第3話 埃まみれの二重奏(デュエット)
「さて、と……どこから手を付けたものか、なのです」
私が腕まくり(実際にはブレザーの袖を少し上げただけですが)をすると、海斗さんは「え、本気でやる気?」と半信半疑の顔。
失礼な。この私、しおりが一度「やる」と決めたからには、書架の再配列だろうと禁書の封印だろうと、完璧にやり遂げるのです。
「まずは、床面積の確保が急務でありますれば。そこの段ボール群を系統別に一時集積いたしましょう」
「け、系統別って……中身、見てないだろ?」
「背表紙と、箱に貼られた納品伝票の断片、そして微かに漏れ出るインクと紙質の情報で、おおよそのジャンルは推定可能なのでございますれば」
そう。私にとっては、書物のオーラとでも申しましょうか、それらが囁きかけてくるのです。囁き、というか、もう雄叫びに近い情報量ですが。
海斗さんは呆気に取られていましたが、私が次々と段ボールを指示通りに移動させ、まるで長年連れ添った助手の如く彼を動かし始めると、徐々にその顔から疑念が消え、代わりに驚嘆の色が浮かび始めました。
「す、すげえ……なんで分かるんだ? エスパー?」
「エスパー、という分類はございませんが……まあ、経験と勘、とでもしておきましょうか」
ふふ、本当は「知識を喰らう精霊の特殊能力:書物情報自動読解Lv.99」なのですけれど、それはまだ秘密。
埃が舞い、古紙の匂いが部屋を満たします。
それは、私にとって懐かしい戦場の香り。
くしゃみを連発する海斗さんを尻目に、私は次々と本を手に取り、その背を優しく撫で、傷み具合を確認し、あるべき場所へと導いていきます。
ああ、この感触! この重み! これぞ、生きている証!
「ちょ、しおりちゃん、その本、逆さまだぞ!」
「いいえ、海斗さま。この書物は稀覯本『逆さ世界の歩き方』。正しい持ち方はこれで合っておりますれば」
「……マジか。そんな本あるのか……」
「ええ。ちなみに、三章の挿絵は上下逆に印刷されており、正しく読むには更に本を逆さにする必要が。遊び心のある一冊なのでございます」
私の言葉に、海斗さんは「奥が深すぎるだろ、図書館……」と遠い目をしていました。
ええ、図書館とは、宇宙にも匹敵する深淵なのでございますよ。
時折、手が触れ合う。
その度に、また彼の思考の断片が流れ込んできます。
——この子、一体何者なんだ? でも、すげえ助かる。あー、今日の昼飯どうしようかな。購買の焼きそばパン、まだ残ってるかな——
最後のは、あまり知りたくない情報でしたが。
「しおりちゃんは、その……なんでまた、ウチみたいな零細図書委員のバイトに?」
山積みになった雑誌の束を紐で縛りながら、海斗さんが尋ねてきました。
「さあ……導かれるままに、とでも申しましょうか。気が付いたら、あの扉の前にいたのです」
嘘ではありません。本当にそうなのですから。
「ふうん……。なんか、ミステリアスだな」
「ミステリはお好きですか? 私のいた図書館には、アガサ・クリスティ女史の初版本コンプリートセットが……ああ、いえ、何でもございません」
危ない危ない。つい、昔の自慢話が。
段ボールの山が片付き、床が見え始めると、部屋の隅に打ち捨てられたように置かれていた古い木製のカードボックスが姿を現しました。
鍵はかかっておらず、恐る恐る蓋を開けると、中には手書きの図書カードがぎっしりと。
茶色く変色し、インクが滲んだそれらは、まるで遠い時代の声。
「うわ、懐かしいな、これ。俺が小学生の頃はまだ現役だったけど……」
海斗さんが、一枚のカードを手に取り、目を細めます。
「今はもう、全部OPAC(オンライン蔵書目録)だからなあ。便利だけど、なんか味気ないよな」
OPAC……。
ええ、先ほど海斗さんの説明で概要は理解しました。
光る板(彼はそれを『パソコン』と呼んでいました)で、一瞬にして蔵書の情報が検索できる、魔法のような仕組み。
私の時代は、粘土板の目録を一枚一枚めくり、パピルスの巻物を解き、羊皮紙の束を数えていたというのに。
便利、なのでしょう。効率的なのでしょう。
けれど……。
「書物に触れることなく、その存在を知ることができる。それは、いささか……寂しいことのようにも思えますね」
私の呟きに、海斗さんは少し驚いたように顔を上げました。
「……そう、かもな。本を探して書架の間を彷徨うのって、宝探しみたいで楽しかったもんな」
「宝探し、ですか。素敵な表現ですね。私も、かつては利用者の方々とそんな宝探しを……」
言いかけて、口をつぐむ。
あまり、昔の話ばかりするのも良くありません。今は今、なのですから。
ふと、一枚の図書カードの裏に、小さな文字で何か書き込みがあるのに気が付きました。
『星を詠む者、月の満ち欠けと共に現る。鍵は“沈黙の螺旋”にあり』
「……これは?」
「ん? なんだそれ。ただの落書きじゃないか?」
海斗さんは気にも留めない様子ですが、私の胸は、微かに騒ぎました。
星を詠む者……月の満ち欠け……沈黙の螺旋……。
それは、まるで古代の予言のよう。あるいは、誰かが残した、秘密のメッセージ。
この「第一学生閲覧準備室」は、ただの物置ではないのかもしれません。
もっと、何か……重要な意味を持つ場所?
部屋は、見違えるように片付きました。
床には一点の塵もなく、本は(仮ではありますが)ジャンル別に整理され、窓から差し込む西日が、整然と並んだ書物の背を金色に照らしています。
「す、すげえ……一日でここまで片付くなんて、奇跡だ……」
海斗さんは、感極まったように呟きました。
「しおりちゃん、君はもしかして……掃除の神様か何かなのか?」
「いいえ、しがない図書館の精霊、なのでございますれば」
私は、にっこりと微笑みました。
心地よい疲労感。そして、何よりも、この達成感。
ああ、やはり、私はこの仕事が好きなのです。
知識を整理し、物語をあるべき場所へ導き、そして、それを求める人へと繋ぐ。
これ以上の喜びがありましょうか。
「なあ、しおりちゃん」
夕焼けに染まる部屋で、海斗さんが真剣な顔で私に向き直りました。
「君は、一体……どこから来たんだ?」
その問いは、まるで静かな図書館に響く、禁断の書の頁をめくる音のように、私の心に染み込んできました。
さあ、どう答えたものでしょうか。
真実を? それとも、都合の良い物語を?
私の選択が、これからの物語の行方を左右するのかもしれません。
まるで、返却期限の迫った一冊の本のように、決断の時が迫っていました。