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異世界 イルフェスト

「獣臭い女はいらない」と言われたので出ていきます ~私にしか懐かないフェンリルの群れ、誰が面倒を見るんですか?~

作者: tomato.nit
掲載日:2026/06/01


「今日という今日は、もう我慢の限界だ! ロレッタを連れてこい!」


 領主様の声が、館の廊下をびりびり震わせました。


 遅い朝ごはんを食べていた私は、びくっと肩を跳ねさせます。膝の上で丸くなっていたフェンリルの子どもが、白い耳だけをぴくりと立てました。


「大丈夫ですよ、ふわふわ。まだごはん中ですからね」


 そう言って背中を撫でようとしたところで、肘が皿に当たりました。


 パリン、と乾いた音がします。


「あわわ……またやっちゃいました」


 割れた皿を前に固まっていると、食堂の扉が勢いよく開きました。


「ロレッタ! 聞こえていただろう。領主様がお呼びだ」


 入ってきたのは、館の使用人でした。


「今の、領主様の声ですか?」


「ご命令を正確にお伝えした」


「声までですか?」


「正確にだ」


 この人は、なぜか人の声を真似るのがとても上手です。料理長の声も、門番長の咳払いも、だいたい似ています。


 前にクロの遠吠えを真似した時は、犬舎の屋根が半分飛びました。


「ええと……まだ、ご飯の途中なのですが」


「うるさい。来い」


「せめて第三犬舎の朝ごはんだけでも先に。今朝はクロが少し機嫌を悪くしていまして」


「領主様を待たせる気か」


「でも、クロを待たせると柵を噛みます。前に一度、柵だけで済まなくて」


「言うな。思い出したくもない」


 使用人が私の腕をつかもうとした瞬間、ふわふわが低く喉を鳴らしました。


 手が止まります。


「……その獣を連れてくるな」


「ふわふわは獣ではありません。いい子です」


「いい子は床板に爪痕を残さない」


「まだ子どもなので」


「置いてこい!」


 私はふわふわを椅子の上にそっと下ろしました。


「少しだけ待っていてくださいね。戻ったら、耳の後ろを梳かしてあげますから」


 ふわふわは不満そうに鼻を鳴らしましたが、私の指先をちょんと舐めてくれました。


 それから私は、割れた皿を端に寄せて、使用人に連れられて執務室へ向かいました。


 執務室に入ると、領主様は窓辺に立っていました。


「貴様、あれはどういうことだ。説明しろ」


 窓の外に見える城壁には、きれいな丸い穴が開いています。向こう側の草原までよく見えました。


「あ、あれは……クロとシロが、東の森から来た魔猪を追い払おうとして、少し興奮してしまいまして」


「少しで城壁に穴が開くか」


「はい。少しで済みました。えらかったです」


「褒めている場合か!」


 領主様の怒鳴り声で、机の上の書類が少し浮きました。


 私は慌てて眼鏡を押さえます。


「見張り塔の兵が三人、足をくじいた。王都への報告書も必要になる。近隣に知られれば、我が領地は“魔獣に城壁を壊されるほど統制が取れていない”と見られる」


「でも、魔猪は追い払えました。クロたちも、ちゃんと加減して――」


「加減して城壁を抜いたのなら、なおさら問題だ」


 クロはいい子です。シロもいい子です。三号は、まだ少しだけ元気すぎます。


 でも、城壁は壊れました。


「ロレッタ。私は、フェンリルが役に立たないと言っているのではない」


 領主様は、そこでようやく私を見ました。


「貴様に任せておくには、危険が大きすぎると言っている」


 胸の奥が、きゅっと縮みました。


 皿を割った時も、書類を出し忘れた時も、会議室にフェンリルの毛をまき散らした時も、私はよく叱られます。


 けれど、フェンリルのことでそう言われると、うまく息ができません。


「王都から魔獣調教師を呼ぶ。正式な資格を持った者だ。今後、犬舎の管理はそちらに任せる」


「クロたちの朝ごはんも、ですか?」


「そうだ」


「シロのブラッシングも?」


「そうだ」


「ふわふわの耳掃除も?」


「そうだ」


「三号の爪切りは危ないですよ。あの子、自分の足が四本あることを時々忘れるので」


「専門家がやる」


「でも、クロは朝、右耳の後ろを撫でてからでないと肉を食べません。シロは金属の器が嫌いです。ふわふわは私の匂いのする布がないと寝ません。三号は、知らない人が爪に触ると――」


