらないで!」
突然の怒声に、マリアアリスは呆然と声の主を見上げた。
「あ! さっきの……」
説教使の家に戻る前に出会ったHF次元人の年配女性だった。いまいましげな顔で、マリアアリスを睨みつけている。ものすごい剣幕で怒鳴った。
「早く返しなさい! 泥棒!」
「……はぁ?」
居丈高な女性の態度に、マリアアリスはとっさに反抗的な態度をとった。赤ん坊を抱いたまま立ち上がる。唇を尖らせて抗弁した。
「いきなりなんなの? ちょっと抱っこしてただけじゃん。急にキレちゃってワケわかんないし」
「うるさい!」
女性は一喝と共にマリアアリスの腕から赤ん坊を奪い取る。ぎくりとマリアアリスは体をこわばらせた。女性は赤ん坊の頭を両手でボールのように掴んでいた。柔らかいからだがぶらぶらと揺れ、赤ん坊は火がついたように泣き出した。
マリアアリスは血相を変えて手を伸ばした。赤ん坊の体を支える。
「ちょっとぉ! 何やってんだよ!」
女性はマリアアリスの手を邪険に払いのける。いっそう赤ん坊の泣き声が強まった。
「邪魔!」
「はあぁ!? フザっけんなよ、あかちゃん離せよ、おい!」
「忙しいの、こっちは仕事やってんだから……」
せわしなく動いていた女性の口は、不意に開いたまま動きを止めた。顔を引きつらせて、マリアアリスの背後を見上げる。
「どうしたのですか?」
説教使は穏やかな声で言った。ようやくマリアアリスに追いついたのだった。
「センセー! このババアが……」
マリアアリスは一転して女性を糾弾する。女性は脅えたように顔色を失い、あとじさる。マリアアリスが赤ん坊を抱き取った。
「おーよしよし」
大声で泣き続ける赤ん坊を、マリアアリスは自己流であやす。子供の頃、国民創生施設で保母が赤ん坊の世話をしている光景は日常的に目にしていたため、多少は慣れていた。
女性は怒りと恐怖に引き裂かれたような、ゆがんだ面持ちで説教使へ言った。
「でも!……困ります。今、仕事で……」
説教使はなだめるように優しげな声を出した。
「そうですか。わかりまーすよ。しかし、申し訳ありませんがこちらも少しだけお話をうかがいたいのですーが」
?:『何か?』
ぶっきらぼうな声が、建物の奥から聞こえた。説教使は丁寧に、DT次元の言葉で挨拶した。
教:『わたくし、説教使のパンフィロロドリゴと申します。このたびはお忙しいところお騒がせいたしまして誠に申し訳ございません』
相手は不審そうに説教使を見ながら、会釈する。
?:『説教使さん……? ああ、新しくおいでになった……。わたしは、糧秣管理を担当している者です。何事ですか?』
女性が声高に訴えた。マリアアリスを指差す。
「すみません! わたしが駆けつけた時には、もうこの子が勝手にこれを捕まえていたんです!」
糧秣担当者は女性にうなずきかけた。説教使に言う。
担:『それは、お手数かけましてどうも申し訳ありませんでした。ありがとうございます』
糧秣担当官が、マリアアリスに腕を伸ばす。マリアアリスは不安げに相手を見上げた。DT次元人を見慣れたマリアアリスには、糧秣担当官が笑顔を浮かべていることは理解できた。拡張知覚の翻訳機能を起動、表示された文字列を立ち上げた。
マ:『コノヲ、ドシマスカ?(この子は、どうなるのですか?)』
糧秣担当官は親しげにマリアアリスの頭を軽く叩いた。
担:『なかなか利口ですね。さすが単独で軍事行動できるだけあるな。えらいぞ!』
「えへへ」
マリアアリスは照れ笑いを浮かべる。誇らしげに、さらに口を開いた。
マ:『ダジ二、シクサダイ(大事にしてくださいね)』
担:『わかりましたよー。よしよし、いいぞ、ちゃんとわかってるんだな。ホントに賢いな~』
