第一話 策略の罠 ~信じてもらえなかった真実~
十一月の冷たい風が、キャンパスの銀杏並木を揺らしていた。黄金色の葉が舞い落ちる中、俺、栢森透は図書館からの帰り道を歩いていた。スマートフォンには彼女、柊美桜からのメッセージが届いている。
「今日、話したいことがあるの。サークル棟で待ってる」
いつもと違う、どこか硬い文面に首を傾げながら、俺は足を速めた。美桜とは交際して一年半になる。出会いは大学一年の春、映画研究サークルの新歓イベントだった。文学部の彼女は、いつも本を片手に穏やかな笑顔を浮かべていて、俺のような地味な経済学部生には勿体ないくらいの存在だった。
サークル棟に着くと、部室の前に人だかりができていた。見慣れた顔ぶれ。サークル代表の鷹見颯太、副代表の四宮杏奈、そして四年生の神楽蓮司。全員が、どこか俺を見る目が冷たい。
「あ、来た」
鷹見が腕を組んで言った。その横で、美桜が俯いて立っている。
「美桜、どうした?」
俺が近づこうとすると、神楽が間に割って入った。
「栢森、お前さ。美桜ちゃんに何してたわけ?」
「何って、何の話だ」
「とぼけんなよ」
鷹見が鋭い声を上げた。
「お前、他の女と遊んでたんだってな。しかも美桜の私物を勝手に持ち出して、その女に渡してたとか」
頭が真っ白になった。何を言われているのか、まったく理解できない。
「待ってくれ、俺はそんなこと一度も」
「証拠があるんだよ、証拠が」
神楽がスマートフォンを取り出し、画面を俺に突きつけた。そこには、見知らぬ女性とのメッセージのやり取りが表示されている。俺のアカウント名、俺のアイコン。だが、そんなメッセージを送った覚えは一切ない。
「これ、俺じゃない。誰かが偽装したんだ」
「偽装?そんな言い訳が通ると思ってんの?」
四宮が吐き捨てるように言った。
「それにさ、美桜ちゃんのネックレス。あんたのロッカーから出てきたんだって。神楽先輩が偶然見つけたらしいじゃん」
「ネックレス?」
美桜が顔を上げた。その瞳は、涙で潤んでいる。
「透くん、あのネックレス、先月なくしたって言ってたやつ。なんで、なんであなたのロッカーにあったの?」
「知らない。俺は本当に知らないんだ」
俺は必死に訴えた。だが、美桜の目には、もう疑念しかなかった。
「神楽先輩が、あなたのロッカーを開けたとき、一緒にいた人が何人もいるって。みんな見たって言ってる」
「それは罠だ。誰かが俺を陥れようと」
「誰が?何のために?」
鷹見が嘲笑うように言った。
「お前、自意識過剰すぎだろ。誰がお前みたいな地味な奴を陥れる必要があるんだよ」
笑い声が起きた。俺を囲む人間たちが、一斉に俺を嘲笑している。その中心で、神楽だけが、どこか同情するような、しかしどこか冷たい目で俺を見ていた。
「美桜ちゃん、こんな奴とはもう別れた方がいいよ。君を大切にしない男なんて、時間の無駄だ」
神楽が優しく美桜の肩に手を置いた。美桜は、その手を払いのけることなく、ただ俯いている。
「美桜、俺を信じてくれ。俺は何もしていない」
「でも、証拠が」
「証拠なんて、いくらでも偽造できる。お願いだ、俺の話を聞いてくれ」
だが、美桜は首を横に振った。
「ごめんなさい。もう、あなたを信じられない」
その言葉が、胸に突き刺さった。呼吸が苦しくなる。周囲の嘲笑が、耳鳴りのように響く。
「透くん、別れましょう」
美桜の声は、震えていた。だが、その決意は固かった。
「美桜」
「さようなら」
彼女は踵を返し、走り去った。神楽がその後を追う。残された俺は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