「ロレッタ」


 低い声に、私は口を閉じました。


「その細かな癖に振り回されているから、統制が取れないのだ」


「でも、嫌なことを覚えておかないと、あの子たちは言うことを聞いてくれません」


「魔獣は命令に従わせるものだ」


「……そうでしょうか」


「そうだ」


 領主様の声は、重くて、正しいように聞こえました。


 でも、私の知っているクロたちは、少し違います。


 命令より、匂い。


 餌より、声。


 叱るより、先に目を合わせること。


 それをうまく説明できないまま、私はつなぎの裾を握りました。


 その時、横の扉が開きました。


 入ってきたのは、領主様の息子であるライアン様です。金の髪をきれいに撫でつけ、濃紺の上着を着ています。


 私の婚約者、ということになっている方でした。


「父上、まだこんな女を置いておくおつもりですか」


 ライアン様は私を見るなり、鼻に皺を寄せました。


「朝から獣の臭いがする。館の空気まで汚れる」


「す、すみません。今朝はふわふわを洗ったので、少し濡れた毛の匂いが」


「言い訳をするな。獣と寝起きしているうちに、自分も人間だと忘れたか」


 ライアン様は、冷たい目で私を見ました。


「獣臭い女はいらない。この館にも、この領地にも、お前の居場所はもうない」


 居場所がない。


 では、私はどこへ行けばいいのでしょう。


 犬舎でしょうか。


 でも、犬舎からも外されると言われました。


「ライアン、言葉が過ぎる」


「過ぎていません。婚約も解消すべきです。王都から調教師が来るなら、この女を置く理由はないでしょう」


「それは――」


「フェンリルは領地の資産です。世話係ひとりに振り回される方がおかしい」


 領主様は、すぐには答えませんでした。


 その沈黙で、私はだいたい分かってしまいました。


「……ロレッタ。今日中に館を出ろ。西の修道院に身を寄せるがいい」


「犬舎には、行ってもいいですか?」


「ならん」


「お別れだけでも」


「余計な混乱を招く」


 夕方の餌の量を、まだ誰にも伝えていませんでした。


 クロは少なすぎると怒ります。シロは多すぎると残します。ふわふわは、器の右側に肉を寄せないと食べにくそうにします。


 それなのに、犬舎には行ってはいけないそうです。


 眼鏡の奥が、少しだけ熱くなりました。


 でも、私は泣きませんでした。


 泣くと鼻が詰まります。鼻が詰まると、フェンリルの体調の匂いが分かりにくくなります。


「分かりました」


 私は、頭を下げました。


「今まで、お世話になりました」


 その日の夕方、私は小さな荷物だけを持って館を出ました。


 犬舎は、館の二階くらいの高さがあります。運動場と石造りの寝床と水浴び用の池まである、ほとんど小さな砦です。


 屋根の上で、クロが立ち上がっていました。


 黒い耳が、ぴんとこちらを向いています。


 屋根瓦が一枚、ずるりと滑って落ちました。


 中庭の水場では、シロが金属の器を前足で押しやっていました。あれは嫌です、という顔です。


 柵のそばでは、三号が噛み木を抱えていました。昨日渡したばかりなのに、もう半分ありません。


 ふわふわは、私の匂いのする毛布がないと眠れません。


 でも、ふわふわ用の毛布も犬舎に置いたままでした。


 着替えと、眼鏡の予備と、フェンリルの子どもに噛まれて角が丸くなった木の櫛。


 荷物袋に入れられたのは、それだけです。


 クロ用の大きなブラシは、私の荷物袋より長いのです。シロ用の毛すきも、片手で抱えるだけで精一杯です。


 しばらく迷って、結局、小さい櫛だけを入れました。


 犬舎には近づけませんでした。


 遠くから、かすかに遠吠えが聞こえます。


 付き添いの使用人が、少しだけ足を速めました。


「急げ」


「はい」


「……あれは、怒っているのか」


「たぶん、寂しがっています」


「寂しい声に聞こえん」


「クロは声が低いので」


 使用人は一度だけ息を吸い、クロの声を真似ようとして、すぐに口を閉じました。


「やめてくださいね」


「分かっている」


 それきり、使用人は黙りました。


 西の修道院は、領地の端にある古い建物でした。


 修道女の方々は優しく、私に部屋と仕事をくれました。私は井戸の水汲みと、鶏小屋の掃除を任されます。


 鶏は小さくて、軽くて、かわいかったです。


 ただ、近づくと逃げました。


「ロレッタさんは、動物のお世話が得意なのね」


 修道女の一人が、籠を抱えて笑いました。


「いえ、そうでもありません。お皿はよく割りますし、書類はよく忘れますし、昔フェンリルと追いかけっこをして城壁を壊したこともあります」


「それは動物のお世話とは少し違うわね」


「はい。私もそう思います」


 そう答えたところで、遠くから地鳴りが聞こえました。


 最初は雷かと思いました。


 けれど、空は晴れています。


 次に、馬車かと思いました。


 けれど、音が大きすぎます。


 私は井戸の桶を持ったまま、修道院の門へ向かいました。


 森の鳥たちが一斉に飛び立ち、畑の鶏が悲鳴みたいな声を上げます。


「……この足音、クロですね」


 私は眼鏡を押し上げました。


「あと、シロと三号。少し遅れているのはふわふわです。ふわふわはまだ歩幅が小さいので」


 修道女の方が、真っ青な顔で私を見ました。


「ロレッタさん、何が来ているの?」


「うちの子たちです」


「何匹?」


 森の木々が、左右に割れました。


 最初に飛び出してきたのは、夜のように黒い巨大なフェンリル。次に、雪のように白いフェンリル。その後ろから、灰色、銀色、まだら模様の若い個体たちが次々と姿を現します。


