帰宅部をテーマに書きました。だからタイトルはありません。
帰宅部のルールに、放課後になったら速やかに帰るというものがある。
もちろん嘘だ。僕が勝手に考えた。
しかし部活動のない学生がいつまでも学校にいても意味がない。生産性もないし面白みもないし、何より他の生徒の邪魔になる。だからルールに従おうと思う。
教室を出て下駄箱のほうに歩いていくと、同じクラスの早川さんが足早に帰ろうとしているのが見えた。何の部活かは忘れたが、入部していたはずなのになと思いつつ、同じ方向に歩く。
外に出ていつも通りに真っすぐ家に帰ろうとするが、早川さんが最寄りの駅と逆方向へ走っていくのが見えた。手には学食で買ったであろうパンを持っている。帰り道に食べるのかなと不思議に思った。パンをくわえて走るのは登校中の風物詩のはずだ。
気になったので後をついて行く――なんてことはしない。
これから家に帰らないといけないのだ。
気にならないことはないが、僕にもやることがあるんだ。
その次の日。
昨日、嫌なことがあって真っすぐ家に帰りたくなかった僕は、高校の周りをぐるりと回って時間を潰していた。お金があればどこかで遊んだり買い食いをしたりするんだけど、生憎持ち合わせがなかった。
暗い気持ちで歩いていると、にゃあにゃあと仔猫の鳴く声がした。
僕は自然と声のする方へ足を進めた。
すると河川敷の橋の下で仔猫にパンを与えている早川さんがいた。
「あ。早川さんだ」
「うん? ……えっと、高橋くんだ」
クラスであまり話したことのない男子にはそういう反応だろう。
ショートヘアで健康的に日焼けしている早川さんは仔猫の頭を撫でつつ「見つかっちゃった」と困った顔になった。
「ここで何をしているの?」
「なにって……この子の世話をしているの。高橋くんは?」
「僕は……散歩だよ」
家に帰りたくないなんて言えないから、ちょっとおかしなことを言ってしまった。
早川さんは微笑んで「あはは。散歩なんだ」と言う。
「その仔猫、親はどうしているの?」
「知らない。多分、いなくなっちゃった」
死んだんだと思ったけど、敢えて指摘しなかった。
僕は「仔猫もパン食べるんだ」と話を変えた。
「そうなの。結構、食べてくれるんだ」
仔猫は白猫で、外にいるせいか汚れが目立った。
黄色い目が僕と早川さんを見つめる。
「高橋くん、部活は?」
「帰宅部だよ。早川さんは?」
「この子の世話をするために休部しているの」
「へえ。ちなみに何部?」
「陸上部。だけどね、本当はもう走りたくないんだよね」
なんだろう。心がざわつく発言だった。
早川さんは、パンを食べ終わった仔猫を胸に抱く。
制服が汚れないのだろうか。
「この子を言い訳に、私は逃げているのかもしれない」
「…………」
「県大会も結果出なかったし。このままやめちゃおうかな――」
その言葉が、僕の心を痛いほど傷つけた。
「やめるのは勝手だけど、その子を理由にしないでよ」
多分、僕は恐い顔をしていたんだろう。
あからさまに早川さんは戸惑った顔になった。
「高橋くん……?」
「部活、やりたくてもできない人、いるんだよ。早川さんは関係ないと思うかもだけど、なんかイライラする」
本音を言えば怒鳴りたかった。
でも長年の『生活』のせいで上手く怒れなかった。
「そんな逃げるために世話をするのは、その子がかわいそうだよ」
最後にそう言って、僕はその場を後にした。
早川さんは何も反論しなかった。
言っても、僕は聞く気なかった。
家に帰ると、ヘルパーの井手口さんが「ああ。おかえりなさい」と出迎えてくれた。
「ただいま、井手口さん。お母さんの様子はどうですか?」
「今日は調子良さそうよ。昨日、ちょっと機嫌悪かったのが嘘みたい」
「そうですか。良かった」
僕は一階の居間で寝ているお母さんを見に行く。
穏やかな顔ですやすやと寝息を立てていた。
「それじゃ、私帰ります。あとは大丈夫?」
「はい。任せてください」
「今日遅かったけど、何かあったの?」
井手口さんの心配そうな顔に僕は「気分転換してきました」と答えた。
「流石に、昨日は……悲しかったです」
「あれは認知症の症状なの……ごめん。慰めにならないね」
昨日。僕は物を盗られたと疑われた。
殴ってくるお母さんに盗ってないと何度も言っても信じてくれなかった。
寝ているお母さんに僕は正直ほっとした。
起きているときはとても疲れるからだ。
井手口さんが帰った後、僕は自分の食事を作って、起きたお母さんの相手をして、また殴られて、ようやく眠れた。
こんな生活が続くんだなあと思うと憂鬱になる。心が折れそうになる。
すすんで仔猫の世話をしようとする早川さんの気持ちが分からなかった。
お父さんだって、逃げたのに。
それからしばらくして、早川さんは学校を一日休んだ。
そして翌日。元気のない早川さんをクラスの友人たちは心配していた。
僕はなんとなく、理由が分かった気がした。
放課後。僕は自分のルールを破って河川敷の橋の下にいた。
そこにはこんもりと土が盛られて、その上には木の枝が刺さっているものを見つけた。
いや、はっきり言おう。
仔猫の墓があった。
「高橋くん。来たんだ」
その声に振り返ると、花を持った早川さんがいた。
僕は「どうして死んだの?」と訊ねる。
「元々、弱っていたの」
「そう……」
「私、何もできなかった。この子のこと、助けられなかった」
ぽろぽろ、ぽろと涙を流す早川さん。
僕は何を言えばいいのか分からなかった。
同時に僕は早川さんに自分を重ねていた。
一生懸命に世話をしてもいずれ死ぬ。
そんな行為に何の意味があるんだろうか。
いや、あるはずだ。
少なくとも――パンを与えられて、頭を撫でられて、こうして早川さんは泣いてくれる。あの子にとってそれは幸せだった。
「何も、できなかったことはないよ」
「高橋くん……?」
「早川さんと過ごした数日間。この子は幸せだったよ」
いつのまにか、僕は涙を流していた。
早川さんは、どうして僕が泣いているのか分からない。
僕だって、恥ずかしいと思う。
だけど、涙が止まらなかった――
それから早川さんは陸上部に戻ったらしい。
休んでいた分、一層練習に励んでいるようだ。
僕は今日も今日とて足早に家に帰る。
お母さんのお世話をするために。
つらいことや悲しいことはたくさんあるけれど、それでも僕は頑張る。
生きられなかった仔猫の分、とまでは言わないけど。
その分だけ、生きてみようと思う。