それから数日後、俺の日常は地獄と化した。サークルに行けば、誰も口を利かない。ゼミでは、グループワークから露骨に外される。廊下ですれ違えば、ひそひそと囁き声が聞こえる。
「あいつ、浮気してたんだって」
「最低だよね」
「美桜ちゃん、可哀想」
食堂で昼食を取ろうとすれば、席を立つ者たちがいる。まるで俺が疫病神であるかのように。講義中、教授が質問を投げかけても、誰も俺とペアを組もうとしない。そして、決定的だったのは、ゼミの掲示板だった。研究室のドアに貼られた課題提出一覧表。そこに、俺の名前だけが赤ペンで大きくバツ印をつけられていた。横には、こう書かれていた。
「浮気野郎は単位なし」
教授に訴えた。だが、教授は困惑した表情で言った。
「栢森くん、君がサークル内で問題を起こしたと聞いている。学生間のトラブルに、私が介入するのは難しい」
「でも、これは冤罪なんです」
「冤罪かどうかは、私には分からない。ただ、君の評判が非常に悪いことは確かだ。他の学生たちから、君と同じグループになりたくないという声が上がっている」
絶望的だった。誰も、俺の言葉を信じない。それどころか、俺の存在そのものが、疎まれている。
ある日、図書館で課題をやっていると、神楽が近づいてきた。
「よう、栢森。元気ないな」
「お前」
俺は拳を握りしめた。だが、神楽は涼しい顔で椅子に座った。
「なんだよ、その目。俺が悪いみたいな顔して」
「お前が、俺を陥れたんだろう」
「証拠は?」
神楽はにやりと笑った。
「お前が勝手に自滅しただけだろ。美桜ちゃんを裏切って、バレて、捨てられた。それだけの話だ」
「俺は何もしていない」
「それを誰が信じる?お前のロッカーから、美桜ちゃんのネックレスが出てきたんだぜ?お前のアカウントで、他の女とメッセージしてたんだぜ?これ以上の証拠があるか?」
神楽は立ち上がり、俺の肩を叩いた。
「諦めろよ、栢森。お前の負けだ。美桜ちゃんは、もう俺のものだ」
その瞬間、全てが繋がった。神楽の狙いは、最初から美桜だったのだ。俺を陥れ、美桜を奪う。それが、こいつの計画だった。
「お前、許さない」
「ああ、怖い怖い。で、お前に何ができる?誰も信じてくれない哀れな負け犬に」
神楽は笑いながら去っていった。
その夜、俺は一人、アパートの部屋で膝を抱えていた。スマートフォンには、美桜との思い出の写真が残っている。水族館に行った日。花火大会の日。彼女の笑顔が、今は遠い過去のように思える。涙が溢れた。悔しさと、悲しみと、絶望が、胸を締め付ける。
だが、その時、ふと気づいた。神楽は、完璧な罠を張ったつもりでいる。だが、完璧すぎる罠には、必ず綻びがある。偽造されたメッセージ、都合よく見つかったネックレス、そして複数の目撃者。これらは全て、計画的に用意されたものだ。ならば、その証拠を集めればいい。神楽の犯罪を、白日の下に晒せばいい。
俺は、涙を拭い、パソコンを起動した。経済学部で学んだデータ分析、趣味で身につけたプログラミングのスキル。これらを、今こそ使う時だ。まず、偽造されたメッセージの解析。アカウントの乗っ取り、あるいはスクリーンショットの加工。どちらにしても、デジタルフォレンジックで痕跡を探れる。次に、ロッカーの監視カメラ映像。大学のセキュリティシステムにアクセスできれば、神楽がネックレスを仕込んだ瞬間を捉えられるかもしれない。そして、目撃者たちの証言の矛盾。人間の記憶は曖昧だ。神楽が口裏を合わせたとしても、必ずどこかに綻びがある。
俺は、ノートを開き、計画を書き始めた。復讐ではない。これは、真実を取り戻すための戦いだ。
数週間後、俺は完全に孤立していた。サークルは退会を余儀なくされ、ゼミでも居場所がない。友人と呼べる存在は、別のゼミに所属する早乙女凪だけだった。
「栢森、お前、本当に大丈夫か?」
