第2話 錆びた扉の向こう側
知りたい。
その欲求は、まるで禁断の果実。
一度芽生えてしまえば、抗うことなどできはしないのです。
たとえその先に、心地よい眠りを妨げる騒擾が待っていようとも。
それが、知識を糧とするものの、哀しい性なのでしょう。
私は、ゆっくりと、錆びた鉄の扉に体重を預けました。
ギィィ……と、永い間使われていなかった蝶番が悲鳴を上げる。
それはまるで、忘れられた物語が再び語られることを拒むような、物悲しい旋律。
隙間から差し込む光は、白く、そしてどこか人工的でした。
私の知る太陽の光とは違う、もっと均質で、感情のない光。
そして、音。
微かなざわめき。遠くで聞こえるチャイムのような音。
人々の話し声……それも、私の知らない言葉の抑揚。
意を決して、扉を押し開ける。
そこは……。
カオス、でした。
ええ、まさに混沌。秩序なき情報の氾濫。
もし私がまだ肉体を持たぬ「図書館そのもの」であったなら、この光景に耐えきれず、システムエラーを起こしていたでしょう。
部屋は、それほど広くはありません。
四角い、無機質な空間。
壁には、スチール製の棚が並び、そこには……ああ、何ということでしょう!
背表紙をこちらに向けず、無造作に積み上げられた本!本!本!
段ボール箱が無数に床を占拠し、中からは新しい紙の匂いと、例の合成樹脂のインクの匂いが混ざり合って漂ってきます。
分類は? 目録はどこに? まさか、受入番号すら振られていないのでは……!?
ああ、頭がクラクラする。めまいが。これは低書架症候群? いや、存在しない病名ですが。
窓がありました。
大きなガラス窓。
そこから見えるのは、緑色の……校庭、というものでしょうか。
制服を着た若者たちが、何かを追いかけて走り回っています。
空は青く、雲は白い。私の知る空と、それは同じはずなのに。
なぜでしょう、まるで精巧な絵画を見ているような、奇妙な現実感のなさが漂います。
そして、その部屋の中央に。
机がありました。大きな、事務的なスチールの机。
その上に山と積まれた書類の雪崩に埋もれるようにして、一台の……
何でしょう、あれは。薄い板のようなものが、淡く光を放っています。
その光る板を、一人の人間が覗き込んでいました。
人間。
ええ、本物の、生きた人間。
最後に見たのは、いつだったか。燃え盛る図書館の中で、助けを求める手を伸ばしていた……
───やめなさい、しおり。それは禁帯出の記憶。
その人物は、おそらく若い男性。
くたびれたシャツに、色褪せたジーンズ。
髪は鳥の巣のように無造作で、目の下には深い隈。まるで、何日も徹夜で目録作業をした後の司書のよう。
(ああ、仲間意識を感じてしまうなんて!)
彼は、私が部屋に入ってきたことに気づいていない様子で、光る板に指を滑らせ、時折、唸るような溜息を漏らしています。
「……だから、この予算じゃ新しいデータベースソフトは導入できないって、何度言えば分かるんだ、あの狸オヤジは……ブツブツ……」
狸オヤジ? データベースソフト……?
私の知らない単語が、彼の口から次々と紡ぎ出されます。
まるで、未知の言語で書かれた呪文のよう。
私は、どうすれば良いのでしょう。
声をかけるべき?
でも、何と?
「ごきげんよう、数千年ぶりに目覚めた図書館の精霊です」とでも?
