不治の呪縛
「残念ながら手遅れです──奥さんは、決して治ることのない『忘却』の病にかかっている」
端的な宣告だった。
「……」
誤解の余地がないその言葉を、彼は黙して受け止める。
「……そう、ですか」
自分の身に降りかかるできごとに現実感がないのか、どこか呆然と妻は言葉を洩らす。
「……え?」
そして医師が突然に頓狂な声をあげて、夫妻の目は自然とそちらへ向かった。訝しげな視線を受けて我に返ったのか、少し慌てた調子で宣告を続ける。
「……ええ、はい。あと二ヶ月ちょうどで、奥さんの命は尽きるでしょう」
「ちょうど、二ヶ月ですか?」
「はい──ちょうど、です」
ためらいなく断言するその口ぶりは、まるで一切の曖昧さすらも残したくないかのようで。彼は気圧されて口を閉ざしてしまう。
「私の『天恵』のことはおふたりもご存知だと思いますが──」
『天恵』。それは神が人々に授けているという加護であり、幸運にもそれを得た者は必ず人並み外れた才能を見せるとの伝承も残っている。彼らがこの医師を頼った理由のひとつだ。
「──奥さんの病状は『忘却』。それが意味するところは不明ですが、しかし余命には誤診の余地がありません。二ヶ月後に奥さんは命を落とすことになります。確実に」
医師が有する『天恵』は『神託』──神の言葉を直接耳にできるという加護の中でも、医療に特化しているという噂だ。つまり、その診断は必ず当たる。他の可能性をすべて否定して、医師の宣告が確定した未来になる。
当然、その信頼性を求める患者からの人気は高い。にもかかわらず医師はひと月に一日しか診療を受けつけていないため、予約の殺到ぶりは凄まじかった。
「『忘却』という病状についてはそれ以上の説明はありませんが、おそらく奥さんは記憶を失っていくのではないかと思います。死期がはっきりしていることから、症状が少しずつ進行していく可能性も高いです」
少しずつ。
楽しかったこと、つらかったこと、その記憶が少しずつ、少しずつ、喪われて──そして死ぬ。
それが避けられない運命なのだろうか。そう考えたところで、彼は気づいてしまった。現時点までの医師の言葉。その中に、治療に関する情報は何もなかった。
「ということは──」
「残念ですが」
彼の発話を遮るように。
医師は、はっきりとそれを告げた。
「手の施しようがありません」
──申しわけありません、と。
夫婦の運命を閉ざす言葉だった。
◇◆
そして。
旅をしよう、と彼女は言った。
◇◆
これが最後だというのなら。
すべて忘れてしまうのなら。
その前にたくさんの楽しい思い出を残しておきたい。
この世界に未練という名の忘れものを残したくない。
そんな彼女の言葉を、彼が否定できるはずもなかった。
幸いなことに、なんて形容は笑いごとでしかないけれど、彼らふたりの勤務態度はわりと真面目なものだった。国仕えの騎士である彼女も、学者である彼も、一ヶ月程度の休暇申請はあっさりと認められた。事情は説明していない。しかし珍しいことであることには疑いなく、怪訝そうな表情や疑問を向けられた。面倒を避けるため、曖昧に流してしまったけれど。
準備をほどほどに済ませ、旅立ちの挨拶を近所にするようなこともなく出立した。行動の自由度と単純な速度を理由に、馬一頭での旅である。同じ鞍に並んで座って馬を走らせる、それだけで童心に返ったような気分がした。
彼も妻も、まとまった休みをとらず働き続けて十年近い。騎士の役目はおいそれと休めるようなものでもなかったし、そもそもふたりは休息に向かない気性をしていた。わざわざ休む理由もないのだから、と職場に向かう毎日だ。興味のある観光地などがないわけではなく、だからといって今日行く理由もなく。仕事漬けで夫婦の会話も多くはなかったけれど、その程度で信頼が揺らぎはしなかった。
その空白を埋めるようにして、ふたりは言葉を交わし続けた。なにせ話題は十年分だ。勤務中に面白かったこと、仕事仲間どうしの色恋沙汰、休日をひとりで過ごしていて感じたこと、さらには結婚以前の思い出話と、話すことが尽きるはずもない。とはいえ半日も話し続けると流石に疲れて、無言で馬を進める羽目になったりもしたけれど。