 最後に、全身を白い毛で膨らませたふわふわが、短い足で一生懸命走ってきました。


「全員ですね」


「全員って、何匹なの?」


「ええと……昨日までなら、十七匹です」


「昨日まで?」


「今朝、増えていなければ」


 言い終わる前に、クロが門の前で急停止しました。


 風が巻き起こり、私の眼鏡がずれます。


 巨大な鼻先が、私の髪と肩と袖の匂いを確かめるように近づきました。


「クロ」


 私が名前を呼ぶと、クロは低く鳴きました。


 怒っている声です。


「ごめんなさい。急にいなくなってしまって」


 言い終わる前に、クロの舌が私の顔をべろんと舐めました。


 眼鏡が飛びます。


「あわわ、眼鏡、眼鏡が」


 シロが私の背中に鼻を押しつけ、三号が足元に転がり、ふわふわが私の胸に飛び込んできます。私は受け止めきれず、そのまま後ろへ倒れました。


 重いです。


 とても重いです。


 でも、あたたかい。


「もう、大丈夫です。私はここにいますから」


 そう言うと、フェンリルたちは少しだけ静かになりました。


 その日のうちに、領地から朝の使用人が来ました。


 馬を飛ばしてきたらしく、顔は青ざめ、髪は乱れ、服には泥が跳ねています。私を見るなり、使用人は修道院の門前で膝をつきました。


「ロレッタ、戻ってきてくれ」


「ええと……何かありましたか?」


「ありました。ありすぎました」


 使用人は、土のついた手で顔を覆いました。


 声真似だけはいつも通り上手い人なのに、その日は唇の色がありませんでした。


「王都から来た魔獣調教師殿は、最初は自信満々だった」


 そこで使用人は、急に背筋を伸ばしました。


「『正式な資格を持つ私に任せてください。魔狼種の扱いも心得ています。世話係の娘ひとりにできたことなら、私にできないはずがありません』」


 声が少し高くなりました。


 たぶん、調教師の方の真似です。


「頼もしい方ですね」


「頼もしかったのは、犬舎の前までだ」


「前まで」


「ああ。扉を開けた瞬間、クロが立っていた」


 私はクロを見上げました。


 クロは知らん顔で、私の肩に顎を乗せています。


「調教師殿は、まず餌桶を持った」


 使用人は、見えない桶を両手で持つ仕草をしました。


「『よし、まずは餌で注意を引きましょう』」


「あ、それは駄目です」


「駄目だった」


 使用人は即座にうなずきます。


「クロは、知らない人が桶を持つと、桶の中身より桶を持っている人を見ます」


「見てた。ものすごく見てた」


「目をそらしましたか?」


「そらした」


「あわわ」


 それは駄目です。


「次に調教師殿は笛を吹きました」


 使用人は、口元に指を当てかけて、クロを見てから手を下ろしました。


「真似はやめておく」


「はい。その方がいいです」


「その時点で、シロが横に回った。静かに。とても静かに」


「シロは笛の音が嫌いですから」


「調教師殿はそこで従属の術式を展開しようとした」


「それはもっと駄目です」


「もっと駄目だった」


 使用人は、今度は低い声で続けました。


「クロが一歩前に出た。調教師殿は一歩下がった。シロが横に回った。調教師殿はさらに一歩下がった。三号が尻尾を振った」


「三号は人懐っこいですからね」


「その尻尾で餌倉庫の扉が吹き飛んだ」},{


「あわわ」


「それから、ふわふわがロレッタの匂いのする毛布を探して泣き始めた」


「ふわふわ」


 腕の中のふわふわが、私のつなぎに顔を押しつけました。


「それで?」


「調教師殿は、犬舎に入って三歩目で気を失った」


「三歩なら、よく頑張った方です」


「褒めてる場合じゃない!」


 使用人は泣きそうな顔で叫びました。


「その後、フェンリルたちが犬舎を破って出た。柵は全壊。東門も半壊。魔猪の群れが森の境界まで戻ってきてる。フェンリルがいなくなって、外の魔物が一斉に近づいてるんだ。領主様が、どうか戻ってほしいと」


