女騎士シャルトリーゼ・ロウェンナの誤算
十年以上前に書いたお話のリメイクです。
――わたくしは、どこで間違えたのかしら?
シャルトリーゼ・ロウェンナは、深刻かつ真剣に考えた。
自分を押し倒したのは、三つ年下の幼馴染にしてこの国の第三王子である御年十八の青年、クリストフェル・リオ・スヴェンケルである。
きらめく金の髪はさらりと頬に落ちてきてくすぐったい。鳩の血を固めたかのような紅い瞳が、熱を孕んで潤み、こちらをじいと見下ろしてくる。
とりあえずこのままではらちが明かない。まずは座って話し合いませんか、という気持ちを込めて見つめ返せば、クリストフェルは切なげに瞳をすがめた。
「シャル、好きだ」
「わたくしもクリス様をお慕いしておりますわ」
「……そういう意味じゃないって解っているくせに」
「はあ」
そうおっしゃられましても、とシャルトリーゼは柳眉を下げた。
ここで「わたくしは正直普通です」と言えるほど空気が読めない女ではない。あえて言うならば「かわいいとは思ってますけども別に恋愛対象として見られるかと言うとだから正直普通でして」とはさすがに言えない。それくらいの遠慮はある。
どうしてこうなったのかしら。シャルトリーゼは改めて彼との出会いを思い返してみる。
出会ったのは自分が十二歳、クリストフェルが九歳の時のことであったと記憶している。
シャルトリーゼは某伯爵家当主が外に作った娘である。その当主が正妻を亡くしたことで母ごと引き取られたばかりのころだった。
ならばシャルトリーゼは伯爵令嬢という地位にあるはずである、なのだが、それらはすべて過去形だ。
既にシャルトリーゼは某伯爵家を飛び出し、母の家名であるロウェンナ姓を名乗り、ついでに女性にしては珍しく騎士として叙勲され、忙しく王立騎士団で立ちまわっているからだ。
先にも述べた通り、母は後妻で、上二人の兄とは母親が違う。年の離れた二人は母を財産目当ての売女と罵り、その子供である自分と妹を蔑んだ。
実際は母の美しさを見初めた父が、没落しながらも高貴なる青き血に連なる名家の娘であった母を無理矢理娶ったのであって、其処に母の意思は欠片も汲まれていなかったことを知っている。
そしてクリストフェルはこの国の第三王子殿下であり、接点というのも本来ならばあまり考えられない。
だが、二人は出会った。
クリストフェルの一番上の兄である王太子殿下の誕生祝賀会でのことである。
シャルトリーゼは、自分で言うのも何であるが、己の容姿が母に似てそれなりに整っている自覚はある。
当時の父はそんな自分のことを周囲に自慢したかったのだろう。母と共にシャルトリーゼは父に伴われ、王城で開かれた祝賀会に出席した。
それは立場の弱い母やシャルトリーゼを想ってのことではなく単に己の虚栄心や自尊心を満たしたいから、というだけだったということくらい考えなくたって理解できる。
でなければ次代の後継者である長男次男を差し置いて後妻の長女である自分だけを連れてくることなどありはしない。
おかげでそれ以降兄達からの風当たりは一層強くなったというのはまた余談であったりする。
常に一緒にいるはずの妹の姿は横にはなかった。信頼の置ける使用人の元に置いてきたからだ。
母も姉もいない屋敷で独り置いて行かれるのを嫌がった妹は、自分も行きたいと泣いていたが、人見知りで屋敷の口さがない使用人の視線にすら怯える彼女が、それ以上に腹の内に化け物を飼う人間達の興味や好奇心に満ちた視線に耐えられるとは到底思えなかった。
異母兄二人がいる屋敷に置いていくことも不安だったが、幸い二人ともその日は夜遊びに出かけていて、シャルトリーゼはその時ばかりは彼等の決して褒められたものではない悪癖に感謝した。
そうしてお土産を持って帰ってくるからと言って何とか納得させた。父は不満げであったが、体調不良を理由にこちらもなんとか母が納得させていた。