マリアアリスは泣き声を上げている赤ん坊を、名残惜しそうに糧秣担当官に差し出した。赤ん坊は、担当官の腕の中に収まる。マリアアリスはほめられた嬉しさに輝く顔を、背後の説教使に向けた。
説教使は苦渋の表情で黙然と立ちつくしていた。
驚いたマリアアリスは、説教使に言った。
「センセー? どうしたの?」
説教使は苦しげな声で答える。
「行きましょー。もうここではわたしたちは邪魔になるでショー」
説教使は、マリアアリスの両肩に手のひらを乗せ、きびすを返す。赤ん坊の泣き声が止んだ。
説教使のよそよそしい口調にマリアアリスは内心首を傾げながら、もう一目、赤ん坊を見ようと首を背後にねじまげた。
「ばいばい、かわいがってもらってね……」
つぶやくマリアアリスは、言葉を飲み込んだ。糧秣担当官の腕の中で、赤ん坊は顔面に広い手のひらを押し付けられ、短い手足を白い巨大な虫のように蠢かせてのた打ち回っている。
「ちょっと!」
マリアアリスは驚愕の叫びをあげた。説教使の腕を抜け出す。糧秣担当官に飛び掛った。説教使は後悔の表情で、マリアアリスの背中をなすすべもなく見送った。
糧秣担当官は、突然飛び掛ってきたマリアアリスに突き倒された。設備がひしめく狭い廊下で転倒する。床に赤ん坊が転がった。弱弱しい声が聞こえた。
「なにしてんの!」
目の前の光景を信じがたいといった様子で、年配の女性が見つめていた。恐怖に顔が引きつっている。悪臭に汚染されることを避けるかのように、身をすくめていた。
担:『いきなりどうしたんだ?』
憮然とした声で、糧秣担当官は起き上がる。説教使に声をかけた。
担:『一体何があったんですか? 全く理解できない』
説教使は申しわけなさそうに何度も担当官に頭を下げた。
教:『いきなり申し訳ありません! あの子供をお譲りいただけませんでしょうか?』
担当官はあっけにとられているようだった。床に腰をつけたまま、説教使と、赤ん坊を拾い上げるマリアアリスをかわるがわる見る。
担:『そんなこと言われても困りますね』
マリアアリスは悲鳴のように言った。
「どうしよう! 赤ちゃんがおかしいよ」
赤ん坊はぐったりと動きを止めていた。白い皮膚がみるみるどす黒く変色する。マリアアリスはまるで自分が絞め殺されていくかのような恐怖を覚えた。狼狽し、必死の形相で周囲を見回す。
説教使はなおも頼み込む。
教:『そこを何とかお願いできませんか』
担:『アレはここで飼ってるシチューつぼの食料にするんです。最近病気が流行っちゃって、死体を生きている者の食糧とする(レシークラヘ)できなくて困っているんです。捕虜の子供は貴重なんですよ。説教使さんには悪いですが、お布施なら別のものを差し上げますが、いかがですか?』
?:『おい! なにがあった?』
建物の入り口から、DT次元人の声が複数聞こえた。声の方向に年配女性がいた。彼女が建物の外へ助けを求めたのだった。糧秣担当官は安堵したように立ち上がる。
担:『おお、よかった。何か急にこいつが……』
糧秣担当官はマリアアリスを指差した。おびえたようにマリアアリスは新たに出現した数人のDT次元人を見回す。いずれも腰に銃刀をぶら下げ、簡単な装甲を身につけている。兵士のようだった。
?:『司令官が使ってたHF次元人じゃないか』
担:『だからちょっと困ってるんだよ。いきなり子供を取ってさ』
兵士はマリアアリスと説教使を囲んだ。兵士たちが説教使に向けるまなざしは、決して優しいものではなかった。あなどるように兵士たちは武器をちらつかせて、説教使を威嚇する。
?:『またこいつか』
?:『とりあえず、返させようか。甘やかしたらしつけに悪いからな』
言いながら、兵士はマリアアリスに腕を伸ばす。
「いやっ!」