学食で向かい合った凪が、心配そうに尋ねた。
「ああ、なんとか」
「噂、聞いてるぜ。お前が浮気したとか、美桜ちゃんを裏切ったとか。でも俺、信じてないから」
「ありがとう」
凪だけは、最初から俺を信じてくれた。それだけが、唯一の救いだった。
「で、どうすんだ?このまま黙ってるのか?」
「いや、動いてる。証拠を集めてる」
「証拠?」
「神楽が俺を陥れた証拠。それが揃えば、全てをひっくり返せる」
凪は目を見開いた。
「マジか。でも、どうやって?」
「デジタルフォレンジック、防犯カメラ映像の解析、証言の矛盾点の洗い出し。時間はかかるけど、必ずやり遂げる」
「お前、すげえな」
凪は感心したように言った。
「でも、気をつけろよ。神楽、あいつ、かなりのやり手だぞ。裏で何してるか分からん」
「分かってる」
実際、神楽の動きは巧妙だった。美桜との距離を縮め、サークル内での発言力を増し、俺を徹底的に排除する。まるで、全てが計画通りであるかのように。
ある日、講義の後、偶然美桜と廊下で顔を合わせた。彼女は、神楽と腕を組んで歩いていた。美桜の目が、一瞬俺を捉えた。だが、すぐに逸らされる。神楽は、わざとらしく美桜を抱き寄せた。
「美桜ちゃん、今日は映画でも見に行こうか」
「うん」
美桜の声は、どこか力がない。まるで、何かに怯えているかのような。俺は、その光景を黙って見送った。胸が締め付けられる。だが、今は耐える時だ。感情に流されて、計画を狂わせるわけにはいかない。
その夜、俺は大学のサーバーに、合法的な手段でアクセスした。情報システム課に、防犯カメラ映像の閲覧許可を申請したのだ。理由は、ロッカーからの盗難被害。実際、ネックレスが勝手に入れられたのは事実なのだから、嘘ではない。許可が下りるまで一週間かかった。その間、俺はメッセージの解析を進めた。偽造されたメッセージのメタデータを調べると、やはり不自然な点があった。タイムスタンプが連続していない。画像ファイルの解像度が、俺のスマートフォンのものと一致しない。これは、スクリーンショットを加工したものだ。
さらに、俺のアカウントのログイン履歴を調べた。大学のWi-Fiを経由した、身に覚えのないアクセスがある。IPアドレスを辿ると、それは図書館の端末からだった。俺は図書館に向かい、当日の利用記録を確認した。学生証でログインするシステムなので、誰が使ったかは明らかだ。そして、そこには、神楽蓮司の名前があった。全身に震えが走った。これが、決定的な証拠の一つになる。
防犯カメラの映像が手に入ったのは、十二月に入ってからだった。俺は、情報システム課の職員立ち会いのもと、映像を確認した。そして、その瞬間を捉えた。十月二十三日、午後三時。ロッカールームに入る神楽の姿。周囲を確認し、俺のロッカーを開ける。そして、ポケットから何かを取り出し、中に入れる。映像は、全てを物語っていた。
「これ、コピーをいただけますか?」
「被害届を出すなら、警察に提出する必要がありますね」
職員は頷いた。
「その予定です」
俺は、映像データを受け取った。
同時に、サークルメンバーたちの証言の矛盾も、徐々に明らかになっていった。鷹見は「神楽と一緒にネックレスを発見した」と言っていたが、四宮は「鷹見から後で聞いた」と言っていた。別のメンバーは「その場にいた」と言いながら、具体的な日時を答えられなかった。全ては、神楽が口裏を合わせさせた結果だった。だが、人間の記憶は完璧ではない。細部で、ほころびが生じる。俺は、それらを全てノートに記録した。証拠は、着実に積み上がっていく。
