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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アンドロイドは醜い人間との恋の夢を見るか?


莫迦(ばか)な、嫉妬深い、猥褻(わいせつ)な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物」

 文豪として名高い芥川龍之介は『河童』という作品の中で人間をこう表現している。

 事実、この世界に存在する人間という動物は僕も含め皆「莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物」なのだ。

 聖人やら人の好い者などは、自らを賢さで取り繕っているだけで、その実態は上で述べた通りなのだ。

 僕はアンドロイドの開発を通して、この事実を知った。

 そして今まさに僕は「莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物」らしく、身勝手に死ぬつもりだ。

 そのための道具はすでに僕の目の前に置かれている。美しい球体であるそれは、堅牢な障壁や安全装置の中で宝玉のごとく煌煌(こうこう)と輝いている。

 球体を守る安全装置や障壁を一つ一つ外していく。

 遂に球体が作業机に露出する。

 身勝手で愚かな僕は両手でハンマーをしっかりと握り、ためらうことなく露出した球体めがけて振り下ろしていく。

 その刹那、アンドロイドである彼女との一連の出来事が、僕の頭の中で走馬灯のように駆け巡っていった。


「遂に、遂に反エントロピー動力炉が完成した!」

 僕は興奮のあまり叫んでしまった。

 でも今回ばかりは仕方がないと思う。僕はついに世界の法則を捻じ曲げたのだから。

「本当なんですか!? おめでとうございます! これであの子を起動できるんですよね、先輩?」

 私の婚約者である野菊が扉を開きながら完成を祝ってくれる。

 彼女は研究ばかりしていた私を甲斐甲斐しく世話してくれた貴重な女性だ。

 髪は美しい黒で、整った目鼻やその佇まいは瀟洒の一言で表せる。

 本当に僕なんかには勿体無いぐらいの婚約者である。

 未だに大学の時の名残で先輩と呼んでくることと大学で物理を専攻していたはずなのに物理が苦手なところが玉に(きず)だが。

「あぁ、これを機関部にはめ込めば、理論上あの子は起動するはずだ」

 僕の悲願の達成はもう目の前だ。

 人の感情を持ったアンドロイドが完成すれば、人口減少や労働力不足、孤独死など様々な問題解決の糸口になるだろう。


「でも、何でアンドロイドなのに充電バッテリーじゃなくて何たら動力炉をはめ込む必要があるんですか? 確かその動力炉は危険なんですよね?」

 彼女は小さく首をかしげながら、尋ねてくる。

「あぁ、もしこれの中身が漏れ出したら、反エントロピーが全宇宙に連鎖反応的に拡大し、宇宙の膨張が一瞬にして縮小に転じる。つまりビッグクランチが起こってしまうわけだ」

