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『氷点下の夏休み』

作者: だけども
掲載日:2026/04/21

夏というのは、季節の一種などではなく、純然たる「暴力」である。

太陽という名の恒星が地球に対して行使する、無差別かつ広域な熱放射テロリズム。それが夏の正体だ。僕たちは「夏休み(モラトリアム)」という名の甘い砂糖菓子でその事実を糊塗しているに過ぎない。気温三十五度を超える猛暑日において、人間はただ呼吸をしているだけで緩やかに致死量へ向かっていく。つまり、夏を生きるということは、死の予行演習に他ならないのだ。

そんな偏執的パラノイアックな持論を脳内で展開しながら、僕は陽炎がアスファルトを舐め回す国道沿いを歩いていた。

目的地は特になかった。強いて言えば「どこにも行き着かないこと」が目的だった。クーラーの効いた自室という名の安全地帯シェルターを飛び出したのは、単なる気まぐれだ。あるいは、この暴力的な熱量によって、自分の中に巣食う得体の知れない「退屈」を焼き尽くしてしまいたかったのかもしれない。

セミの鳴き声は、もはや音というよりは物理的な振動ノイズとして鼓膜を殴りつけてくる。視界は蜃気楼によってぐにゃぐにゃと歪み、世界の輪郭が曖昧に溶け落ちていく。

そんな、世界がバグを起こしたような風景の中で。

『それ』は、あまりにも唐突に、そして決定的に間違った形で存在していた。

廃線になってから優に十年は経過しているはずの、赤錆びたバス停。『不知火しらぬい十字路』と辛うじて読める傾いた標識の真下に、一人の少女が立っていた。

一見して、同年代の女子高生フォーマットであることは分かった。しかし、彼女の服装は、現在僕が受けている夏の暴力に対する、最も愚かで、最も狂気的な反逆だった。

頭には分厚い毛糸のニット帽。首元にはチェック柄のマフラーを三重に巻きつけ、上半身はモッズコートのジッパーを首の最上部までしっかりと引き上げている。下半身は黒のタイツに、ごついスノーブーツ。

「…………」

僕は立ち止まった。立ち止まらざるを得なかった。

周囲の気温は三十六度を記録している。アスファルトの表面温度は五十度を超えているだろう。その中で、彼女は完全な「真冬の防寒装備」で直立不動の姿勢を保っていたのだ。額からは一滴の汗も流れていない。それどころか、彼女の周囲だけ、文字通り空間が凍りついているかのような錯覚すら覚えた。

関わってはいけない。

僕の脳内にある生存本能アラートが、けたたましく警鐘を鳴らした。あれは間違いなく、この狂った気候が生み出した幻覚バグ、あるいは触れてはならない類の特異点シンギュラリティだ。

僕は視線を外し、何事もなかったかのように通り過ぎようとした。通り過ぎようとした、のだが。

「そこの、汗をかきすぎている凡庸な少年モブ・キャラクター

鈴を転がすような、しかし絶対零度の冷たさを孕んだ声が、僕の背中を正確に射抜いた。

「……僕のことかな」

「あなたの他に、この灼熱の地獄インフェルノで無目的に徘徊している暇人がいるなら、ぜひ紹介していただきたいですね。もっとも、私の視界にはあなたという名のノイズしか映っていませんが」

振り返ると、モッズコートの少女は標識の下から一歩も動かず、首だけをこちらに向けていた。前髪の隙間から覗く、吸い込まれるほどに黒く、そして恐ろしく凪いだ瞳が僕を捉えている。

「君こそ、その服装はなんだい? 何かの罰ゲーム? それとも、季節という概念を喪失した新種の妖精か何か?」

「愚問ですね。見ての通り、遭難しているんです」

「遭難」

「ええ。そうなん(遭難)です。ルビを振るまでもなく、文字通りの意味で。私は現在、猛吹雪の雪山において、ホワイトアウトにより完全に方向感覚を失った状態にあります。したがって、この防寒具は生存のための必要最低限の装備プレレクイジットと言えるでしょう」