そして、年が明けた一月。俺は、ついに全ての証拠を揃えた。偽造メッセージのメタデータ解析結果。防犯カメラ映像。図書館端末の利用記録。証言の矛盾点をまとめた資料。これらを、弁護士に相談した。大学の法律相談窓口を利用し、専門家の意見を仰いだ。
「これは、名誉毀損、虚偽告訴、不正アクセス、窃盗幇助に該当する可能性があります。警察に被害届を出すべきでしょう」
弁護士は、真剣な表情で言った。
「大学側にも、正式に申し立てをするべきです。ハラスメント委員会に訴えれば、調査が入ります」
俺は頷いた。ついに、反撃の時が来た。だが、その前に、もう一つだけ確認したいことがあった。美桜に、真実を知ってほしい。彼女が、どれだけ騙されていたのかを。
俺は、美桜にメッセージを送った。
「話したいことがある。一人で来てほしい。場所は大学のカフェテリア」
返信は、数時間後に来た。
「分かった」
約束の日、カフェテリアで美桜を待った。彼女は、痩せていた。頬がこけ、目の下にクマができている。
「透くん」
美桜は、俺の向かいに座った。
「久しぶり」
「うん」
沈黙が流れた。何から話せばいいのか、分からなかった。
「あのね、透くん。ごめんなさい」
美桜が、突然謝罪した。
「私、あなたを信じられなくて。でも、最近、色々考えてて」
「何を?」
「神楽先輩のこと。なんか、おかしいなって」
美桜は、俯いた。
「最初は優しかった。私のこと、慰めてくれて、支えてくれて。でも、最近、なんか違う。私のスマホ、勝手に見たり、誰と話してるのか聞いてきたり。束縛が、すごくて」
「そうか」
「それに、透くんのこと、みんなの前ですごく悪く言うの。もういいじゃんって思うのに、何度も何度も。まるで、透くんのことが憎くて仕方ないみたいに」
美桜の声が、震えた。
「私、もしかして、間違ってたのかなって」
俺は、鞄から資料を取り出した。
「美桜、これを見てほしい」
「これ、何?」
「俺が集めた証拠。神楽が、俺を陥れた証拠だ」
美桜の目が、見開かれた。俺は、一つ一つ、丁寧に説明した。偽造されたメッセージ、防犯カメラに映った神楽の姿、矛盾する証言。美桜は、資料を手に取り、震える指でページをめくった。そして、防犯カメラの映像を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「嘘」
「本当だ。神楽は、最初から俺たちを壊すつもりだった。お前を奪うために」
「そんな」
美桜の目から、涙が溢れた。
「私、何てことを。透くん、ごめんなさい。ごめんなさい」
彼女は、テーブルに突っ伏して泣いた。だが、俺の心は、もう動かなかった。
「美桜、謝罪はいらない。ただ、一つだけ言わせてくれ」
俺は、静かに言った。
「お前は、俺を信じなかった。一年半の関係よりも、神楽の涙を信じた。それが、全てだ」
「透くん」
「もう、戻れない。俺たちは、終わったんだ」
美桜は、顔を上げた。その顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「お願い、もう一度やり直させて。私、本当に反省してる」
「無理だ」
俺は立ち上がった。
「これから、俺は神楽を告発する。大学にも、警察にも。お前も、巻き込まれることになる。覚悟しておいてくれ」
「待って」
美桜が、俺の腕を掴んだ。だが、俺はその手を振りほどいた。
「さようなら、美桜」
俺は、カフェテリアを後にした。後ろから、美桜の泣き声が聞こえた。だが、振り返ることはなかった。
翌日、俺は大学のハラスメント委員会に、正式に申し立てを行った。同時に、警察に被害届を提出した。証拠は、全て揃っている。あとは、法と正義が、裁きを下すだけだ。神楽蓮司。お前が俺から奪ったもの、全て取り戻す。そして、お前の人生を、完全に破滅させる。これは、復讐ではない。因果応報だ。