流石に病人の子供を連れ歩くほど悪趣味ではなかったらしい。
そうしてある程度連れ回して満足したらしい父は、後は好きにしろと早々にシャルトリーゼを放り出し、母を連れて行ってしまった。
好きにしろと言われても、人に酔わされた十二歳の子供は豪華な食事に手を付ける気には到底なれず、開場を抜け出し庭園へと足を踏み入れた。
その日は折しも満月。
まんまるの大きな月が煌々と闇夜を照らし、庭園の随所に設置された灯から外れた場所でも夜に呑み込まれることはない。
会場のざわめきが嘘のように、庭園は静かで美しかった。
その広大な敷地の中で、茂みに踞る当時九歳の小さな少年のことを自分が見つけられたのは別に運命でもなんでもない。
ただ彼の金髪が月影を反射しきらきらと輝いて、とても目立っていたからだ。
「こんなところでどうなさったの? 月に帰り損ねてしまわれたのかしら?」
「!」
何故こんなところに自分よりも小さい子がいるのかと不思議に思いつつ、当時のシャルトリーゼはそうやって笑いかけた。続けて気分でも悪いのかと問いかければ、その瞬間驚いたように少年はこちらを見上げ、その涙に濡れた大きな紅玉の瞳を更に大きく見開いた。
驚いたような、はたまた呆けたような顔はかわいらしくも実に印象的で、未だにシャルトリーゼは忘れることができないままでいる。
その話を持ち出すたびにクリストフェル本人がやめてくれと縋ってくるのであまり言わないが。
「わたくしはシャルトリーゼと申します。あなたのお名前を聞いてもいいかしら?」
「……クリストフェル」
凍り付いたように動かない年下の子供の前にシャルトリーゼはうずくまって視線を合わせ、名前を名乗った。
金髪のかわいらしい子供は沈黙の後に小さく自らの名を名乗り、その名前にシャルトリーゼは心底驚いた。
クリストフェル。金の髪。紅い瞳。その符号が示す存在はすなわち、そういうことだった。
「まあ。もしかして、第三王子殿下でいらっしゃる?」
「……」
そう思わず呟いた途端に、子供、もといクリストフェルは再びうつむいてしまった。
放っておくこともできずそのまま隣に座ったら大きく体を震わせられたが、彼は離れていこうとはしなかった。
それからどれほど経ってからだろうか。やがてぽつりぽつりと月からやってきたような子供は、自身のことを話しだした。
第三王子たる彼は、今日この王城にいられるのは長兄の誕生日だからにすぎず、明日にはまた離宮に戻されるのだということ。
父も母も使用人すらも自身のことを見てくれる人間が一人もいないこと。
泣きそうになりながらも諦めが如実に滲むその声と表情をシャルトリーゼは知っていた。それは父や異母兄に相対する自分の顔だった。
気付いたとき愕然として、そしてそれ以上にどうしようもなく哀しくなった。
どれだけ虐げられても、それでも自分には母と妹がいた。護りたい存在があるから立っていられた。
けれどこの子は自ら「何もない」のだと言う。それがたまらなくて、放っておけなかった。
可愛くて仕方のない妹と同じ年頃であったからことも多分理由の一つで、それ以上にもしかしたらこうなっていたかも知れないもう一人の自分を見ているようで。
気付いたら思わず抱きしめていた。
我ながらよくやったものだとシャルトリーゼは今になって思う。やらかしてしまったわ、とも思っている。
おずおずと縋り付いてきた手の力がやがて強くなるのを感じた時、自分は初めて母と妹以外に対して放っておけない、護ってあげたいという感情を抱いた。
帰らなければならない時間が近付き、泣きそうになりながら自分のドレスの裾を掴んでくる彼の手を振り払うことはできなかった。
「また逢える?」
縋るように自分を見てくる年下の小さな男の子。
実際にそれが叶うことはないだろうと知りながらもちろんと答えずにいられなかった。再びこの子が独りになってしまうことを思うと胸が痛んだが、当時の自分もまた子供だった。何ができるわけでもない。それはクリストフェルも同じだろうと思っていた。