狂っている。

彼女は、照りつける真夏の太陽の下で、平然と「ここは猛吹雪の雪山だ」と言い放ったのだ。

「なるほど。それは大変だ。君の脳内せかいでは、今、猛吹雪が吹き荒れているわけだね。それはさぞかし寒かろう。凍死する前に、その分厚いコートを脱ぐことをお勧めするよ。物理的な意味で熱中症で死ぬ前にね」

僕が皮肉たっぷりにそう返すと、少女は呆れたように小さくため息をつき、マフラーに埋もれた口元を微かに歪めた。

物理法則そんなものに縛られているから、あなたは凡庸なのだと理解すべきですね。私が寒いと言っているのは、外気温の話ではありません。私の『内面』の話です」

「内面?」

「ええ。私の心臓は現在、マイナス四十度で活動を停止しかけています。原因は明確。私が『あるもの』を喪失してしまったからです。それを探すために、私はこうして猛吹雪の中で、来るはずのないバスを待っている」

少女はそこで言葉を区切り、モッズコートのポケットから、一つの奇妙な物体を取り出した。

それは、透明なアクリル樹脂で固められた、一匹の『ひまわりの種』だった。いや、よく見ればそれはただの種ではない。種に見立てられた、精巧な砂時計だ。中の砂は、なぜか下から上へ、重力に逆らうように落ちて(昇って)いる。

「私は四角井しかくい 円美まるみ。見ての通り、真ん丸な矛盾を抱えた迷子です」

四角井と名乗った少女は、その逆流する砂時計を僕の目の前へ突き出した。

「そしてあなたは、私が探している『喪失物』の在り処を知っている。いえ、より正確に表現しましょう。あなたが、私の『夏』を隠し持っているのでしょう? 泥棒さん」

突然の濡れ衣。唐突な告発。

しかし、彼女のその異常な瞳に見つめられた瞬間、僕の記憶の底で、ずっと蓋をしていた「ある映像」がフラッシュバックした。それは、今年の夏の初めに起きた、僕自身すら忘れようとしていた、決定的な【違和感】の記憶。

彼女の登場によって、僕の退屈で無害な夏休みは、完全に、そして修復不可能なほどに破壊された。

これは、季節外れの遭難者である四角井 円美と、彼女の『夏』を巡る、熱く、冷たく、そして酷く回りくどい逃避行の始まりだった。

ーーーー

「泥棒、というのはいささか聞き捨てならない表現クレームだね。僕は他人の所有権を不当に侵害した記憶はないし、ましてや『季節』という不可算名詞アンカウンタブル・ナウンを物理的にポッケにねじ込むような奇術マジックは持ち合わせていない」

僕の反論に対し、四角井円美は重装備の首をわずかに傾けた。マフラーの摩擦音が、ジリジリと焦げるような蝉時雨の中で、脳髄を削るようなノイズとして異様に響く。

奇術マジックではなく、窃盗スチールです。そして季節は不可算名詞などではありません。少なくとも私にとっては、極めて個人的で、明確な輪郭を持った所有物プロパティです。それをあなたは、ごく自然な手つきで持ち去った」

「だから、何をだよ」

「『夏』です」

同語反復タウトロジーのループ。話が平行線、いや、最初から交わるはずのないねじれの位置スキューにある。

僕は溜息をつき、頭を掻いた。直射日光が容赦なく僕の水分を奪っていくというのに、目の前の少女は平然としている。汗一滴かいていない。その事実が、彼女の語る「私の中は猛吹雪」という狂った戯言パラドックスに、奇妙な説得力リアリティを与えてしまっていた。

「百歩譲って、僕が君の夏を盗んだ大悪党ヴィランだと仮定しよう。だとしたら、僕は一体どうやって、そして『何を』盗んだっていうんだ? 夏なんていう巨大な概念を、どうやって物理的に隠し持つことができる?」

「それを思い出すのは、他でもないあなた自身の脳髄ハードディスクの仕事です。私はヒントを提示する外部接続のスキャナーに過ぎません」

四角井さんは、手の中の逆流する砂時計を器用に指先で弄りながら言った。

「七月の初旬。梅雨明けが宣言されるよりも少し前、あるいはその直後の、ひどく蒸し暑かった日の夕暮れ。あなたは、本来そこにあるはずのない『冷たいバグ』を拾いませんでしたか?」