 私は困ってしまいました。


 クロの首に腕を回したまま、少し考えます。


「でも、私は犬舎に近づいてはいけないと言われました」


「その命令は取り消された」


「それに、この領地に居場所はもうないとも言われました」


 使用人は言葉に詰まりました。


 そこへ、修道院の奥から院長様が出てきました。


 白髪の、背筋の伸びた女性です。クロの鼻先が近づいても、少しも慌てませんでした。


「ロレッタさん。あなたはどうしたいのですか」


「私は……」


 クロが、私の肩に顎を乗せました。


 シロが私の背中に体を寄せます。ふわふわは、私のつなぎの紐を噛んでいました。やめてください、それは予備がありません。


「私は、この子たちの世話をしたいです」


「なら、それでいいでしょう」


 院長様はうなずきました。


「裏手の牧草地を使いなさい。広さは足りないでしょうが、当面の寝床にはなるはずです」


「いいんですか?」


「ええ。ただし、納屋は壊さないでね」


「努力します」


「約束ではなく?」


「……努力します」


 院長様は、少しだけ笑いました。


 それから、使用人の方を見ます。


「領主様には、管理契約を結び直していただきましょう」


「契約、ですか」


「ええ。この子を追い出した以上、無償で世話を求めるのは筋が通りません」


 使用人の顔が、さらに青くなりました。


 それから数日後、領主様は修道院に来ました。


 疲れた顔をしています。


 その後ろで、ライアン様が袖で鼻を押さえていました。


「ロレッタ」


 領主様は、修道院の庭で頭を下げました。


「判断を誤った。戻ってきてほしい」


 私は、クロの首元をブラッシングしながら少し考えました。


 昨日、三号が納屋を半分壊しました。


 院長様は「屋根の修理は必要でしたから」と笑ってくれました。


「申し訳ありません」


 私は頭を下げました。


「私は、館には戻りません」


 領主様の肩がわずかに落ちました。


「おい、ロレッタ」


 ライアン様が一歩前に出ました。


 クロの耳が動きます。


「お前がどうしても戻りたいと言うなら、考えてやらなくもない」


「ええと……私は、戻りたいとは」


「勘違いするな。お前を許すと言っているんだ」


 クロが、低く喉を鳴らしました。


「あ、ライアン様。今の言い方は、クロがあまり好きではありません」


「魔獣の機嫌など知るか。犬なら主人に従うものだろう」


 クロが一歩、前に出ました。


「クロ。駄目です。この方は、ええと……少し言葉が下手なだけです」


 クロは私を見ました。


 それから、ライアン様へ顔を近づけます。


「あ、よかったですね。一度だけ許してくれるそうです」


「な、何を勝手なことを」


「う、動いちゃだめですよ。クロが満足するまで」


 クロの鼻先が、ライアン様の目の前まで近づきました。


 クロはゆっくり口を開きます。


 舐めるためです。


 たぶん。


「や、やめろ!」


 ライアン様の声が、庭に響きました。


 クロの動きが止まりました。


「あ」


 白い牙が見えました。


 低い唸り声が、地面を震わせます。


 ライアン様は、その場に尻もちをつきました。


 そして、口から泡を吹いて気を失いました。