それは少し……ええ、かなり、奇異に聞こえるでしょうね。
その時、彼が不意に顔を上げました。
そして、私を見たのです。
彼の目は、驚きに見開かれました。
まるでお化けでも見たかのように。
あるいは、締め切り間近の原稿を抱えた作家が、突如現れた救世主(あるいは新たなトラブルの種)を見た時のように。
「……え? ……だ、誰だ、君は?」
彼の声は、少し掠れていました。
そして、その瞳の奥に、ほんの僅かな警戒心と、それ以上の……
疲労と、ほんの少しの諦観のようなものが滲んでいるのを、私は見逃しませんでした。
それは、司書がよく浮かべる表情。
無限に続く作業と、報われない努力の果てに辿り着く、悟りのような諦め。
「わ、私は……」
声が、上手く出ません。
永い沈黙は、声帯の使い方さえ忘れさせてしまうのでしょうか。
彼の視線が、私の服装に、そしておそらくは私の異様な佇まいに注がれているのを感じます。
ああ、やはり私は、この時代の「普通」からは著しく逸脱しているのでしょう。
まるで、NDC(日本十進分類法)の分類表に、どうしても当てはまらない異端の書物のように。
「えっと……新しく配属された、アルバイト……とか?」
彼は、首を傾げながら言いました。
その言葉に含まれた、微かな期待と、それ以上の戸惑い。
アルバイト……。
それは、労働力の対価として報酬を得る、という契約形態ですね。
私の知る「奉仕」とは、少し意味合いが異なるようですが。
「……はい。おそらく、そのようなもの、なのでしょう」
私は、曖昧に頷きました。
だって、他に何と言えば良いというのでしょう?
彼の眉間の皺が、ほんの少しだけ浅くなったような気がしました。
「そっか。聞いてないけどな……まあ、この時期だし、臨時かな。ちょうど良かった、人手が足りなくて死にそうだったんだ」
彼はそう言うと、椅子から立ち上がり、私の方へ数歩近づいてきました。
背は、私より頭一つ分ほど高い。
近くで見ると、思ったよりも若い。二十代前半、といったところでしょうか。
無精髭が、彼の年齢を少しばかり曖昧にしています。
そして、彼からも、微かにインクと紙の匂いがするのです。
それは、私にとって、どこか懐かしく、そして安心する香りでした。
「俺は佐伯 海斗。ここの……まあ、しがない図書委員みたいなもんだ。よろしく」
彼は、少し照れたように頭を掻きながら、右手を差し出してきました。
佐伯、海斗……。
カイ、ト……。
その響きが、なぜか私の記憶の古い書架を、静かに揺さぶるような気がしました。
気のせい、でしょうか。
差し出された彼の手。
私は、自分の手を見つめました。
この手で、触れても良いのでしょうか。
人間という、温かく、そして脆い存在に。
戸惑いながらも、私はゆっくりと右手を上げました。
彼の指が、私の指先に触れる。
その瞬間、微かな静電気が走ったような感覚と共に、彼の心象風景の一部が、奔流のように私の中に流れ込んできたのです。
それは、まるで貸出カウンターで利用者のリクエストを聞くように、鮮明で、そして……あまりにも膨大で。
——膨大な未整理図書の山。終わりの見えないデータ入力。無理解な教師たちとの折衝。減少していく予算。それでも、本が好きだという、消えない情熱。誰かの「ありがとう」という一言が、何よりもの報酬——
「っ……!」
思わず手を引いてしまう。
「……ご、ごめんなさい!」
これが、人間との「接触」……。
知識を喰らう精霊にとって、それはあまりにも刺激が強すぎるのかもしれません。
海斗は、きょとんとした顔で私を見ていました。
「え? ああ、いや、別に……大丈夫だけど。……君、名前は?」
名前。
私の、名前。
「しおり、と申します。以後、お見知り置きを……なのです」
私の言葉に、海斗は一瞬、不思議そうな顔をしましたが、すぐに人の良さそうな笑顔を浮かべました。
「しおりちゃんね。よろしくな。しかし……」
彼は、部屋全体をぐるりと見回し、大きな溜息をつきました。
「見ての通り、ここは魔窟だ。一緒に片付けてくれると助かるんだけど……大丈夫そうか? その、えらく……お嬢様っぽい格好してるけど」
お嬢様、ですか。ふふ。
ある意味、間違ってはいないのかもしれませんね。
かつての私は、知識という名の広大なお城に住まう、孤独な姫君だったのですから。
「ええ、お任せください、なのです」
私は、背筋を伸ばして答えました。
目の前の混沌は、確かに途方も無いものです。
けれど、それ以上に、私の奥底で、司書としての本能が疼いているのを感じていました。
整理したい。分類したい。目録を作り、配架し、この空間に秩序と調和を取り戻したい!
それが、この新しい世界で、私が見つけた最初の「使命」なのかもしれません。
そして、それはきっと、あの扉の向こうに置き忘れてきた、本当の「使命」へと繋がる、最初の小さな栞なのでしょう。