「……冷たい、バグ」

その単語トリガーを聞いた瞬間、僕の足元のアスファルトが、ふいに氷結したような錯覚に陥った。

思い出した。いや、忘れていたわけではない。単に「日常の連続性」を保つために、脳が無意識にインデックスから除外して、ゴミ箱の奥深くに隠蔽していただけの記憶。

それは、期末テストが終わった直後の、まとわりつくような湿気に満ちた日のことだった。

僕は、通い慣れた高校の裏庭、普段は誰も立ち入らない錆びた焼却炉の影で、『それ』を見つけたのだ。

周囲はむせ返るような青葉の匂いと、じめじめとした熱気に支配されていた。しかし、その一角だけが、まるで空間を丸く、暴力的に切り取られたかのように、絶対的な『冬』だった。

霜が降りている、などという生易しいレベルではない。地面は完全に凍てつき、空気中の水分がキラキラとダイヤモンドダストのように舞い散っていた。

そして、その凍てついた空間の中心に、一つの『氷塊』が落ちていたのだ。

握り拳ほどの大きさの、驚くほど透明度の高い氷。

その中心には、一匹のひぐらしが、まるで琥珀に閉じ込められた古代の昆虫のように、完全な状態で保存フリーズされていた。

僕はそれを、どういうわけかハンカチで包んで家に持ち帰り、自室の小型冷蔵庫の、そのまた冷凍室の奥深くに隠蔽した。

なぜそんな猟奇的とも言える行動をとったのか、今となっては自分でもよく分からない。ただ、あの猛烈な暑さの中で、その『絶対的な冷たさ』にどうしようもなく魅入られてしまったのだ。あるいは、これから始まる暴力的で単調な夏に対する、僕なりのささやかで歪んだ反逆レジスタンスだったのかもしれない。

「……まさか、あの『凍った蝉』のことを言っているのか?」

僕が恐る恐る口にすると、四角井さんは深く、本当に深く、安堵の溜息を吐き出した。その吐息が、まるで極寒の地でのそれのように、白く濁って見えたのは僕の錯覚だったと思いたい。

「ええ。まさにそれです。あなたが冷凍庫コールドスリープにぶち込んでいるその氷塊こそが、私の『夏』の起動キーであり、この猛吹雪を終わらせるための唯一の着火剤イグニッションなのです」

「意味が分からない。あれはただの異常気象の産物か、あるいは誰かの悪趣味なイタズラじゃないのか」

「異常なのはあなたの倫理観ですよ。他人の季節の心臓部を、市販のアイスキャンディーの隣に並べて平然としているのですから。あれは蝉ではありません。私の『夏を始めるための熱量』が、不測の事態によって形を成し、周囲の熱を奪って結晶化してしまったもの――言うなれば、『夏の初鳴き』そのものです」

彼女は一歩、こちらへ近づいた。ごついスノーブーツがアスファルトを叩く音が、ひどく重々しい。

「あれがないと、私は夏を認識できない。世界がどれだけ三十五度を超えようと、私の内面システムは春の終わりでフリーズしたまま、永遠に冬の幻影エラーを見続けることになります。だから、こうして防寒具を着込んでいないと、私は本当に『凍死』してしまうのですよ、真夏の国道沿いでね」

「……つまり、君は本当に、その狂った厚着を脱げない、と」

「脱げば死にます。比喩ではなく、文字通り、物理的に」

彼女の大きな黒い瞳には、一切の冗談の気配がなかった。狂気を孕んでいるというよりは、あまりにも純粋な論理ロジックだけで構築された、人間離れした凪いだ瞳。

僕は観念して、天を仰いだ。太陽は相変わらず、無慈悲な殺意を地球に対して降り注いでいる。

「分かった。僕の過ち(エラー)を認めよう。僕は不当に君の夏を掠奪し、タッパーウェアに入れて冷凍保存していた悪辣な泥棒だ。謝罪するよ」

「謝罪は不要です。私は倫理的な優位性に浸って自己満足を得たいわけではなく、単に生存権の回復を要求しているだけですので」

「なら、話は早い。僕の家に行こう。ここから歩いて十分だ。冷凍庫の中身を君に返還すれば、この馬鹿げた遭難劇は終わり、君は無事に夏を迎えられる。そういうことだろう?」