だからこそ、まさか彼のほうから自分達の屋敷にやってくることなど考えてもみなかった訳で、通わされている貴族のための学園から帰宅したところ、屋敷に見知らぬ豪奢な馬車が停められていて、客室のソファーでちょこんと座っている金髪の少年の姿には誇張ではなく度肝を抜かれた。
「シャルトリーゼ! やっと逢えた!」
「え、えええええ?」
心底嬉しそうに少年に飛びつかれたときは本気で何事かと思った。
クリストフェルが頻繁にシャルトリーゼの元に訪れるようになったのはその日からだ。
相手が第三王子殿下だと解ると、父も何も言わなかった。むしろ「よくやった。このままお近づきになれ」と笑い、その笑顔がどうしようもなく気色悪かったことを覚えている。
異母兄達は流石売女の娘だなと蔑んできたが、クリストフェルのいる前で言わないだけの分別はあったのでとやかく言う気になれず、それ以上にクリストフェルの存在はシャルトリーゼにそんな暇を与えなかった。
こう表現するのは自分として不本意なのだが、いくら離宮に預けられるくらいに重きを置かれない第三王子であろうと、クリストフェルは半端なく間違いなく『王子様』だったのだ。
扉は誰かに開けてもらうもので、服は誰かに脱がしてもらい着せてもらうもの。食事は気付いたらできているもので気付いたらまた片付けられているもの。
有り得ないと思った。身体の弱い妹ですらそれくらいのことは自分でやるというのに、クリストフェルはその辺りのことを考えつきもしない様子だった。
こうなればやることは一つしかない。
彼が遊びに来るたびに、一つ一つ覚えさせることにした。
周囲は真っ青になったが、クリストフェル本人が楽しんでおり、邪魔をするなと周囲に言い切ったので、シャルトリーゼはこれ幸いととりあえず最低基準までは覚え込ませた。
それは骨が折れる行為であったが苦ではなかった。かわいかったからだ。
当時のクリストフェルはそれはそれはかわいかった。
シャルトリーゼの銀髪とはまるで正反対の金髪に、極上の紅玉のような大きな瞳、そしてそれ以上に整った容姿に浮かぶ笑顔。
たった一人のかわいい妹の、野に咲く花のような可憐さとはまた別種の華やかなかわいらしさ。
どれもが眩しいくらいにきらきらと輝いていた。
最初はどこかおどおどとしていた印象だったが、慣れるに連れて生来の活発さが発揮されるようになり、その明るい言動や、次第に増えていくようになった子供らしいいたずらに笑ったり怒鳴ったり悩ませられたり、そしてやっぱり笑ったり。
クリストフェルが来るようになってから母の笑顔が増えた。大人しい妹と活発がすぎるクリストフェルがうまくいくかと若干危ぶんだが、何故か意気投合して二人揃って自分に付いて回ってきた。
妹と、弟。
そう。本当に弟ができたようで嬉しかった。家族が増えたようだった。
今にして思えばあの頃が一番幸せだったのだと、そう思う。
転機となったのは三年前だ。十五の時のことだった。
母と妹が死んだ。
身体の弱い妹を療養地である温泉へと連れて行く途中で発生した落石事故のせいだった。
「シャル!」
「……まあ、クリス様。ごきげんよう」
シャルトリーゼが最愛の二人を喪ったときも、クリストフェルはやってきた。
すべてを終えて埋め固められたばかりだと解る土と真新しい墓石の前に立っていた自分の元へ、彼は息を切らしながらやってきた。
葬儀にすら間に合わなかったことを何度も詫びてきて、かえってこちらの方が申し訳ない気分になった。
シャルトリーゼの元にクリストフェルが通い詰めるのをよく思わない輩も多数いるため、当時十二でしかなかった彼の元に報せが届くのが遅れたのもある意味当然の話なのだ。
だから怒るはずがなかった。むしろ安堵した。
――だって、そうでしょう?