マリアアリスは懸命に抵抗する。身長差が二倍近くあるDT次元人相手では、相手にもならなかった。赤ん坊からムリヤリ腕をもぎ放され、突き飛ばされる。風船のようにマリアアリスは廊下の機材に背中をぶつけた。苦悶にのたうちまわる。痛みと、怒り、屈辱に涙が流れた。眼前にぎらつく光の粒子が無数にぶちまけられた。
説教使はとっさにマリアアリスへ駆け寄ろうとする。その目の前で、一瞬、虹の橋が薄暗い暗がりの中に浮かび上がった。
破裂音が廊下を満たし、皮膚にびしりと衝撃が走った。鼓膜が激しく翻弄され、眩暈に襲われる。
絶叫が建物の内部全体に響き渡った。
「うわああああああああああっ!」
床に複数のものが落下する音がした。人形のように動かなくなったAO次元人の赤ん坊と、褐色の肌をもつDT次元人の両腕だった。その上に、赤い雨が降り注いだ。大量の血液だった。
悲鳴を上げる兵士の両腕は、肘の上からすっぱりと切断されていた。勢いよく鮮血をほとばしらせる寸詰まりの腕を突き出し、わめきながらよろめき歩く。他の兵士が銃刀の刀身を伸ばした。
マリアアリスは、追い詰められた小動物のように脅えきった様子で床に座り込んでいた。両手に銃槍を渾身の力で握り締めている。輝く槍の穂先が、ぶるぶると震えていた。
説教使の顔に、打ちのめされたかのような苦悩がよぎった。なだめるように、手を伸ばす。
「落ち着きなさーい。ダイジョブです、ダイジョブだから」
柔らかい口調で語りかける説教使の前で、マリアアリスはぐにゃりと力を失った赤ん坊の体を素早く抱き上げた。
「お願い、連れて行かないで……!」
説教使に向けたマリアアリスの瞳は、焦燥と無力感の深い影が暗澹と渦巻き、ほとんど正気を失っているかのように見えた。
?:『こいつ!』
二人の背後で兵士が怒声を上げる。説教使はマリアアリスをかばうように腕の中に抱える。火を押し付けられたような熱さが、背中を焼いた。
「うっ!」
説教使の体が固く強ばった。
「センセー、離して!」
マリアアリスは説教使の体を押しのける。ごろりと説教使は脇に転がった。その背中が、赤黒い血に染まっている。マリアアリスは驚愕した。
マリアアリスの目に、今にも銃刀を振り下ろさんとしている兵士が映った。マリアアリスは片手で銃槍の柄を振り上げた。
斥力刃が衝突し、猛烈な閃光と衝撃音が周囲に広がる。目のくらむ光がめまぐるしく瞬き、破裂音に似た耳を聾する音が、建物の中に満ちた。
兵士の攻撃にマリアアリスはなすすべもなく後退する。片方に赤ん坊を抱えたまま、廊下にひしめく機械に背中をぶつけた。足元がもつれる。
兵士が必殺の一撃を見舞おうと刀身をひるがえした。
マリアアリスの体が宙に浮いた。突然、説教使が床から跳ね起き、マリアアリスを抱きかかえたまま、廊下の奥へ猛然と走り出した。
兵士たちは刀身を仕舞い、斥力弾を乱射する。
着弾箇所が次々と爆裂し、廊下に舞い上がった破片と煙が満ちた。元々明かりが少なかったこともあり、視界が極度に悪化する。
説教使は苦しげに息を弾ませながら、糧食庫の内部を走り抜ける。
薄暗い倉庫の内部には、HF次元人と、AO次元人を閉じ込めた狭い檻が所狭しと並べてあった。檻は何重にも重ねてあり、上部から汚物が下へと滴り落ちている。彼らはみんな一糸たりとも帯びておらず、全身が汚れで覆われていた。檻は、両手両脚を折りたたんで座ることがようやく可能なほど狭かった。いずれも、シチューつぼとして飼われている者たちだった。
至る所から奇声やうめき声が沸きあがる。とても正気とは思えない異様な響きを帯びた無数の叫喚が、長く尾を引きながら部屋に何度も反響した。
「あれって……」
