第1話 インクの香りは眠りの香り
眠り。
それは、貸し出されることのなくなった古書が、書架の奥で静かに埃を纏うような時間。
永い、永い、インクの香りに包まれた仮眠。
私は、しおり。
ええ、栞、ブックマークとも呼ばれますね。
物語を区切り、迷子になった読者を正しい頁へと導く。
それが私の名の由来であり、存在意義の一つ……だったはずなのです。
かつては。
遥か昔、言葉がまだ粘土板に楔形で刻まれていた時代から、パピルスがインクを吸い込み、羊皮紙が知識の重みに軋む音を立てる様を、私は見てきました。
そう、私は「知識を喰らう精霊」。
司書、というには少しばかり存在が曖昧でしょうか。
ええ、この図書館そのものが私であり、私が図書館そのものだった、という方が正確かもしれません。
想像してみてください。
天井は見えず、ただひたすらに続く書架の迷宮。
囁くように知識が満ち、指先で触れれば物語が流れ込んでくる。
そんな場所に、私はいました。
いいえ、そんな場所が、私でした。
どれほどの時が流れたのでしょう。
最後に見た太陽の色さえ、霞んで思い出せません。
最後に交わした言葉は……ああ、それも、まるで褪色したインクのように掠れて。
ただ、使命だけが、消えないインク染みのように魂に刻まれていました。
護れ、と。何を? それすらも……。
私の外見ですか? ふふ、面白いことをお聞きになる。
この仮初めの器は、まるで物語の主人公のように仕立て上げられています。
インクを溶かし込んだような漆黒の髪は、夜の図書館の静寂を思わせ、肩を過ぎて背中まで流れています。
光の加減で、そこに古代文字の断片が星のように煌めくのを、貴方は見るかもしれません。
瞳は、そうですね、使い込まれた羊皮紙のような、温かなアンバー色。
けれど、その奥を覗き込む勇気があるのなら、無数の文字が渦を巻き、高速で明滅する様を目撃するでしょう。
まるで、暴走した検索エンジンのように。
指先は、いつも微かにインクの匂いがします。
これは染み付いたものではなく、私の一部なのです。
感情が高ぶると、指先からインクが滲み出し、空中に複雑な紋様を描くことも……あら、秘密ですよ?
服装は、そう、まるで古い図書館の制服。
紺色のブレザーに、白いブラウス、チェックのプリーツスカート。
けれど、リボンではなく、古代文字が織り込まれた組紐で襟元を結んでいます。
誰かが用意したのでしょうか。それとも、眠りの中で無意識に私が紡ぎ出したのでしょうか。
目覚めは、唐突でした。
カタン、と。
遠くで、何かが落ちる音。
それは、禁書庫の扉が開く音に似ていました。
あるいは、永らく閉架されていた書物が、ついに誰かの手に取られた瞬間の、微かな息遣い。
埃っぽい。
ああ、本当に、何千年分の埃でしょう。
鼻腔をくすぐるカビ臭さと、乾いた紙の匂い。
そして、微かに……甘いような、新しいインクの香り。
これは、私の知る香りとは少し違う。
奇妙な、合成樹脂のような、ざらついた……そう、まるで大量生産された教科書の匂い。
ゆっくりと目を開けると、そこは……図書館、ではあるけれど。
私の知る、無限に続く書架の迷宮ではありませんでした。
コンクリートの壁。
ひび割れた床。
天井には、むき出しの配管が、まるで巨大な蟲の腸のようにのたくっています。
そして、目の前には……鉄の扉。
頑丈な、銀行の金庫室のような扉。
その扉には、見慣れない紋章と、「第一学生閲覧準備室」というプレートが、錆び付いて傾いていました。
学生……? 閲覧……? 準備室……?
私のデータベースに、該当する言葉は……少ない。
ああ、頭が痛い。まるで、分類不能な新着図書を無理やり詰め込まれたような感覚。
思い出さなくては。
なぜ私はここに?
あの「使命」とは?
そして、何よりも……
あの扉の向こうには、何があるのでしょう?
新しい物語が、私を待っているのでしょうか。
それとも、再び永い眠りへと誘う、静寂だけが……。
そっと、鉄の扉に手を伸ばしました。
冷たい。
けれど、その冷たさの奥に、微かな人の気配を感じるのです。
それは、まるで遠い昔に読み聞かせてもらった、お伽噺の始まりの予感に似ていました。
ドキドキする、という感情は、こんな風に表現するのですね。
ええ、少しだけ……怖い。
でも、それ以上に……知りたいのです。
「開館の時間、でしょうか……?」
か細い声が、埃っぽい空気を震わせました。
さあ、新しい頁を、めくりましょうか。