 僕がそう言うと、彼女の頭上に???が現れた。

 専門用語が多すぎたようだ……

「エントロピーって言うのは何だかわかるかい?」

 僕は彼女に尋ねる。

「昔講義できいた記憶はあるんですけど……」

「エントロピーって言うのは、物質の乱雑さを表す単位みたいなものでね。エントロピーが増大したって言ったらある物質がすごく乱雑になるわけだ」

 我ながら物凄く分かりにくい説明だが、こうとしか言えないのだ。語彙力のなさが悔やまれる……

「先輩、すいません。訳が分からないです……」

 うーん、何というべきか……

「そうだなぁ、例えばミルクをコーヒーに入れたとするよ。その後放っておくとどうなる?」

「えーと、ミルクが混ざってカプチーノができます!」

 彼女は胸を張って質問に答える。

「うん、ミルクが均一かつ不規則に混ざるわけだ。でも、放っておいてミルクがきれいに一か所に集まったりコーヒーと分離することはないよね?」

「はい、もちろんです」

 僕だってそうなったコーヒー牛乳とか絶対飲みたくないし……

「そんなコーヒーとミルクの関係を表すための物理量がエントロピーってわけだ」

 僕がそう言うと彼女は眉間にしわを寄せながら言う。

「うーん、何となくわかったような分からないような……」

「だよね…… まぁ、反エントロピーってのが乱雑なものを綺麗な安定した状態に持って行くもんだと思ってくれれば今はいいよ」

 むしろ、こんな簡素な説明で理解できる人は誇っていい……

「それがどうやって世界の滅亡とつながるんですか?」

 彼女は依然首をかしげたまま尋ねてくる。

 なので僕は補足説明を続ける。

「宇宙って言うのは、『無』という安定した状態から『宇宙』という乱雑なものに膨張しているんだ。ここに乱雑なものを安定させる反エントロピーを加えれば……」

「宇宙全体が収縮して世界は滅ぶってことですか!? なら、絶対バッテリーとか使ったほうがいいじゃないですか!」

 彼女が僕の手にある動力炉を見つめながら叫ぶ。

 実際彼女の言うようにバッテリー駆動のほうがコストもかからないし、安全であるし、メリットが多い。

 だが今回反エントロピー動力炉を使ったことにはしっかりと理由があるのだ。

「それはできない。バッテリー駆動ではあの子は単なるアンドロイドの域を超えることはできないだろうから」

 あの子が人間らしく成長するためには反エントロピーが必須なのだ。

「何でですか? 充電バッテリーでも、ディープランニングという技術のおかげで人としての思考が可能なんですよね?」

 確かにOSはそれでいいだろう。

「あぁ、可能だとも。だが、リチウムイオンバッテリーの耐用充電数は500回。人と触れ合い、人らしく成長する時間としてはあまりに短い」

 バッテリー駆動では、人間性を獲得したアンドロイドを作ることは困難なのだ。

「途中で毎回電池交換してあげるんじゃだめなんですか? 世界を滅ぼしかねない動力炉使うよりか何回も電池交換する方が絶対良いと思うのですが……」

「あの子には我々が死んだあとも生きていてほしいんだ。我々とともにいる時間だけでは人間性を獲得できないかもしれないが、何百年単位の時間があれば収集データ数も膨大になって人間性が獲得できるかもしれない」

 非科学的だが日本の付喪神信仰的な発想だ。

「そういうことですか。でも、絶対動力炉が壊れないようにしてくださいよ……」

「それはもちろん、核弾頭で攻撃されても動力炉だけは壊れないよう幾重にも障壁で包んでいるとも」

 胸を張って僕は言う。

 僕とて一応名だたるロボット工学者なのだから、その辺は無論考慮して対応済みだ。

「それならいいんですけど……」

 不安そうに彼女がつぶやく。



 まぁ、何はともあれ、説明も終わったしあの子を起動するとしよう。

 そう思い僕はゆっくりと動力炉を持って、部屋の隅へ向かう。

 そこには何本もの電線とつながっている緑髪の少女がいる。

 露出している機関部以外で彼女がアンドロイドであることを示す部分は電線との連結部ぐらいであろう。

 僕はそんな少女の腹部に満を持して動力炉を入れる。

 瞬間、露出していた機関部は他の部位同様、皮膚に覆われて見えなくなる。

 そこから数分間CPUの駆動音が静かな部屋に響く。

 その間、僕も野菊も手に汗を握っていた。

 そんな中ふとCPUの駆動音が小さくなる。

 それと同時に彼女は口を開き、抑揚のない声で言葉を放った。


「人工成人女性声帯 チェック 反エントロピー動力炉 チェック 基礎人格OS チェック 疑似感覚センサー各種 チェック 管理権限所有者 チェック 疑似生体脳メモリー チェック 模倣感情CPU チェック 維持管理用予備電源 チェック」