僕の提案に、四角井さんはニット帽の奥で、わずかに目を細めた。それは喜びというよりは、どこか諦観を含んだような、微かな陰り(シャドウ)を帯びた表情だった。

「……ええ。理論上セオリーは、そうなりますね」

「理論上?」

「物事というのは、往々にして、奪う時よりも返す時の方が、何倍もの熱量エネルギーを必要とするものです。エントロピーは常に増大する。あなたが凍らせてしまった私の『夏』が、そう簡単に解凍デフロストできるかどうかは、また別の問題ですから」

「面倒くさい注釈(脚注)をつけるのは後にしてくれ。とにかく、まずは現物を確認することが先決だ」

こうして僕は、猛暑日においてモッズコートとマフラーで完全武装した電波な遭難者ヒロインを連れて、自室という名の安全地帯シェルターへと向かうことになった。

道中、すれ違う人々の奇異の視線が、物理的な温度以上に僕の皮膚をジリジリと焦がしたが、四角井さんはそんなものには一切頓着しなかった。「ああ、ブリザードが目に沁みます」「ホワイトアウトで前が見えません。はぐれないように、私のマフラーの端を固く握っていてください」などと、徹底した遭難者ロールプレイ(あるいは彼女にとっての絶対的な真実)を貫き通した。

僕の家は、両親が共働きで日中は不在だ。誰の目も気にすることなく、僕たちはエアコンが暴力的に効いた――設定温度十八度という、僕なりの極小のサンクチュアリである――自室へと滑り込んだ。

「ほう」

部屋に入るなり、四角井さんは感心したような声を漏らした。

「外の地獄に比べれば、ここは随分とマシな吹雪ですね。ビバークするには最適な温度です。あなたの偏執的な温度管理能力だけは評価してあげましょう」

「僕の部屋を雪山のベースキャンプ扱いするのはやめてくれ。さあ、お待ちかねの返還式だ」

僕は一直線に部屋の隅にある小型の2ドア冷蔵庫に向かい、下の冷凍庫の扉を引き開けた。

霜がこびりついた冷凍室の奥。そこには、あの日僕が拾い、ジップロックに厳重に二重に封印して隠蔽した『氷塊』が、確かに存在していた。

「ほら、これだろ? 君の言う『夏の初鳴き』とやらは」

僕はジップロックを取り出し、中に入っている氷塊を彼女の目の前に突き出した。

透明な氷の中に閉じ込められた、一匹の蝉。あの日から何一つ変わっていない、完全な静止画フリーズ・フレーム

それを見た瞬間。

四角井円美の表情から、出会ってからずっと張り付いていた「余裕」という名のメッキが、音を立てて剥がれ落ちた。

彼女は、まるでこの世の終わりでも見たかのように、あるいは、絶対に開けてはならないパンドラの箱の底を覗き込んでしまったかのように、真ん丸な目を見開き、そして微かに震える声でこう言ったのだ。

「……嘘でしょう。なんで、なんでこれが、『一つ』しかないんですか?」

「は? 一つって、拾った時からこれは一つだったけど」

「そんなはずはありません! 夏は、私の夏は、最初から『双子』だったはずです! これでは足りない。これだけでは、私の半分は永遠に凍りついたままになってしまう!」

四角井さんは悲痛な叫びを上げ、手の中の逆流する砂時計を取り落とした。

ガシャン、という乾いた音と共にアクリル樹脂がひび割れ、中の砂が、重力に従って――いや、まるで明確な意志を持っているかのように、僕の部屋の床を這いずるように散らばっていく。

物語は、僕が想定していた「単純な返還作業クエスト・クリア」の枠組みを大きくはみ出し、完全に未知の領域(エラー領域)へと突入しようとしていた。

奪ったのは一つ。しかし、失われたのは二つ。

計算の合わない数式。取り残された半分の夏。

エアコンの冷風とは全く違う、芯から凍りつくような悪寒が、僕の背筋を駆け上がっていった。

「双子、だと?」

僕はジップロック越しに伝わってくる冷たさを無視して、手の中の氷塊をもう一度よく観察した。透明度の高い氷の中に閉じ込められているのは、紛れもなく一匹の蝉だ。どう見ても単独シングルであり、その隣にもう一匹分の空席スペースが用意されていたような痕跡もない。

