絶対的敗北少女
彼らが見ているのは。
入江杏里であって、「私」ではない。
今年の夏は異常気象みたい。
三十五度を超えるような殺人的な太陽光線が地表に降り注いだかと思えば、バケツをひっくり返したような豪雨。
あまりにも振れ幅が極端すぎて、不快感はうなぎ登り。
むしむし、じめじめとした湿気の多さで、身体中から汗が染み出す。
そんな嫌な季節だというのに、私に逢いたいと願う人々がいる。握手したいとやって来る人がいる。少なくとも百人以上。
無数の雨粒に遮られた、白いテントの下で、私──入江杏里は、雨ガッパを着て、雨に打たれながら律儀に列をなしているファンと、握手会をしている。
銃弾のように降り注ぐ激しい雨の中に立つ彼らはまるで滝行の修行僧のようだ。
ヒエッヒエになったファンの手に、私の手が触れる。右手と左手で、やさしく、包み込む。相手の手が、しわくちゃになっていても、毛深くても、同じように。
「おつかれさま。待っててくれて、ありがと。さむかったよね。待たせてごめんね」
同じ言葉を。
同じ息遣いで。
同じ目線で。
同じ気持ちで。
誰にも等距離に。
私は──言葉を掛ける。
「いえ!あんりんの手に触れられるだけで!ワタクシ!イマココで倒れても悔いはありません!」
今日最後のファンは、感極まったような口調で、そんなことを言う。その表情は本当に幸せそうだ。
「倒れられたらあんりん、泣くからやめて。次また元気な姿、見せてね」
半分くらいは本音の言葉を、紡ぐ。
そりゃあ倒れられたら運営さんが困るし、大切なファンの一人が風邪ひいてもらっちゃあ困るし。
私のせいだと言われたらもっと困るから。
涙は──零れるだろうか。
「ウヒョォおおおっ!ハイッ!かたじけのうこざる!では拙者これにて!」
「またね」
後ずさりしながら出口に向かってフェードアウトしていく男性──チェック柄のシャツが目立つ、いかにもオタクっぽい人に、小さく手を振る。
私は心から、笑えているだろうか。
笑って、笑顔で、見送れているだろうか。
「私なんかの、なにがいいんだろう」
ぽつり、ひとり残された空間で、私は呟く。
私なんかの、なにが彼らを喜ばせるのだろう。なにが彼らをここに磁石のように、吸い寄せるのだろう。こんな何者もを拒むような、ひどい雨なのに。
甘ったるい声か。
艶のある黒髪か。
くりくりした瞳か。
少し厚みのある紅い唇か。
細く白い雪のような手か。
清純派アイドルという看板か。
全部本物で、全部嘘。
彼らは知らない。
私がとっくの昔に、薄汚れたことを。
その手が汚れていることを。
***
「舐めろ」
私は、地べたに這いつくばって、差し出されたトレイの牛乳を舐め始める。
ぴちゃぴちゃ。
ぴちゃぴちゃ。
舌を出し、左右にわざと大きく振って、牛乳を舐めとっていく。自慢の黒髪に、フローリングの床に、ほのかに色づいている頬に、白い斑点がまとわりつく。
今の私は──犬。「飲む」なんて人間のようなやり方を、彼は認めないから。だから、人間の尊厳なんて捨てて、犬になる。
グラビア誌でもまだ数度しか見せたことのない柔肌を晒す。乳房を晒す。全裸で一糸まとわぬ姿で、四つんばいになって、犬の真似事。ご丁寧に、首輪に繋がれているから、逃げることも、反抗も、できやしない。最も、私にはもうそんな気力も、失せた。
彼は、スマートフォンをこちらに向け、無表情で映像を撮っている。時折俯瞰したり、床に寝そべったりして、いろんな角度から私を撮っている。でも、彼の顔には、愉悦も、汚い笑顔も、ない。能面のような、無機質で、無表情な顔。
「止め」
そう言われて、私は牛乳を舐めることを中断する。ちなみに、抵抗したら殴られる。お腹を。
顔を上げて、口をあんぐり開けて、私は彼を見上げる。
彼はスマートフォンを机に置くと、私を抱き寄せる。
彼を毛づくろいする時間。
彼のシャツのボタンを外し、メガネを外し、そうやって、彼を私と同じところまで下ろす。そして、私は手を白く汚す。口を白く泡立たせる。清純派アイドルの仮面を投げ捨てる。
そして、私と彼は、溶け合った。
微睡みの中で、私は彼に一度だけ、質問した。もうこれまで、何度も何度も確認のように繰り返してきた、質問。
「どうして、入江杏里を、こんな目に合わせるの?」
彼は行為の昂り以外で、そのとき初めて表情を見せるのだ。ひどく苦いものを飲んだような、そんな歪んだ顔を。
そしてこう答える。
「僕の妹を死に追いやったからだ」
***
私が高校を中退してアイドルになる前のこと。ちょうど今のような季節に、一人の友達が自殺した。
滝笠詩織。
彼女の自殺の原因は──いじめ。