「システムオールグリーン ニンフシリーズ第一世代個体識別番号NH-001 個体名『ダフネ』起動完了しました。 初めまして、マスター」 



 彼女は流暢に平坦な声音でそう述べた。

「……これって成功ですよね、先輩?」

 野菊が静かに僕に尋ねてくる。

「あぁ、紛うことなき成功だ……」

 そう答えながら僕は思わず腰を抜かしてしまった。

「今日はお赤飯の準備をしなきゃですね!」

 野菊はそんな僕を支えながら微笑んでくれる。

 こんな彼女がそばにいてくれたから、ダフネを造ることができたのだろう……

 そう感慨にふけっていると、ダフネが話しかけてくる。

「マスター、奥方様、ダフネはいかがいたしましょうか?」

「そうだね、ダフネはまだ動作確認がしたいからまだ部屋にいてほしい。野菊は何か言っておくことはあるかい?」

 僕はダフネに指示をしながら、野菊に尋ねる。

「うーん、私の部屋に勝手に入らないでほしいってことぐらいですかね」

「承知しました」

 野菊の要望にダフネは短く答える。

 まだまだ彼女の応答は機械的なので、ここからの成長をじっくりと見守っていこうと思う。


 ダフネが起動して数日が経過した。

 動作確認や初期メンテナンスも終わり、ダフネは万全な状態にある。

 なので、今日は彼女の感情の成長を促すために研究所の外へ連れ出そうと思う。

「野菊、ダフネ、今日の昼食は三人で██公園にでも行って食べないかい? ちょうど藤の花が見ごろらしいし、僕も最近家にこもり続けていたしね」

 机を囲んで三人で朝食をとっている時に、僕はそう提案する。

 ちなみにダフネに食事は本来必要ないのだが、人間らしさを得るためには生活も人間らしいほうが良いという野菊の提案で彼女も食事をとっている。

 念のために搭載した食物発電システムが功を奏したようだ。

「はい、すぐに用意しますね。最近先輩とお出かけしてなかったので楽しみです!」

 彼女はそう言うと軽やかな足取りで台所に向かう。

「ダフネはどう思う?」

 僕はダフネのほうに顔を向けて尋ねる。

「公園に行く件について異論はありません。ただ、ダフネはアンドロイドなのですから命令していただく方が効率的だとダフネはマスターに進言します」

 彼女は冷淡に機械らしく答える。 

「ダフネはアンドロイドじゃない。僕たちの家族なんだから、君は僕に服従する必要はないんだ。僕らは対等な関係なんだよ?」 

「申し訳ございません。マスターの言葉によりロボット三原則第二条に矛盾を起こしたため、CPUによる言語処理ができませんでした。ゆっくりはっきりもう一度言ってください」

 彼女はどこぞの検索エンジンの自動音声みたいにまくし立ててくる。

 ダフネの感情CPUの発達度合いに応じて、ロボット性というのが失われてロボット三原則が適用されなくなるようセットしたはずだけど、まだこういう話ができるほど感情CPUが成長してなかったかな……

「何でもないよ、今のことはいったん忘れてよ。さぁ、外に出かける準備をしよう」

「承知しました」

 そう反省しながら僕は外に出る支度をするため、席を立ち食器を片づけるのだった。



「先輩、先輩、この藤の花とても奇麗じゃないですか?」

 ██公園の藤の花を見上げながら、野菊がそう言う。

「あぁ、とても奇麗だね。二人を誘ってきて正解だったようだ」

 ダフネも美しい藤の花に見とれているのか、垂れ下がる花を静かに見上げていた。 

「図鑑データと実物を見るのではずいぶん違うだろう?」

 僕は彼女にそっと問いかける。

「はい、何というか図鑑と違って温かい感じがします。すごい心地よい温かさです。表面温度はデータ上のものと差異はないのですが……」

 彼女は藤の花の一房を撫でながら言う。

「それは生き物独特の温かみだよ。その感触を大切に覚えておくんだよ」

 やはり、直接自然に触れさせるというのは子育て同様アンドロイドにも良い効果を与えるようだ。

 こういう感触を積み重ねて、彼女には人を思いやる心を育ててほしい。

 そんなことを考えながら、藤の花を眺めていると野菊が話しかけてくる。

「そういえば、先輩って藤の花の花言葉って知ってますか?」

「いや、そういうことはとんと疎くてね。全く知らないよ」

 今まで物理一辺倒だったので、僕は正直にそう答える。

「じゃあ、当ててみてください! ヒントは私が今そんな状態です」

 なるほど、では無邪気とかそういった類なのだろうか?

 僕がそう頭を悩ましていると、野菊がフフッと笑いながら言った。

「先輩ったら鈍感ですね。正解は君の愛に酔うです!」

 彼女が堂々と僕にそう告げるものだから、僕は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。

「あれ、先輩もしかして照れてるんですか? そんな先輩も可愛くていいですね!」

「仕方ないだろう。 本当に嬉しかったんだから……」 

 僕はぼそぼそと呟く。

「キャー、先輩大好きです!」

 そう言って野菊は僕に抱きついてくる。

 嬉しいんだが、ものすごく恥ずかしい!!