「僕が裏庭の焼却炉で拾った時、こいつは確実に単体だった。孤独なロンリー・サマー・バグだった。見落としなんてあり得ない。その周囲の空間が完全に凍てついていたからね、他の何かが隠れている余地なんてなかったんだ」

「……」

四角井さんは床に散らばった砂を呆然と見下ろしたまま、沈黙した。先ほどまでの、僕を論破バッシュして楽しんでいたような知的で皮肉な態度は微塵もなく、ただの迷子のように途方に暮れている。モッズコートの肩が、微かに震えていた。

「おい、大丈夫か? まさか本当に凍死しかけてるんじゃないだろうな。いくらエアコンを十八度に設定しているとはいえ、ここは室内だぞ」

「……足りないんです」

彼女は蚊の鳴くような声で呟いた。

「私の『夏』は、二つの熱源が共鳴ハウリングを起こすことで初めて起動するシステムなんです。一つだけでは、ただの冷たい石ころと同じ。着火しないライター。動かない時計。……このままでは、私は永遠に、この不完全な寒さの中で……」

不意に、彼女の言葉が途切れた。

そして、ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳を見て、僕は思わず後退った。

真っ黒だったはずの彼女の瞳孔が、まるで焦点の合わないカメラのレンズのように、不規則に収縮と拡大を繰り返していたのだ。

「四角井さん……?」

「あ、ああ……ノイズが、ノイズが侵食してくる。私の内側の吹雪が、外に、外に漏れ出そうとして……」

ガチガチと、彼女の歯が鳴る音が聞こえた。

異常事態は、彼女の身体だけにとどまらなかった。

ミシミシと、僕の部屋の窓ガラスが軋む音を立て始めたのだ。

外は相変わらずの猛暑日のはずだ。しかし、窓ガラスの表面には、まるで真冬の朝のように、急速に白い霜が張り付き始めていた。エアコンの吹き出し口からは、冷風ではなく、目に見えるほどの白い冷気(ドライアイスの煙のようなもの)が吐き出され、部屋の温度が急激に、異常な速度で低下していくのが肌で感じられた。

「おい、冗談だろ。エアコンの故障エラーじゃ済まないぞ、これ」

僕は慌ててエアコンのリモコンを手に取り、電源ボタンを連打したが、全く反応しない。液晶画面は真っ黒に消え、ピピピという警告音すら鳴らなかった。

「四角井さん! 君の仕業バグか!?」

「私じゃない……私の、制御系が……完全に、ダウンして……!」

彼女は両手で自らの頭を抱え込み、床にうずくまった。

彼女を中心にして、床のフローリングからパキパキと音を立てて霜が広がり始める。散らばった砂時計の砂が、その霜に巻き込まれ、青白い光を放ちながら凍りついていく。

室温はすでに十度を下回っているだろう。半袖短パンという完全な夏装備の僕は、たまらずベッドの上にあったタオルケットを引き寄せ、頭から被った。

このままでは、比喩でもなんでもなく、僕の自室が「猛吹雪の雪山」になってしまう。彼女が言っていた「物理的に凍死する」という戯言が、全く笑えない現実リアルとして襲いかかってこようとしていた。

「くそっ、どうすればいい!? もう半分の夏はどこにある!? 探すアテはあるのか!?」

寒さで震える顎を必死に抑えながら、僕は叫んだ。

うずくまっていた四角井さんが、顔を上げる。その顔は青白く、唇は完全に紫色に変色していた。

「……共鳴……」

「は?」

「もう半分は……『これ』と、共鳴するはず……。同じ、波長……同じ、冷たさを持つ場所へ……引っ張られる……」

彼女は震える指先で、僕が手に持っているジップロック――氷塊の中の蝉――を指差した。

その瞬間だった。

『ジジ……ジ…………』

耳鳴りのような、奇妙な音が部屋の中に響いた。

いや、違う。部屋の中ではない。

僕の手元。ジップロックの中。

絶対零度の氷に閉じ込められているはずの蝉が、鳴いたのだ。

『ジジッ……ジリリリリリ……!』

それは、夏の昼下がりに聞くような喧しい蝉時雨とは全く違う、金属を引っ掻くような、鋭く冷たいノイズだった。

そして、そのノイズに応えるように。

『―――ジリリリリリリリリリリリ!』

窓の外から。

霜で真っ白に覆われ、外の景色など何も見えない窓の向こう側から、全く同じ波長の、狂ったような蝉の鳴きノイズが響き渡ったのだ。

「外……?」

僕が呟くと同時に、四角井さんが弾かれたように立ち上がった。モッズコートのポケットから、何かを取り出す。それは、彼女が「夏の忘れ物」を探すためのツールだと言っていた、先ほど砕け散ったはずの砂時計……いや、よく見ればそれは、砂時計の形をした奇妙な方位磁針コンパスだった。

