小説メディアの官能的表現について
ポルノ小説に関するエッセーです。気分を害する表現が出てくるかもしれませので、自己責任でお読みください。
初出:令和2年2月23日
昨年末、拙作SF小説「ぼくはいまここにいる!」を「小説家になろう」からミッドナイトノベルズに移転しました。
実は「なろう」運営局様から、この作品には18禁の性的描写があるとのご指摘を受け、このような措置となりました。
「ぼくはいまここにいる!」はポイント数、アクセス数がそれほど多くないものの、自分の「なろう」投稿作品では最高傑作と自負していただけに、ミッドナイトノベルズへの移転は断腸の思いがありました。
ミクシーの「なろう」コミュニティーやフェースブックの「なろう」友達に、”泣き言”をつらつら書き込んだところ、同じような体験をした方から慰めのコメントをいただきました。
みなさんも同様の”筆禍”を経験したことはありますか?
ここでは、「なろう」内でどのような表現を規制すべきかどうかといった議論ではなく、小説という表現形式における官能表現について、日ごろ考えていることを述べたいと思います。
1.『悪徳の栄え』と『チャタレー夫人の恋人』
ところで、わいせつ罪による筆禍の文学作品というと、私はマルキ・ド・サド『悪徳の栄え』(澁澤龍彦 訳)とD・H・ロレンス『チャタレー夫人の恋人』(伊藤整 訳)の二つを思い浮かべます。
サド、ロレンス、澁澤龍彦、伊藤整......。
自分のミッドナイトノベルズ移転問題にかこつけて、このような文豪クラスの大先生を引き合いに出すとはおこがましい気もしますが、それはさておき、『悪徳の栄え』と『チャタレー夫人の恋人』は文字媒体で書かれたポルノグラフィー、つまりポルノ小説としては、正反対のベクトルを持った作品だと思います。
とは言え、実は私はこの二つの作品を読んだわけでなく、図書館でほんの一部分を立ち読みした程度です。もし、全部読んた方がいましたら感想などでご意見をお書きいただけたら幸いです。
私が立ち読みしたかぎりでは、ポルノ小説として『悪徳の栄え』は”ヌケない”小説、『チャタレー夫人の恋人』は”ヌケる”小説なのです。
だからと言って『チャタレー夫人の恋人』の方だけわいせつ罪で取り締まるべきだと主張したいのではありません。法的規制に関する私の意見は、できるだけ表現の自由を尊重し、両方とも無罪にすべきだというものですが、ここでは規制の是非に関しては議論しません。
サドの作品は、露骨な性的描写はあるものの、思想小説であり、政治批判や社会批判をテーマにした小説で、エロス自体にあまり作者の関心はなかったのではないかと思います。
サドは今日で言えば、陰謀論ジャーナリストに近い立ち位置の作家だったのではないでしょうか。時代的にフランス革命前後に活躍した作家ですが、彼が批判したのは国家というよりキリスト教の教会そのものです。
SMのサディズムの語源になったサド。彼は私生活でもSMプレイに興じる変態として知られるようですが、変態が書いた作品だから、彼が書いたキリスト教会の腐敗や批判は信頼できない。こういうロジックで、体制側がサドの思想を意図的に貶めたのでは。そんなふうにも邪推してしまいます。
一方、『チャタレー夫人の恋人』は正統的な?ポルノ小説です。
たとえばひそかに思いを寄せる異性とたまたま手と手が触れあったときのヒロインのときめきを、流麗な文章で描写します。
文字情報が読者に喚起するイマジネーションで、巧みにエロスを表現しているのです。
ポルノ小説、官能小説、耽美派......。様々な呼称がありますが、これらのジャンルは直接、間接を問わず、『チャタレー夫人の恋人』の系譜から派生した小説と思われます。
2.官能文学の読書遍歴と綺羅光
90年代初めごろだったと思いますが、近所のコンビニの文庫売り場にフランス書院文庫が目立つところに置いてありました。
一人暮らしだった私は、日用品を買うついでに、フランス書院文庫をよく購入したものです。今にして思えば私がよく買うから、店の方でもフランス書院文庫の新刊を常時並べていたのかもしれません。
私は当時から文学青年ではありましたが、それまでポルノ小説は読んだことがありませんでした。
ちょうどアダルトビデオは黎明期。VHSのそれは画質は悪く、モザイクも過剰で、今とは違いAV女優さんも綺麗な人が少なかったと思います。
こうしたことからアダルトビデオに飲み込まれることなく、あるいは相乗効果的に当時はフランス書院文庫など、ポルノ小説が売れる土壌があったのではないかと思います。
本屋でなく、コンビニやキオスクで文庫本を販売するという弘済会の流通ルートが当時開通したことも、少なからずフランス書院文庫の売り上げを後押ししたのかもしれません。
フランス書院文庫のポルノ作家たちは概して文章がうまいですが、とりわけ私が注目した作家は、綺羅光です。
綺羅光は小説の文章力、描写力、構成力がすぐれており、ポルノ作家としてでなく、作家としての基礎的実力が、平均的な中間小説の作家より高いと思いました。
これだけの実力者が、SF、ミステリー、時代小説、あるいは純文学を書かず、ポルノ小説を自分の創作ジャンルとして選んだのは、さながらAKB48のトップアイドルがいきなり裏ビデオに出演してしまったような、”反則”に思えました。それと同時に、この綺羅光という作家は別のペンネームで中間小説か純文学を書いているに違いない、という仮説を私は思いつきました。
別の「なろう」エッセーで、渡辺淳一=綺羅光説を提唱したところ、熱心な綺羅ファンから否定されました。綺羅文学では、どんなに凌辱されても純潔さを失わない永遠のヒロインが描かれており、これは他の作家の作品には見られない、とのこと。
日本ポルノ文学の古典『花と蛇』の作者、団鬼六が商業誌にデビューしたときも、彼の正体は有名な既存の作家ではないかといった、似たような仮説を唱える人がいたようです。
しかしながら団鬼六の正体は、すぐれたポルノ作家であって、別の分野の有名作家でないということで今日では落ち着いています。
それと同様、綺羅光の正体も、すぐれたポルノ作家であって、それ以上でも以下でもないのかもしれません。
3.文字情報としての小説メディア
映画、テレビドラマ、漫画、アニメ、ゲーム。これらはストーリー性のある物語芸術のジャンルとして、小説のライバルと言えます。
この中で文字情報を扱う小説は、唯一視覚情報が欠如しており、読者が自らの想像力で小説の文字情報から視覚的映像を脳内で生成して味わう物語芸術です。
ネットでは小説オワコン説をよく目にしますが、その根拠は視覚情報が欠如した小説が、映画、テレビドラマ、漫画、アニメ、ゲームに勝てるわけがない、といった内容が多いと思います。
とりわけ官能的な表現に視覚情報が欠如しているのは、圧倒的に不利と思われます。
しかしながら、小説というメディアでしか表現できないもの、小説で表現するのが最も適したものがあり、これが小説オワコン説に対する最大の反論になると私は信じます。
それが一体何なのか、と問われると私は即答できません。
ポルノ小説では文字情報が読者に喚起するイマジネーションで読者をイカせますが、こうした表現に中に小説ならではの表現のヒントが隠されているのかもしれません。
(了)
本エッセーで紹介したミッドナイトノベルズを紹介します。18歳未満の方はご遠慮ください。
作品名:ぼくはいまここにいる!
筆名 :日高見髄彦
URL:https://novel18.syosetu.com/n3636fx/