無視や彼女の私物が無くなったり、壊されたりするのは日常茶飯事。SNSのグループには入退会を繰り返され、着替え中の写真を男子のグループに送りつけられ、そして非通知で嫌がらせのワンコール。画面の中で、画面の向こうで、画面の外で、彼女は嬲られ、貶められ、嗤われ、そしてついに──壊れた。
そして一学期の終わりに、彼女は自殺した。高校の裏山にある、今はもう誰も使っていない廃屋で、縄と永遠のお友達になった。
だが、彼女は遺書を残していた。
その遺書には、彼女が恨みに恨んだ人物の名前がひとつ、書かれていた。
入山杏里。私だった。
綺麗な字を書く人だったのに、私の名前のところだけ、激しく歪んでいたらしい。ドス黒い負の情念をグリグリとねじ込むように、ひらがなで、「いりやまあんり」と一文字一文字、見るものを不安にさせるフォントで、書き残していたそうな。
そして彼女の死体と、遺書を発見したのが彼──滝笠翔太だった。
彼もまた、最愛の妹を奪われたことで、私を大いに恨んだ。
だから、彼なりに頭をひねって、私の元に復讐にやってきた。
彼が最初に私の元に現れたのは、滝笠詩織の死から五年の歳月が流れた頃だった。
握手会で、彼は遺書を見せ、私を脅した。
──罰を受け焼かれるか、その身体に罪の標を刻み続けるか──
***
蓋を閉ざして、忘れようと思っていたことだった。どのみち、「あの日」から逃げ続けてきた臆病者の私には、今さら罪を認めて贖罪する気にはならなかった。
だから私は、後者を選んだ。
清純派の仮面をつけて、人を欺く。誰かの白濁液が染み込んだ手で、私を天使だ何だと崇め奉るひとと握手をする。邪悪な過去に蓋をして、人間を捨てた裏の顔を持ちながら、平然と笑顔を振りまいて、表の世界を素知らぬ顔で歩く。彼と溶け合いながら、罪の数を無理やり数え続ける。
この手が汚れていると世間に知れ渡った日には、きっと、彼女と同じような末路を辿るのだろう。いや、彼女よりも苛烈かもしれない。
期待の大きさは、失望の大きさと等しいから。
でもね──
「ごめんね」
私は、そんな汚れた手で、彼の頬を撫でる。犬の分際で、と彼は言わなかった。そのまま、受け入れた。
でも、彼はきっと、知らないし、気づかない。
──ごめんね──
***
滝笠詩織へのいじめの発端。
それは、ほんの些細なことからだった。
私と滝笠詩織は、もともと仲が良かった。同じダンス部に所属して、一緒に汗を流す友達だった。休日は映画を観に行ったり、タピオカを飲みに行ったりした。
でも、ある日の休日、彼女と約束をしていたのに、彼女はついに現れなかった。
そのあと、別の友達から、彼女が男友達と歩いているのを目撃したと聞いた。
私との約束よりも男のほうが大事だったの?
私は思わず、別の友達のグループで、滝笠詩織の愚痴を言った。ほんのすこし、腹が立っただけだった。
でも、舌禍は私の思惑を超えた。
友達たちは、滝笠詩織を悪し様に言った。 そしてその波は、クラスの中でもカースト上位にいた、水鳴メイという女子の耳にまで届いたのだった。
水鳴メイは、オモチャを探していた。壊しがいのある、人間というオモチャ。
そこに降って湧いたような滝笠詩織の悪行は、水鳴メイにとって福音だったのだろう。
そうして、いじめが始まり、そして追い込まれた滝笠詩織は自殺する。
否。
水鳴メイが、殺した。
私がやったように、見せかけて。
水鳴メイは、狡猾だった。
裏でいじめを焚きつけるかと思いきや、こっそり滝笠詩織と接触して、慰めていた。
虐める側と慰める側。
そんな二面性が、彼女の本性だった。
そして、あらゆる方角から、私が黒幕であるように、滝笠詩織に吹き込み続けた。それを信じた滝笠詩織は、私を大いに恨んだ、というわけだ。しかも、発端となった約束の反故も、実は滝笠詩織が予定を一日間違えて記憶していたという、些細なミスだった。
滝笠詩織のなかでは、約束は蔑ろにされていたわけではなかったのだ。
こんな後味の悪すぎる真実を知った時には、既に遅すぎた。
水鳴メイは、わざわざこの事実を私に伝え、そして電車に飛び込んで自殺した。
「最高の幸福をアゲル」
水鳴メイの最期の言葉──
主犯も、被害者も、既に亡く。
罪人と復讐者だけが、生き残る。
罪人は真実を明かせず。
復讐者は間違った解を導く。
雨は、この罪だけは洗い流してはくれないみたい。
だから。だから。だから。
──罪を罪で、洗い流そう。
ふふっ。
まだ、私は、笑えるみたい。
雨が、降り続いている。
(了)
この物語は創作です。
実在の人物、団体、固有名詞等と名称が仮に似ているようなことがあっても、一切関係のないことをここにおことわりしておきます。
水鳴メイの真意や如何に。