砕けたのは外側のアクリル樹脂だけで、中心の核となる針は、狂ったように回転した後、ピタリと「窓の外」の一点を指し示していた。

「見つけました」

四角井さんの声から、先ほどの怯えが消え去っていた。極寒の中で、彼女の瞳だけが異常な熱を帯びて光っている。

「共鳴が始まりました。もう半分の夏は、あそこです。私の『冬』に引き寄せられて、あちら側からアプローチをかけてきた」

「あそこって、どこだよ。窓の外は、僕の家の庭だぞ」

「いえ。物理的な距離(座標)の問題ではありません。この共鳴は、もっと概念的なレイヤーで接続されています」

彼女はコンパスを握りしめ、僕を見た。

「行きましょう、泥棒さん。いえ、私の共犯者パートナー。あなたの冷凍庫が私の夏を保存してくれていたおかげで、ようやく手がかりを掴めました」

「行くって、どうやって!? 窓を開けたって、そこにあるのはただの庭だ!」

「開けるのは窓ではありません」

四角井さんは、凍りついた窓ガラスに手を当てた。

そして、西尾維新的な、あまりにも理不尽で飛躍した論理ロジックを、平然と口にしたのだ。

「『夏への扉』を開けるんです。ロバート・A・ハインラインに倣ってね」

彼女が窓ガラスに力を込めた瞬間。

パリーン! という甲高い破砕音と共に、分厚い霜で覆われた窓ガラスが、粉々に砕け散った。

しかし、そこから吹き込んできたのは、真夏の熱気でも、庭の景色でもなかった。

砕けたガラスの向こう側に広がっていたのは、見渡す限りの真っ白な世界。

荒れ狂う猛吹雪。視界を遮るホワイトアウト。

「ここは……」

「私の内面システムであり、同時に、失われた半分の夏が逃げ込んだ『エラー領域』です」

四角井さんは、迷うことなくその吹雪の中へ足を踏み入れた。スノーブーツが雪を深く踏みしめる音が響く。

「さあ、来てください。あなたは半袖短パンのままでは、三分と持たずに凍死するでしょうから」

「無茶苦茶言うな! 僕にどうしろってんだ!」

「簡単なことです。その『半分だけの夏』を、胸に抱いて走るんです」

彼女は振り返り、僕が手に持っている氷塊を指差した。

「それは、不完全とはいえ『夏』の核です。それを抱えていれば、わずかながら周囲の熱を保つことができる。いわば、極寒の地における使い捨てカイロ(ライフライン)ですね。ただし、制限時間があります。その氷が完全に溶け切るか、あるいは共鳴が終わるまでに、もう半分を見つけ出さなければ、私たちは二人とも、この概念的な雪山で永遠に遭難することになります」