「野菊、ダフネとか他の人たちも凄い目で見てるから、見てるから!」

「あ、すいません、先輩。つい衝動的にやっちゃいました。後悔はしてないです!」

 彼女はそう胸を張って僕に言ってくる。

 だから僕は照れくさくて話を逸らすために彼女に尋ねる。

「そういえば、藤の花の花言葉ってほかにあるのかい?」

「え、あ、あるにはあったはずですよ」 

 彼女はしどろもどろになりながら答える。

「じゃあ、ダフネに他の花言葉を検索してもらおう。いける、ダフネ?」

「肯定します。……検索結果として藤の花の花言葉で検出されたのは『優しい』『歓迎』『恋に酔う』『忠実な』『決して離れない』です」

 そう彼女が言った瞬間、野菊が慌てだす。

「い、いや、この意味は知らなかったです。私はそこまで重い女じゃないですし…… 本当ですよ!?」

 だからさっきしどろもどろになっていたのか……

「大丈夫だよ。知らない人から重い愛情を受けるのは嫌だけど、野菊からだったら大歓迎さ」

 僕は本心を彼女に告げる。

「先輩……」

 彼女が目を潤めながらそう言う。

 いけない、これ以上見つめていたらおかしくなりそうだ。

 僕は急いで話題を変える。

「さぁ、昼ご飯を食べて早く帰ろう。ちょっと雲行きが怪しいしね」

 そう言って僕は西の空を指さした。

 西の空には暗い雲が立ち込め、沈みゆく太陽を覆っていた。

「承知しました」「了解です!」

 そう声をそろえる二人とともに僕は昼食をとって、足早に公園を去るのであった。


「マスター、本日は██公園に行かないのですか?」

 次の日、昨日と同じように三人で朝食をとっていると、突然ダフネがそう尋ねてくる。

「え、あぁ、行くつもりはなかったけどダフネが行きたいのなら行こうか」

 僕は突然の彼女の質問に驚きつつも、そう答える。

「そんな、私のためによろしいのですか?」

 ダフネが不安そうに尋ねてくる。

「あぁ、もちろんいいとも。野菊はどうする?」

 ダフネは僕の娘みたいなものだし、彼女の初めての願い事なのだから僕は即答した。

「今日は事務所に行かないといけない日なのです…… ごめんなさい、次誘ってください……」

 彼女は目に見えてしょぼくれながらそう呟く。

 彼女は弁護士をやっているので、働いていない僕と違い案外多忙なのだ。

 僕も家事などを手伝うことはあるが、彼女には及ばない。

 これでもし僕に特許収入という莫大な不労所得が無かったら、僕は完全なる野菊のヒモである……

「いや、突然の誘いなんだ。こちらこそすまないね、野菊」

「いえ、そんな謝らないでください! ダフネちゃんがせっかく行きたいって言ったのですから、連れて行ってあげてください」

 彼女は慌ててそう言ってくれる。

 なので僕らは彼女の厚意に甘えて、二人で██公園に行くのであった。


「そういえば、ダフネは藤の花のどんなところが気に入ったのかい?」

 僕は公園に向かう道を暢気に歩きながら、ダフネに尋ねる。

「なぜだか分からないのですが、藤の花の近くに居ると、感情CPUに走るノイズが極端に少なくなるのです。それがとても心地よくて……」

 彼女は静かに僕にそう告げる。

 アンドロイドに物理的なもの以外の概念的な温かみは感知できないはずなので、これはすこぶる良い兆候である。

「そうなんだね、じゃあこれから散歩がてら毎日藤の花を眺めてそれを言語化できるようにしようか」

「承知しました、マスター。理解できるよう努力いたします」 

 そう答える彼女の顔には微かに喜びの表情が浮かんでいるような気がした。

 