マリアアリスの声がおぞましさに震えていた。説教使は不意に膝を突いた。マリアアリスは床に投げ出される。目にしみるような異臭を放つ粘液で、床は濡れていた。
「センセー、どうしたの?」
マリアアリスは苦痛に苛まれているかのように息を止めた。説教使の背中には、血が滲んでいた。
「センセー、行こう、早く……」
説教使は苦しげによろめく足取りで立ち上がる。マリアアリスと手をつないだ。二人はぬるぬると湿った床を進む。
建物の最深部は、川に面していた。壁の大きな扉が開いている。そのそばに置かれた板の上に、十人程度の人間が折り重なっていた。皮膚が暗色に褪せ、微動だにしないそれらは、シチューつぼの死体だった。
二人は死体の中に踏み込んだ。水に浮いた木切れのような寄る辺なさで、ぐらぐらと転がる死骸を踏みしだきながら、扉の外を眺める。
建物の下方に、静かに大河が流れていた。扉の下は崖になっており、扉から水面まではDT次元人数人程度の高さがあった。
説教使とマリアアリスは顔をあわせた。互いに目顔で医師を確認し合う。手を固く握り合ったまま、川面に向かって飛び降りた。
さなええりなとフィオナナンシーはぎこちなく互いの半裸の体をもぎ離した。生温かい水の打ち寄せる河岸で、二人は衣服をはだけて重なり合っていた。
日はすでに地平線に近づき、紫色が頭上の天蓋を覆っている。ひんやりとした空気が地上に降り、水に濡れた肌を冷やした。
二人は休息に身を押し包んだ寒気に全身に鳥肌を立てて河岸から身を起こす。
「寒くなってきたあ」
フィオナナンシーはけだるげに言った。
「うん」
さなええりなは愛しげにフィオナナンシーの胸元にほおを寄せた。フィオナナンシーの胸は、筋肉に覆われて平たく引き締まっていた。
何気ない動作で、フィオナナンシーはさなええりなから離れる。白けきった、いっそ不機嫌な面持ちでフィオナナンシーは立ち上がる。ふくらはぎがひくひくと痙攣しているようだった。すでに霧消した激しい興奮の名残だった。
さなええりなは夢から醒めたように、フィオナナンシーの背中を見上げた。遅れまいと急いで立ち上がった。背中や腰に、ぎざぎざの赤い傷が走っている。川底に埋まっている固い枯れ木のような棒でついた傷だった。無言で彼女を置き去るフィオナナンシーの背中を愕然とした面持ちで眺める。つい先ほど、強引にさなええりなに迫ってきた様子が嘘のようだった。さなええりなは混乱する。
川上から、かすかな騒音が聞こえてきた。
「なんだろうー……」
理由もわからずに沈んでゆく気持ちを紛らわせようと、さなええりなは耳を澄ませた。遠くで、立て続けに水に何かが投げ込まれる音が聞こえたような気がした。周囲を見渡せば、離れた場所に白い漂流物が浮かんでいる。既視感が泡のように湧き立った。唐突に、さなええりなは理解した。水面に漂っているものは死骸であり、水底に沈んでいる枯れ枝のような硬いものは、死骸の骨だった。足元に球状の石が砂に埋もれているように思っていたが、それは頭蓋骨の一部のように見えた。恐怖が足元から背中、そして頭にかけて、ぞおっと駆け上った。発作的に、飛び上がるように走り出す。
フィオナナンシーは倦怠感に押し包まれたまま、水から上がる。脳裡からはすでにさなええりなは消えていた。
「やだー!」
背後で上がった悲鳴に、フィオナナンシーは舌打ちしたいほどの苛立ちを感じた。まるで何も聞こえなかったかのように歩く。
激しく水しぶきを跳ね上げながら、さなええりなはフィオナナンシーに駆け寄った。背後から抱きつく。
「どうしたのお?」
生彩のない声音で、フィオナナンシーは訊ねた。背後には目も向けない。さなええりなは大声を張り上げた。
「死体があるー、それも結構あったよー!」
「またあ? どこお?」