確かに最期に母と妹に逢ってあげて欲しかったというのは本音だが、あんな葬儀にクリストフェルのように純粋に二人を想ってくれた人間が出席せずに済んだことに安堵したのもまた事実だったから。
伯爵夫人とその令嬢のものだというのに、その葬儀は酷く事務的で簡素なものだった。
父ではなく、当時既に成人していた異母兄のどちらでもなく、当時まだ十五歳でしかない小娘である自分が喪主を勤めた。
三人とも仕事の忙しさを理由にすべてシャルトリーゼに押しつけ、出席すらしなかった。
異母兄二人には最初から期待はしていなかったし、顔を出してほしいとも思っていなかったからどうでもよかった。
だが父だけはどうしても、歳を経た今でも許せない。
最早父と呼ぶのも厭わしい。当時既に外に女を作っていたあの男は、『妻』という名前を持つだけのとうに飽いた女とその娘のことなどどうでもよかったのだ。
泣きもせずにただ墓石を見下ろす自分を見てクリストフェルは泣いた。
「すまない」と何度も口にしていた。いつものように駄々を捏ねるような泣き方ではなく、ただただ静かに泣いていた。
彼のそんな涙を見るのは出会って以来初めてのことで、たいそううろたえてしまったものだ。
「シャル」
「はい」
「泣いていいんだ。私じゃなくて、泣くべきはきみなんだ」
泣きながらぎゅうと自分を抱き締めてくれた年下の少年のその言葉に、自分の心がひしゃげる音を聞いた。
そしてシャルトリーゼも泣いた。情けなくも年下の少年の前で泣いた。自分と同じ涙を流してくれる存在に救われた気がした。あの時クリストフェルがいなければ自分は本当に駄目になっていただろう。
あの後、最早屋敷にはいられないことを悟った。
幸いなことに十五歳。成人を目前にして、シャルトリーゼは迷うことなく王立騎士団の養成所に進むことを選んだ。
男に人生を左右されない強さが欲しかった。自分のこの母譲りの顔につられて持ち寄られる見合い話から逃れるためには、相応の地位と理由が必要だった。
家を出て平民となり働くという道もあったが、しょせん自分はお貴族様の箱入り娘。
まともな職にありつけるとは考えられず、亡くした母も妹もそんな真似をシャルトリーゼに望むとは思えなかったからという理由もある。
父は好きにしろ、と一言だけだった。政略目的に自分を有力貴族や豪商との縁談に差し出すかと思ったのだが、最終的に養成所に対して金を使うことよりも、反抗的な娘に面倒をかけられることを厭ったらしい。それを好都合と思うことにした。
むしろ問題だったのはクリストフェルだ。
シャルトリーゼが騎士を目指すと決めた時、クリストフェルは誰よりも喜んでくれたが、寄宿舎に入ると知った途端猛反対にあった。
「私の離宮に来ればいいじゃないか!」
「そういうわけにはいきませんわ。よろしくないうわさが立ったらどうなさいますの」
「よろしくなくない! むしろ願ったりかなったりなのに!」
「まあ、光栄ですわ。ですがクリス様、今を時めく“望月の王子”たるもの、危うい発言は控えなさったほうがよろしいかと」
「だから私はシャルとなら……っ」
「うふふ、光栄ですわ」
「本当にぜんぜん本気にしてないな!?」
「うふふふふふ、光栄ですわ」
「シャル!!!!」
とかまあなんだかんだと散々ごねられた。最終的に「私が全方面に金子を工面するから!!」などとふざけたことを言い出されたときは本気でそのお美しいかんばせをひっぱたきそうになり、それを押し止めることに苦労した。
その時ばかりはクリストフェルもこちらの本気の怒りを感じ取ったらしく、真っ青になった挙げ句半泣きで土下座せんばかりに謝られたのでさすがに縁を切るのは諦めたが。
毎日手紙を書け、休日には必ず会いに行くから必ず休日は報告するように……と、十二歳の少年に無理矢理約束させられた。
もちろんすべての約束を守ることなど不可能だったが、まあかわいい『弟』の言うこと、できる限りは約束を守り続けた寄宿舎生活。
淑女としてのマナーを守るよりも、剣技を磨くことのほうがよほど楽しくて、幸いにも才に恵まれ、シャルトリーゼはめきめきと頭角を現し、騎士団養成所を主席で卒業することとなった。
充実した日々だった。世話になった騎士団長に忠誠を誓い、そのまま学友とともに王立騎士団に入団した。
「クリス様、お久しゅうございます。……まあ、どうなさいましたの、そんなご機嫌斜めのお顔をなさって」
「私は笑っているつもりなのだけれど」
「ええ、笑いながらおかんむりでいらっしゃいますわね」
「……シャルはだまされてくれないんだな」
「だまされてさしあげたほうがよろしいと?」
「うん」
「うふふ、ごめんあそばせ」
「…………シャルがそういう風だから、私は……いやもういいけれど……」
恵まれていると思わずにはいられない。たくさんの人に支えられている自分。その中でも、クリストフェルにはなんだかんだで一番支えられてきたのだ。今となってはたった一人の『家族』。血の繋がりよりもずっと深い絆。
―――――それがどうしてこんな展開になったのかしら?