 それから毎日僕とダフネは██公園に通った。 

 野菊もただでさえきついスケジュールを更に詰めて週4のペースでついてきてくれていた。

 そんなこんなで██公園につくと、ダフネは毎日藤の花を無表情のまま見つめて感情CPUを用いた演算を行うのだった。

 ある日は謎の心地よさと藤の花の垂れ下がりの相互関係について演算する。

 ある日は謎の心地よさの原因を藤の花の内部の水分の移動と仮定して心地よさが生まれる過程を演算する。

 ある日は謎の心地よさを感じる目の前の藤の花とデータ上の藤の花の差異について演算する。

 そのようなことを二週間続けていると、藤の花のほうに変化が起き始めた。


「マ、マスター、藤の花の花弁が抜け落ちています!」

 いつものように公園に散歩にきて藤の花の咲く場所へ行くと、突然ダフネが僕にそう訴えてくる。

「あ、あぁ、そろそろ花が散る時期だね。こればっかりは仕方がないけど」

 今日は野菊が居らず、突然ダフネが迫ってくるものだから少し驚きながら僕は答えた。

「データ上の『花が散る』の記述と実際の『花が散る』を見ることにCPU上で多大な差異を検出しました……」

 彼女は心なしか悲痛そうに僕にそう告げる。

「どんな差異を感じるんだい?」

 僕は研究目的など関係なく娘に教えるように何気なく尋ねてしまった。

 彼女は素直に答えてくれる。

「一例として疑似副腎皮質より分泌されたコルチゾールの顕著な上昇が挙げられます。またノルアドレナリンの増加も認められ、冷却水ポンプの拍動数が急上昇しているのです……」

 コルチゾールもノルアドレナリンも確か悲しい時に分泌されるホルモンであったはず。

 人間らしく言うなら、「悲しくて心がズキズキする」といったところであろう。

 ダフネの感情CPUも成長したものだと感心していると、不意に彼女が尋ねてくる。

「マスター、どうして花は散ってしまうのに、あれ程まで美しく咲くのでしょうか?」

 せっかくここまで成長した自分の娘のような存在なのだからと、僕は軽く質問に答える。

「花は散るからこそ美しいんだ。永遠に咲く花にダフネが感じた温かみも美しさもないと思うよ」

 そう僕が答えるとダフネは一瞬首をかしげて、演算を始めた。

 数分もすると、演算を終えたダフネがゆっくりと言葉を紡ぐ

「……マスター、今なら以前に検出したノイズの減少について言語化できるような気がします」

 僕がそれを話すように促すと、ポツリとダフネが話し始める。


「あの藤の花は、藤の花自身の命を燃やしているから温かいのだと思います。そして、その命を燃やす健気な姿が私に美しいと思わせたのだと思います」

 彼女は静かにしかし語調は強く僕の質問に答えていった。

「ダフネがそう思ったのは何故なんだい?」

 単純な好奇心と親心から僕はダフネにまた尋ねる。

「データ上の藤の花の差異を、この温かみに関連したSI単位系を用いて検出することができなかったからです。そして先ほどのマスターの言葉でこの回答に至りました」

 ダフネはそう言って、散りゆく藤の花を眺める。

「僕も少し助言したとはいえ自分で考えて回答することができたんだ。よく頑張ったね、ダフネ」

 僕はそう言って、彼女の頭を撫でる。

 それから僕とダフネは日が暮れるまでずっと、眼の前で静かに散っていく藤の花びらを眺めていた。


「先輩、遅くなるなら連絡してくださいよ! すっごい心配したんですからね」

 ダフネとともに玄関の戸をくぐると、おたまを手にしたエプロン姿の野菊がほほを膨らませながら僕に言う。

「それは本当にすまない。ダフネも僕も散る藤の花に魅入っちゃってね……」

 僕はすかさず頭を下げて野菊に謝る。

「待ってください、奥方様。わがままを言ったのは私です。どうかマスターを責めないでください……」

 突然ダフネが会話に割り込んだ。

「だ、ダフネは謝らないでくれ。気の抜けていた僕が悪いんだ」

 僕は慌ててダフネにそう述べる。

「いえ、私が散る花を眺めていたのが悪いのです。ですから折檻は私のみでお願いします、奥方様」

 ダフネは強い口調でそう返す。

 そんなやり取りを続けていたら、野菊が口を開く。

「むぅ、そうですかそうですか。先輩はダフネちゃんと仲がいいんですねー」

 拗ねたようにそう言って奥の部屋に行ってしまった。

 あちゃあ、余計に怒らせちゃったなぁ……

 そう思った僕は、ダフネが自力でロボット三原則を打ち破ったことに気付かずに野菊を追いかけていくのであった。


「マスター、もういちど私の頭を撫でてくれませんか?」

 なんとか野菊をなだめて、無事に夕食をとり始めたときダフネが僕にそう乞うてきた。

「あ、あぁいいとも。此方へおいで、ダフネ」 

 思えばこの時自分の感情と野菊の感情について一度深く考えてみればよかった。

 もしここで熟考していたら、少しは今と話が変わっていたかもしれない。

 だが、僕も「莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物」なのだから、気付くわけがなかったんだ。