フィオナナンシーはさなええりなの指差す方向へ目をやった。
白いものが浮かんでいる。遠目には丸い物体だが、目を凝らせば四肢が確認できた。今しがた、死体の漬かっていた同じ水に触れていたことを想起し、吐き気がこみ上げてきた。
「なんでえ……?」
「なんか、動いてるのがいるー!」
「うそお……」
二人は身を寄せ合った。白いしぶきの間に、ピンク色が目に入った。その脇には、見覚えのある服装に身を包む褐色のDT次元人が浮き沈みしている。
「マリい!?」
フィオナナンシーとさなええりなは驚愕の悲鳴を上げた。
「センセーもいるー!」
「泳いでるのお? なあにやってんだよお」
さなええりなは動転し、その場に棒立ちになった。
「どうするー? どうするー?」
「とりあえず助けようよお!」
二人は河畔に横たえてあった銃槍を拾い、河岸に添って走った。マリアアリスと説教使は、水面で揺れる死体と共に近づいてきた。さなええりなとフィオナナンシーはひるみながらも、水に飛び込んだ。
かろうじて川底に足のつく場所で、四人は合流する。ほとんど全員がおぼれる寸前になりながら、もつれるようにして河岸へ進んだ。
河畔までたどり着いた説教使は、脇に嬰児を抱えたまま、ぐったりと砂の上に倒れ込んだ。四つん這いになったマリアアリスは肩を上下させ、激しく水を嘔吐する。
フィオナナンシーがマリアアリスを介抱しながら、質問した。
「どうしたのお? いきなり変なとこから出てきてえ」
ひゅうひゅうと喉を鳴らし、マリアアリスはずぶぬれになった顔をフィオナナンシーに向けた。白っぽく色あせた唇が震えている。説教使の腕の中にいる赤ん坊のそばへ這いずった。あえぎながら、赤ん坊の小さい体を揺すった。反応のない、冷たくこわばった矮躯を掻き抱き、泣き声を放った。
フィオナナンシーは脅えたように言った。
「どうしたのー? 何か言ってよー!」
さなええりなも不安のあまり失神しそうなようすで説教使に話しかけていた。説教使は死んだように横たわったまま、かすかに背中を上下させているのみだった。
四人の背後に、荒々しい足音を立てて、複数の騎兵が現れた。銃槍を構えた体勢で、素早く四人を囲む。
兵:『動くな!』
鋭い命令が飛んだ。さなええりなとフィオナナンシーは血相を変えた。マリアアリスが押し潰されたような声でつぶやいた。
「あたし、兵隊さんに怪我させちゃった」
さなええりなとフィオナナンシーは呆然とマリアアリスを見た。
「ばあか! なあんでそんなことすんだよお、せっかく開拓軍に合流できたっていうのにい……」
「どうしてー? 何か理由があるんでしょー?」
マリアアリスは顔を上げ、二人を見た。倒れ伏したままの教師へと視線を送る。死人のような土気色の顔をゆがめ、声を絞った。
「ゴメン、ホントにゴメン! 迷惑かけてゴメンなさい! もうみんなとはここでお別れだよ!」
額を砂地にこすりつけ、マリアアリスは叫んだ。
マリアアリスの恐慌が伝染したかのように、フィオナナンシーは怒ったように言った。
「なんでって聞いてんのお、お願いだから理由を言ってよお!」
さなええりなは、無言で銃槍を突きつける兵士たちを見回した。いずれも無表情に四人を見下ろしている。異常な事態に脅えきり、体をがたがた震わせた。
「だ、大丈夫だよー! そうなんでしょ、きっと許してもらえるよねー?」
みずからに言い聞かせるように、さなええりなは身を伏したマリアアリスに訊ねた。
マリアアリスは力なく首を振った。
「わかんない……わかんないよ……でも、きっとあたし殺されるんだ。きっとそうだよ」
「そんなことないよー、きちんと謝れば大丈夫だよー!」
フィオナナンシーはさなええりなの言い分に飛びつくように同意した。