選択肢などなかった。

部屋の中に留まっていても、急激な温度低下によって遅かれ早かれ凍死する。

僕はタオルケットをマントのように羽織り、ジップロックに入った氷塊をしっかりと胸に抱き抱え、覚悟を決めて窓枠を乗り越えた。

足を踏み入れた瞬間、容赦ない吹雪が全身を打ち据えた。

息をするだけで肺が凍りつきそうな冷気。

僕は、自室から一歩も出ずに素数を数えるだけの夏休みを過ごすはずだった。

それがどうして、真夏日に猛吹雪の中で、電波な女子高生と一緒に「概念的な夏」を探して遭難する羽目になっているのか。

「後悔していますか?」

前を歩く四角井さんが、マフラー越しに聞いてきた。

「後悔の定義デフィニションを辞書で引き直しているところだよ! 全く、今年の夏は、どうかしてる!」

僕はヤケクソ気味に叫びながら、胸の氷塊から微かに伝わってくる奇妙な「熱」だけを頼りに、白一色の狂った世界バグの奥へと足を踏み出していった。

ーーーー

吹雪の深奥、すべての方向感覚と温度感覚が麻痺するような絶対的なホワイトアウトの中を、僕たちは歩き続けた。

いや、「歩く」という物理的な運動アクションがこの概念的雪山コンセプト・スノー・マウンテンにおいて正しい表現かどうかは疑わしい。ただ、僕の手の中にある不完全な夏の核――氷塊に閉じ込められた蝉――が発する微弱な熱量カロリーと、空間のどこかから響き続ける耳障りなノイズだけを道標ガイドに、意識のピントを必死に合わせ続けていたに過ぎない。

「四角井さん、あとどれくらいだ!」

咆哮するような風の音に負けじと声を張り上げるが、すぐ前を歩いているはずのモッズコートの背中は、雪煙に巻かれてひどく頼りなく揺らいでいた。

「もうすぐです。ノイズの波長が、完全に一致しつつあります。……あそこだ」

彼女が指差した先。

猛吹雪の中心、いわば台風の目のようなその場所に、不自然なほどぽっかりと、風の凪いだ空間が存在していた。

そこだけが、陽炎が立つほどに歪んでいた。周囲の絶対零度と激しく反発し合う、異常な熱量。その中心に、僕が持っているものと全く同じ、しかし対極の性質を持つ『それ』は浮遊していた。

「燃える、氷塊……?」

僕は思わず呟いた。

空中に浮かんでいたのは、紛れもなく氷塊だった。しかし、その氷は内側から赤々と発光し、メラメラと幻影のような炎を上げているのだ。そしてその中心には、やはり一匹の蝉が、今まさに羽化しようとするかのような姿勢で閉じ込められている。

「あれが、失われたもう半分の夏。私のシステムの欠損部位ミッシングリンクです」

四角井さんは、重々しいスノーブーツを引きずるようにして、その燃える氷塊へと近づいていく。

彼女が手を伸ばすと、その手は恐ろしいほどの熱に焼かれているはずなのに、彼女の表情からは先ほどまでの怯えが嘘のように消え去り、ある種の神々しさすら漂う安堵が広がっていた。

「貸してください、僕の共犯者さん。これですべての辻褄ロジックが合います」

振り返った彼女に促されるまま、僕は胸に抱えていた冷たい氷塊を差し出した。

四角井円美は、分厚い手袋を外した素手で、冷たい氷塊と燃える氷塊を、両手でそれぞれ包み込むように持ち上げた。

「夏というのは暑いものだ、というのは同語反復タウトロジーに過ぎない。しかし、その熱量は、冬という明確な対比コントラストがあって初めて定義されるものです。私の内で凍りついていた時間は、これをもって正常な季節のサイクルへと回帰します」

彼女の言葉と共に、二つの氷塊が彼女の胸元でゆっくりと重ね合わされた。

その瞬間。

極寒の冷気と灼熱の熱気が正面衝突クラッシュを起こし、概念的な空間そのものが悲鳴を上げた。エントロピーが限界を突破し、莫大なエネルギーが相転移を起こす。

『ジリリリリリリリリリリリリリリリリリ!!!!!』

二匹の蝉のノイズが完全に重なり合い、鼓膜を破壊するほどの完全な和音ハウリングとなって炸裂した。

視界が、白から極彩色へ、そして圧倒的な光の奔流へと塗り潰されていく。

「さようなら、凡庸な少年モブ・キャラクター。あなたのおかげで、私は今年の夏を、無事に始めることができそうです。……防寒具を持たないあなたには、少しばかり暑すぎる季節になるかもしれませんが」