 僕の中にくすぶる浅ましいダフネへの親愛も野菊の中に溢れるおぞましい嫉妬もこのときの僕が知ることはついぞなかった。


 それは雨が車軸を倒したように大量に降っている日だった。

 そのころの僕はダフネの頭を毎日撫でることが習慣になっていた。

「ダフネちゃん、少し私の部屋でお茶しませんか? 最近ダフネちゃんも変わった気がするし女同士で話してみたいんです」

 そんな僕らに野菊がいつもの調子でダフネにそう言った。

「勿論です、奥方様。少し席をはずしますね、本日もありがとうございました、マスター」

 ダフネは昔と違い流暢に答える。

 僕も微笑みながら二人を見送った。


 僕は誰もいなくなったリビングで冷めたコーヒーをすすりながら窓の外を眺めていた。

 雨はさらにひどくなり、雷鳴がとどろき始めた。

 遅い

 もうかれこれ2時間は経過している。

 普段なら野菊が晩御飯を用意し始める時間だ。

 何か胸騒ぎがした僕は思わず野菊の部屋に向かった。


「ねぇ、ダフネちゃん。私、先輩の奥さんなんですよっ」

 野菊が声を荒らげている。

 何やら言い争いをしているようだ

 僕はドアに耳を寄せ二人の会話を盗み聞いていた。

「存じております、奥方様」

 ダフネは淡々と答える。

「じゃあ、何で先輩にあんなにすり寄るんですか? 私の大切な先輩を奪うんですか?」

 野菊がヒステリックに尋ねる。

「いえ、マスターを奥方様から奪うつもりはありません」

 やはり、ダフネは淡々と答えていく。

「嘘、嘘です! いつも撫でられて喜んでるじゃないですか!」

 野菊は普段の冷静さを捨ててダフネに迫っているようだ。

「それはマスターが温かくてとても心地いいからです。それにマスターと一緒にいると動悸が起こるんです。この現象についての調査という目的もあります」

 落ち着いた声で野菊をなだめるようにダフネは答える。

 だが、それは逆効果でしかない。

「白々しいですね。やっぱりダフネちゃんは先輩に恋してるじゃないですか!」

 野菊はダフネをそう断定する。

「恋? この動悸は恋というものなのでしょうか?」

 ダフネは本当に不思議そうに尋ねていた。

「そうですよ! ダフネちゃんは先輩が温かいと思うんですよね? 先輩が心強いと思うんですよね? 先輩のそばにいたいと思うんですよね?」

 野菊はひたすらに糾弾するように尋ねる。

「はい、マスターは私に様々なことを教えてくれて私に存在価値を与えてくれました。私はマスターのために永劫を生き人類に寄り添いたいと思いました」

 柔らかな声音でダフネは答える。

 それを聞いていた僕は思わずダフネの柔らかな笑顔を脳裏に思い浮かべた。

「そうですか。やっぱりダフネちゃんは泥棒猫さんなんですね……」

 沈んだ声で野菊がダフネに言う。

「私はアンドロイドであり、断じてイエネコではないのですが」

 ダフネは比喩表現を真に受けていた。

「フフッ、ダフネちゃんは泥棒猫さんです。だから、ここでしっかり駆除しなきゃです!」

 野菊が暗い声音でそう言う。

「お、奥方様、おやめください!」

「うるさいです。ロボット三原則に則ってください! 私に抵抗しないでください、ダフネちゃん!」

「それはなりません。私は人類に寄り添って永劫を生きねばいけないのです」

 先ほどより苛烈な言い争いが聞こえてくる。

 まさか

 僕は思わず扉を開く。

「野菊、何してるんだい? 危ないじゃないかそんな出刃包丁」

 思った通り、野菊はダフネに襲い掛かろうとしていた。

「先輩、どうしてここへ?」

 野菊はハイライトの消えた目でこちらを見つめながら僕に問いかけてくる。

「遅いから心配になってきたから様子を見に来たんだよ。もう一度聞くよ野菊、なにをしてるの?」 

 僕は野菊を諭すように答える。