あの小さな男の子はどこへ行ってしまったのだろう。
いつしか腰をかがめなくても視線が合うようになり、見下ろす必要もなくなって横に並び、気付けば自分の方が見上げなければ視線は合わなくなってしまった。
元々整った容貌は幼さがそげ落ちて精悍なものとなり、望月の王子と呼ばれる立派な姿を見るたびに「あの泣き虫の男の子が……」と二年ほど前から感慨深く思っていたものだ。
だがそれでもシャルトリーゼとってクリストフェルはかわいい弟で、それ以上でも以下でも無かった。だというのに。
「クリス様、どいてくださいまし」
「嫌だ」
間髪入れずの即答にシャルトリーゼは口元が引きつるのを感じた。何かしらこの状況。何故自分は弟分の幼なじみにベッドの上で押し倒されているのか。
「言っただろう? 私がきみに勝てたら、なんでも望むものをくれると」
「それは確かに申し上げましたが」
誇らしげにクリストフェルは笑う。その両手はこちらの両手を押さえつけ、どうあがこうとも開放してくれそうにない。
彼の笑顔はいつもと同じ快活なものであるというのに、目には本気と書いてマジと読む光が宿っているのが解り、今度こそシャルトリーゼは途方に暮れた。
自分は騎士団養成所と同時に寄宿舎を出て一人暮らしを始めた。その時からクリストフェルは側にいられなかった日々を埋めるように、かつて屋敷で暮らしていたころと同じように、頻繁にシャルトリーゼの元へ遊びに来るようになった。
第三王子としての政務はいいのかと問いかけてもあっさり「私は人気者だから、まわりが甘やかしてくれるんだ」とけろりと答える弟分に呆れつつ、単に遊びに来ているだけよりはと彼の剣の相手を請け負うようになった。
クリストフェルならばもっといい指南役――それこそ騎士団長にだって教えを乞うことが叶っただろうに、シャルトリーゼがいいのだと言って本人が譲らなかったのも一因だ。
下世話な話だが提示された給料もいいので断るにやぶさかでなく、可愛い弟に対し自分でできることならと付きっきりで剣技を教えてきた。ついでに淑女のエスコートの仕方とか政務の手伝いとかもついでに頑張ったりもしたとは余談だろうか。
そして本日。いつも通りの剣技の指南中、いよいよ彼はシャルトリーゼから剣を奪った。
カァンと弾き飛ばされた剣を見送って、いよいよこの日が来たのかと胸が熱くなったものだ。
祝いにどこかに食べに行こうかと誘ったが、当の本人はシャルトリーゼの手料理を望んだ。その望む通りにいつもの通りに手料理を振る舞い、約束だった欲しいものを問いかけた、その流れ。
「だから私は、シャルが欲しいんだ」
「ええええええ……」
だからその『だから』って何なのかしら。どうしてそうなるのかしら。なぜわたくしは押し倒されているのかしら。
とりあえず体勢を戻そうにも、押し返そうてもぴくりとも動かないクリストフェルに愕然とする。
いつから見下ろされるようになったのだろう。いつから力で叶わなくなったのだろう。いつから、クリストフェルは。
「―――――クリス様」
名前を呼んだ瞬間、ぴくりとクリストフェルは震えた。笑みが消えている。シャルトリーゼの知るいつもの快活で余裕に満ちあふれた笑顔は其処にはなく、自分の知らない『男』の表情。
それでもその必死さは泣きそうになりながら謝ってくる『弟』と同じものが感じられて、ああやはり彼は彼なのだと再認識する。だけど今の彼はかわいいばかりの『弟』ではなくて。
「クリス様。わたくしも、お慕いしておりますよ」
シャルトリーゼは微笑んだ。驚いたようにクリストフェルの紅目が見開かれる。それを見上げながら、シャルトリーゼは唯一自由になる足を振り上げた。
「!!!!」
声にならない悲鳴に目を細める。お許しくださいまし、クリス様。
内心で呟きながら力の緩んだクリストフェルの下から即座に抜け出し、テーブルの上の財布を持って玄関へと走る。
声にならない呻き声に目を伏せた。自分は女であるが、今感じているであろうクリストフェルのその痛みが想像を絶することくらいものすごくよく解る。文字通り痛いほど。
だが、背に腹は代えられない。リアルすぎて笑えない。扉を開けて厩舎へと繋がる階段を下り、愛馬の背にまたがった。
慌てたような足音が近付いてくるがそれが誰かを確認する前にシャルトリーゼは愛馬の腹を蹴る。
「シャル!」
「ごきげんよう、クリス様!」
――ああ、どこで育て方を間違えたのかしら!