「そうだよお、わざとじゃなかったんでしょお? ねええ、そうなんでしょお? だったら絶対、許してもらえるよお!」
「そうだよー、あきらめないでー! わたしたちも一緒に謝るからー!」
「協力するしい! なんでもするよお!」
懸命に二人は言い募る。マリアアリスは力なく頭をもたげた。さなええりなとフィオナナンシーの顔をかわるがわる見つめ、涙を流す。ひくひくと肩を上下させた。
「ありがとう……」
その時、兵士たちの間に引き絞られた鋼線のような緊張が走った。
両開きの扉のように、二人の兵士が空隙を作る。そこへ、悠然と戦騎を乗り入れたのは、司令官だった。
司:『これはまた、妙なことになったな』
司令官は冷淡な目付きで四人を見下ろしながら、つぶやいた。かたわらの兵士が事情を説明する。司令官はうなずいた。
司:『この男を連行しろ。いろいろ聞かねばならんことがある』
説教使のそばに兵士が歩み寄る。説教使は、意識を失っており、微動だにしない。マリアアリスは説教使の上に覆いかぶさり、敵意のある目付きで兵士を睨みつけた。
さなええりなは、恐怖に圧倒され、涙を浮かべて座り込んでいた。フィオナナンシーは極度の緊張に顔を引きつらせ、せわしなく瞳を左右にめぐらせている。
兵士は司令官に指示を仰いだ。
兵:『修身士はどうしましょう、抵抗するようですが』
司令官は興味深そうにマリアアリスを覗き込む。傍らの兵士から、銃槍を取った。冷徹な声音で三人に通告した。
司:『お前たちの説教使にはスパイの嫌疑がかかっている。もしこのままおとなしく降伏するなら命まではとらん』
マリアアリスは無謀な怒りと圧倒的な威圧感への恐怖に葛藤しながら、声高に主張した。
「センセーは何もしてないよ!」
司令官は小首を傾げた。そばの兵士に質問する。
司:『なんて言った?』
兵士は首を振った。司令官は肩をすくめて、もう一度繰り返した。
司:『おとなしくわれわれについて来い。下手に抵抗すると、この場で殺すぞ』
兵士たちが説教使に手を伸ばした。
「やめて!」
マリアアリスは兵士たちにむしゃぶりついた。色めきたったさなええりなとフィオナナンシーは悲鳴をあげた。
司令官は銃槍を振り下ろした。
マリアアリスの体が地面に投げ出され、砂の上を転がった。
兵士の囲いが乱れる。戦騎の間隔を、ものすごい勢いのフィオナナンシーが駆け抜ける。兵士たちから斥力刃が展開する音が次々と起こる。身構える騎兵たちを背後に、フィオナナンシーは脱兎のごとく駆け去っていった。
兵士たちは斥力弾を発砲する。周囲に炸裂する弾丸の爆風に煽られ、よろめきながらもフィオナナンシーはかろうじて着弾を免れた。河畔を離れ、建物の影に身を隠す。市街地へ続く道の向こうへと姿を消した。
あまりの素早さにあっけにとられていた司令官が言った。
司:『逃げたな』
兵:『追いますか?』
司令官は答える。
司:『放っておけ。いずれエサが尽きたら町をうろつき始めるだろう。そうしたら改めて捕まえるなりすればよい』
司令官の目は、さなええりなへ移っていた。
司:『おまえはどうするつもりだ?』
さなええりなは歯の根もあわないほど震えていた。すでに彼女が頼りにできそうな者は誰もいなかった。己の身長より遥かに高い場所から威圧的な気配を放つ兵士たちに囲まれ、恐怖に惑乱したさなええりなは正常な思考が困難になっていた。
わななく唇で懸命に訴える。
さ:『逃、逃ゲマ、セン、メ、メ、命、令、ニ、従ガイ、マス』
司令官はにっこりと柔和な笑みを浮かべた。
司:『ふむ。こいつは見所があるな。一緒に連れて行け』
兵士たちは意識のない説教使と、マリアアリスの体を運んだ。その背後から、うなだれたさなええりなが徒歩でついていった。