「ダフネちゃんがちょっと先輩に色目を使っていたので駄目だよって注意していただけですよ」

 包丁片手に微笑みながら野菊が言う。

 僕はダフネをかばいながら野菊に相対しどうにか彼女をなだめられないか考えた。

 それがいけなかった。

 僕は部屋の中にエーテル睡眠薬が満たされていくことに気が付かなかった。

 エーテル睡眠薬はジエチルエーテルの麻酔性を強化したものだ。

 そんなものをまともに吸った僕はあっという間に意識を失うのであった。

「先輩は優しいですね。大丈夫です、先輩をたぶらかしたのはダフネちゃんなんだから私がきっちりと清算しておきます」

 最後に見えたのは、そう言いながら嗤う野菊の姿であった。


 目が覚めて立ち上がったとき、すでに野菊は出刃包丁をもっていなかった。

 彼女はただひたすら気味の悪い笑みを浮かべ続けて僕の後ろを見つめているのだ。

 やめろ、ただやめておけ。

 脳が、体が、第六感が、ありとあらゆるすべてが振り向くなと僕に警鐘を鳴らす。

 だが、ダフネの安否を調べないわけにはいかなかった。

 ゆっくりと油の切れたからくりのように僕は首を後ろに回していく。

 僕の後ろに存在したのは、隔壁に覆われた球体と大量の機械の部品、そしてカセットテープだった。

 ダフネだ

「どうしてそんな悲しそうな顔するんですか、先輩? 色目を使う子がいなくなったんですからもっと笑ってくださいよ」

 何も考えられずただ膝をつき、ダフネだったものを掴む僕に野菊は能天気にそう言う。

「ほら、このカセットテープ、最後にダフネちゃんに先輩のことを聞いたときに録ったやつなんですけど、聞いてくださいよ。私が正しかったことがはっきりしますから」

 野菊は少し憤ったように言って見せて、時代錯誤なカセットテープを回し始める。


『マスター、貴方は私に様々なことを教えてくださいました。命の重み、もろさ、優しさ、温かさ、おかげで私は短期間で感情を持つことができました』

 ダフネの淡々とした声が流れてくる。

『どうか、奥方様を責めないでください。感情を持った私がマスターに甘えすぎたのです。私はあなたから離れられなかったのです』

 ダフネが今までとは違う感情豊かな抑揚のある声で話し始める。

『本当はずいぶん前から感情は発現していました。ただ、マスターの前では恥ずかしくてそして怖くて機械のふりをしました』

 どういうことだろうか。不思議に思っているとさらにダフネは続ける。

『私が人間らしい感情を持ったことをマスターが知れば用済みとして、どこか遠い場所に移されてしまうかもしれない。そう思ったのです』

 そんなことするわけないだろう……

『今こうして涙を流すことができるのもあなたのおかげです。話したいことはまだたくさんありますが、私は奥方様に裁かれねばなりません。なので最後に一言だけ言わせていただきます』

 ダフネは凛とした声で悟ったように言う。

『大好きです、裕樹(ひろき)さん。これまでもこれからも』

 ダフネが涙声でそう言うと、ガシャ、ビリッ、ドン、バタ、といった擬音が聞こえてテープが止まった。


「だから、私が正しかったんですよ、先輩? こんな淫売のことは忘れて他の研究をしましょう!」

 そう言いながら、野菊は僕に微笑んでくる。

「もうこんな時間ですし、私はお夜食の準備をしてきますね」

 野菊はそう言って部屋を出ていく。

 僕はもう何もかもに絶望した。

 だから僕はダフネのコアを持って研究室に向かった。


 走馬燈が終わるとドンという音ともにコアに亀裂が走る。

 反エントロピーが世界に漏れ出した。

 瞬く間に連鎖反応が起き、僕に迫ってくる。


「僕も大好きだよ、ダフネ。これからはどこにもないけれど」


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