「……あわわ」


 私はクロの首に抱きつきました。


「駄目です。怖がらせてはいけません」


 クロは不満そうに鼻を鳴らしました。


 領主様は、倒れたライアン様を見下ろして、深く息を吐きました。


「……管理契約の話をしよう」


「はい」


 私はクロの首を撫でながら、うなずきました。


「フェンリルたちが森の魔物を追い払う仕事はできます。クロたちも、あの森は嫌いではありませんので」


「頼む」


「ただし、朝ごはんとブラッシングと昼寝の時間は守ってください。それから、シロの器は金属ではなく木製でお願いします。ふわふわ用の毛布も必要です。三号には、丈夫な噛み木を」


「分かった」


「あと、修道院との契約になるそうです。院長様が、無償はいけませんと」


「それも分かった。必要な餌も、設備も、修繕費も出す」


「あ、修繕費は多めがいいと思います。三号が、昨日から納屋の柱を気に入っていまして」


「……分かった」


 領主様はもう一度深く息を吐くと、泡を吹いたままのライアン様の襟首をつかみました。


 そのまま、ずるずると庭を引きずっていきます。


「領主様、意外と力持ちなんですね」


 私は少し感心しました。


 ただ、ライアン様の濃紺の上着は、庭の土でどんどん汚れていきます。


「あれでは、せっかくのお洋服が汚れてしまいます」


 クロが、ふん、と鼻を鳴らしました。


 こうして、私は修道院の裏手に作られた新しいフェンリル牧場の管理人になりました。


 牧場といっても、やはりほとんど砦です。


 ただ、前より少し広くて、日当たりがよくて、修道女の方々が時々おやつを持ってきてくれます。


 元の領地は、毎月それなりの金額を払って、フェンリルたちに森の見回りを依頼しています。


 今月も、管理費と牧場修繕費はきちんと届きました。三号が気に入った柱の補修費は、別枠です。


 王都から来た魔獣調教師の方は、今では私の助手です。


「ロレッタさん。ふわふわの耳掃除、今日は私がやってもいいでしょうか」


「ええ。三歩で失神した頃と比べると、すごい進歩です」


「その話は忘れてください」


「書類は忘れるのですが、フェンリルのことは忘れなくて」


「困りましたね」


「はい。困りました」


 私はいつものつなぎに袖を通し、眼鏡をかけ直しました。


 鏡を見ると、鼻の上にそばかすが散っています。


 私のチャームポイントです。


 本人談ですが。


「ロレッタさん、クロさんたちが朝ごはんを待っていますよ」


「はい、今行きます」


 私は大きな肉桶を持ち上げようとして、足元のブラシにつまずきました。


 肉桶が傾きます。


「あわわ、危ないです!」


 その瞬間、クロが鼻先で桶を支え、シロが私の背中を受け止め、ふわふわが私の袖を噛んで引っ張りました。


 肉は一切こぼれませんでした。


「ありがとうございます。みんな、いい子ですね」


 フェンリルたちは、得意げに尻尾を振りました。


 地面が少し揺れます。


 遠くで、修道院の納屋がみしりと鳴りました。


 私はそれを聞かなかったことにして、朝ごはんの支度を始めました。


 今日も、牧場は平和です。


 たぶん。


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