商人の話② 完結
沈み切った気分とは対極的に、毎年の事で慣れた体は殆ど休憩を要さずぐんぐんと丘を登り進てしまう。
今年は頂上に着くまでに三時間ほどしかかからなかった。
この調子では、恐らく今年も私が一番乗りだろう。
誰かの到着を待っていても仕方がないので、例の洞穴を目指す。
「お、お、おはよう。こ、今年は早いね」
洞穴を覗くと、琥珀色の目玉が二つ、こちらにギョロリと向けられた。
背筋の凍る思いがする。
「あぁ、今年はなんだか気合が入ってしまってね。例年より速く登ってしまったんだ」と適当な返事をしておく。
機嫌を損ねないに越したことはないだろう。
「そ、そ、それは良いことだよ。な、な、何せ今年は、す、すごく大きいやつが落ちてたんだ。ま、まぁこっちに座って選んでくれよ」
そう言われるがままに引かれた椅子へ腰掛けると、洞窟の奥に充満する悪臭が鼻をついた。
古くなった配管から漂ってくるような、生ゴミと鉄錆びの混じった臭いだ。
良い欠片を二つか三つ交換して一刻も早くここを出たい。私は先に自分が持って来た交換物資を提示してしまうことにした。
「羊の肉を五ブロック、塩を二籠、薪を十五本に、火薬玉を十個持って来た。いくつ替えられそうだい?」
私は商談における駆け引きなどどうでも良いといった具合に、机の上に全てをぶちまけてやった。
「か、火薬玉は良いね!そ、そ、それも十個も!さ、魚がすごく獲りやすいから気に入ってるんだよ!」
去年魚を獲るのに使えるかもしれないと渡した火薬玉を今年も持ってきておいたのは、どうやら正解だったらしい。
「そ、そ、そうだな、こ、今年はたくさん欠片を拾えてるし、お、お、大きいのも含めて五個と交換でどうかな」
普段は肉の量ばかりを気にしているこの醜悪な獣が魚に関心を抱くのは意外だったが、私にとっては思ってもみない食いつきと好条件であったので喜んで契約成立とさせてもらった。
あとは家に帰るだけだ。
身支度を済ませた後は、こちらをなかなか帰すまいと怪物が続ける世間話の中から次の商談のヒントを探る。これも毎年の事だ。
「そういえば火薬玉が随分気に入っているようだけど、来年も多めに持って来ようか?」
私はなるだけ素っ気ない風を装って尋ねた。
他の行商人があまり持ち込まない品で気に入った物を知っておくのは、私にとってかなり有利になる。
しかし目の前の悪魔から返ってきた答えは、全くもって肩透かしなものだった。
「い、いや、こ、こ、今年はたまたま肉が少し手に入ったっていうだけだよ。だ、だ、だから来年もまた肉をたくさん頼むよ」
私は有益な情報を得られなかった事に落胆しつつ、次の商人が来るだろうからと理由をつけて洞穴を去ることにした。
洞穴の脇には獣の言う通り、ヌラヌラと光る不気味な肉塊がうず高く積まれていた。
「確かに、ずいぶんな量の肉だな」と私は言った。
「す、す、す、スープにするんだよ」と、聞いてもいない答えが返ってきた。
やっとのことで解放されて、安堵のため息を吐きながら丘を降りる。
鼻の奥に残る生臭さを唾と一緒に吐き出そうとしたが、どうにも無理だった。今日一日は取れそうもない。
しかし収穫は上々であったので、枕を高くして眠る事はできそうだ。
早く愛する妻の元へ帰って、完璧な夕飯を食べたい。
私は背中にヒリヒリと焼きつく様な視線を感じながら、それを振り払う様に早足で帰途を急いだ。
丘の頂上は、雪が溶ける事の無い、無限の冬だ。星空の狩人は冬が終われば姿を消すが、季節の巡らぬこの丘の狩人は、いつまでもその冷酷な牙を覗かせている。