短編小説 「カーテンの向こう」
「終わった?」――その声は、カーテンの“外”から聞こえていた。
#短編小説 #創作 #架
サイレンの音がショッピング街に響いていた。服屋の前には人だかりができ、誰かが小さな声で「試着室で……」と呟いた。その言葉だけが、ざわめきの中に重く沈んだ。店員は青ざめた顔で立ち尽くし、警察官が店内へ急いで入っていく。ほんの数時間前まで、ここはただの休日の買い物客で賑わう場所だったのに。
――数時間前。
私には夫がいる。結婚して七年になる。特別に派手な夫婦ではないが、穏やかな毎日を送っていた。仕事の愚痴を言い合ったり、夜に同じテレビを見たり、休みの日には近くを散歩したりする。そんな何でもない日常を、私は嫌いではなかった。
ある日の夜、彼がふと思い出したように言った。
「今度の休み、久しぶりに出かけない?」
少し意外だったが、同時に嬉しくもあった。
「ショッピングでも行こうよ」
私はわざと困ったように笑い、「仕方ないなあ」と答えた。本当は少し楽しみだった。
休日の朝、私は久しぶりにお気に入りの服を着て鏡の前に立った。外出のためにこんなふうに準備をするのは、思えば久しぶりだった。電車に揺られてショッピング街へ向かい、服を見て、本屋に寄り、カフェで休む。そんな何でもない時間が不思議なくらい楽しかった。
カフェでコーヒーを飲んでいるとき、彼が笑いながら言った。
「こういう休日、いいよね」
「うん、たまにはこういうのもいいね」
私はそう答えた。彼はいつも通りの穏やかな顔でコーヒーを飲んでいた。
午後になって、私たちは一軒の服屋に入った。店内には静かな音楽が流れている。壁には色とりどりの服が並び、奥にはいくつかの試着室がカーテンで仕切られていた。
服を見ていると、彼が一着のワンピースを手に取った。
「これ似合いそうだね」
柔らかい色のワンピースだった。私は少し笑う。
「本当?」
「うん、着てみたら?」
私はその服を受け取った。
「あそこ空いてるみたいだよ」
彼が店の奥を指さす。私は頷き、そのまま試着室へ向かった。
カーテンを閉めると、外の音が少し遠くなる。店内の音楽と、ハンガーの触れ合う小さな音がぼんやり聞こえていた。
私は服を脱ぎ、ワンピースに袖を通す。
「どうかな?」
カーテン越しに声をかける。
すぐに彼の声が返ってきた。
「うん、似合いそう」
私は少し笑った。鏡の中の自分を見て、裾を整える。
そのとき、背後で何かが動いた気がした。
振り向こうとした瞬間、強い力で口を押さえられる。声が出ない。何が起きているのか理解できないまま、体が床へ押しつけられる。
カーテンの向こうから、彼の声が聞こえた。
「終わった?」
すぐそこにいる。私は必死に声を出そうとした。助けて、と言いたかった。けれど喉は震えるだけで、音にならない。
体が思うように動かない。誰かに押さえつけられている。私は必死に床を叩こうとしたが、腕も押さえつけられている。
カーテンの向こうで、彼の声がまた聞こえた。
「まだ?」
その声は落ち着いていた。ただ様子を確認しているような声だった。
耳元で再び声がした。
「可哀想に」
それが、私がはっきり聞き取れた最後の言葉だった。
思えば、なぜ今日出かけたのだろう。なぜ彼は、あの服を勧めたのだろう。なぜあの試着室だったのだろう。
そして、あの言葉。あれは、本当に私に向けた言葉だったのだろうか。
それとも――。
私は、その先を考えるのをやめた。もし考えてしまえば、きっと答えは出てしまうからだ。
私にはもう何も見えなかった。ただ一つだけ分かることがある。
彼の声は、カーテンの向こうから聞こえていた。
休日の買い物中、試着室で起きた“違和感”。
カーテン一枚隔てた向こうにいるのは、本当に――。
初めての短編ホラー『カーテンの向こう』ぜひ読んでください。