光の渦の中で、四角井円美はあの日神社の石段で見せたような、四角四面な真顔をわずかに崩し――本当に、ほんのわずかに、しかし決定的に――微笑んだように見えた。

直後、僕の意識は、その暴力的なまでの「夏」の熱量に完全に呑み込まれ、プツリと途切れた。

     *

「……っつ!」

肺いっぱいに、むせ返るような熱い空気を吸い込んで、僕は跳ね起きた。

額には滝のような汗。Tシャツは背中にべったりと張り付き、不快な湿気を帯びている。

「……ここは」

見慣れた天井。散らかった机。読みかけの文庫本。

紛れもなく、僕の自室だった。

エアコンの電源ランプは消えており、室温は三十度を優に超えているだろう。窓ガラスは一枚たりとも割れておらず、隙間からは外の強烈な西日が差し込んでいる。そして、耳を劈くような現実の蝉時雨が、容赦なく部屋の中に響き渡っていた。

僕は慌ててベッドから飛び降り、部屋の隅にある小型の2ドア冷蔵庫に駆け寄った。

冷凍庫の扉を乱暴に引き開ける。

霜がこびりついた冷凍室の奥。そこには、市販のアイスキャンディーと保冷剤が転がっているだけで、あの日僕が隠蔽したはずの『氷塊に閉じ込められた蝉』の入ったジップロックは、影も形もなかった。

「……夢、だったのか?」

あまりにも古典的で、あまりにも陳腐な仮説(オッカムの剃刀)が脳裏をよぎる。

異常な猛暑が引き起こした熱中症。あるいは、エアコンが故障した密室で極度の脱水症状に陥った僕の脳髄が、自己防衛のために見せた長大な幻覚ファントム

四角井円美という、マフラーとモッズコートで完全武装した電波な女子高生も。彼女が探していた夏の忘れ物も。窓の外に広がっていた概念的な雪山も。

すべては、僕の退屈な夏休みが生み出した、白昼夢に過ぎなかったというのか。

僕は力なくフローリングの床に座り込んだ。

彼女は消えていた。跡形もなく。

僕の夏を盗んだなどという理不尽な言いがかりを残して、僕の退屈な日常を徹底的に破壊しておいて、何一つ具体的な答えを提示しないまま、彼女はシステムごとシャットダウンしてしまったのだ。

「とても……訳のわからない話だ」

渇いた喉から、自嘲気味な笑い声が漏れた。

起承転結のセオリーから大きく逸脱した、伏線の回収すら放棄された、悪趣味な前衛演劇アバンギャルドのような体験。

しかし。

僕は、床に座り込んだ自分の足元を見て、息を呑んだ。

エアコンの吹き出し口の真下。そこには、ただの結露とは到底思えないほどの、不自然な水溜まりができていた。

そして、その水溜まりの中心には。

鮮やかな赤色の、太い毛糸の切れ端が一本、静かに横たわっていた。

それが、マフラーの繊維なのか、それとも僕の脳が見せている最後のバグなのかは、分からない。

ただ、その赤い糸は、この狂ったように暑い夏の現実において、そこだけが絶対的な「冬の冷たさ」を保っているように見えた。

夏というのは暑いものだ、というのは同語反復タウトロジーに過ぎない。

しかし、今年の夏が永遠に僕の記憶にこびりついて離れないだろうということは、どうやら紛れもない真実リアルのようだった。

蜩の鳴き声が響く……

お疲れっす。


いやー、今春っすよね。春。外はポカポカしてて、最高に眠くてダルい時期っす。こんな春真っ盛りのクソ眠い時期に、なんであんな猛暑と猛吹雪が入り混じった激ヤバな夏の話を出力してたのか、自分でもよくわかんないっすけど。気温差で風邪引きそうっすわ。


この作品の意図っていうか裏話っすけど。

なんつーか、当たり前だと思ってる「季節」とか「温度」って、実はクソほど個人的なモンなんじゃないかなって思ったんすよね。外が35度でも、心がマイナス40度でフリーズしてる奴もいるわけで。そういう、物理法則をガン無視した「個人の内面バグ」が現実を侵食しちゃったら、すげー面倒くさいけど面白いかな、みたいな。そんなダルい思考実験から生まれた話っす。

奪ったとか奪われたとか、熱量がどうとか小難しい理屈をこね回してましたけど、ぶっちゃけた話、「真夏日に防寒具フル装備で汗一つかかない変な女の子」を出したかっただけっていうのもあるっす。ビジュアルの違和感ってやつっすね。


まあ、そんな感じっす。

あんま小難しいこと考えてると春の眠気に負けちゃうんで、この辺にしとくっす。


最後まで読んでくれてあざっしたー。

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