旅程は約一ヶ月とはいえ、その間で行き帰りする必要があるから意外と短い。そのため、訪れる観光地は景観重視になった。歴史の長さや過去の遺物で知られる街も数カ所足を運んだけれど、その日のうちに観光を終え、翌日には旅を続けた。基本的には経路として通過できる場所で、そのついでに景色を楽しめるところを多く選んだのだ。
普段王都でしか過ごしていない分、風景の美しさがいっそう心に染みる。鬱蒼と茂る木々の隙間から木洩れ陽が覗く森。滝と川と岩に彩られた深い渓谷。地域の境に沿って長々と続く遺跡。あるいは街自体の景観の美しさも捨てがたい。どの土地にもそれぞれの文化と歴史があり、通過点として早々に去らねばならないのが残念だった。
とはいえ、彼女の余命が短いことを忘れられるはずもない。
「──記憶っていうのは、いったいなんだろうか」
妻の病に思いを馳せて、自問するように呟いた日があった。
「記録とは似て非なる、記憶とは何か」
『忘却』という病の魔の手は、いまだ彼女に及んではいないように思われた。少なくとも日常生活に問題が生じない程度には、彼女の記憶は残っている。
「それは過去の存在を証明するものではないか、と僕は思うんだ」
馬の上、腕の中の彼女の温もりを感じながら彼は独白する。
「記録には偽造の余地があるけれど、記憶は違う。仮に記憶が捏造されたものでも、本人にとってそれは確かなことだ」
哲学的な思考に入りこんだ彼に何を言っても聞こえないと知ってか、妻は黙ってそれを聞いている。
「たとえ記録にどれほど反していても、それは自分が経験したことで、確かに存在したものだと──それでも信じられること。それが記憶なのではないか」
──そしてそれを、彼女は失おうとしている。
その残酷さを思って、彼も沈黙する。馬が地を蹴る音だけが響く。結局その日はふたりとも、町に着くまでは口を開くことがなかった。
ともあれ、それは稀なことである。彼らの旅路は、概ね楽しいものだった。それが偽りの、病魔という現実から逃避したが故のことであっても。それでも、それは楽しい旅だったのだ。
そうして、ついに彼らはたどり着く。王都を発ってからおよそ半月。想定していた最大の目的地であり、ふたりの旅の折り返し地点。
彼らがともに学生生活を過ごした母校に、帰り着いたのだった。
◇◆
変わらないな、と彼らは口を揃えていた。
卒業以来十数年ぶりの来訪である。当然生徒は総じて入れ替わっているし、教員にも別の職場に移った者が多い。にもかかわらず、その場所が彼らに与える印象は在校時代とほとんど同一のものだった。
学舎に残っていた数少ない知己の教員に挨拶し、思い出の教室やら講堂やらを見て回る。魔術的措置が施されているからか、校内の景観はどこまでも昔と同じだった。校舎という容れものはいつまでも変わらず、中身たる学生たちだけがただ移ろってゆくような、不思議な感慨に襲われる。青春を過ごした懐かしい場所が、青春を過ごした頃のままに残っていることが奇妙に感じられた。郷愁に身を任せるように足を運んでいく。いつの間に階段を昇ってきたのだろうか。気がつくと彼らは、屋上へ続く扉の前に立っていた。
鮮やかな紅色の夕陽が屋上を灼きつくしていた。
この学校に着いたのは正午を回ったあたりで、そこから陽が沈みかけるほどの時間を過ごしてしまったらしい。もともと今日は学内の施設に宿泊する予定だったから、支障は出ていない。などと考えている彼の傍を離れて、妻は屋上の一端へと歩み寄っていた。
「──ねえ、あなたは覚えてる?」
手すりにもたれながら、彼女が呟いた。夕陽に照らされたその髪が赤く染まっている。伏せられているその表情は、彼には伺えない。
「この場所で過ごしていた日々のこと。何も知らずに青春を謳歌していた昔のこと。将来への不安を押し殺しながら、自分にしかできないことを探していた頃のこと」
小さく、息を吸って。
「わたしがバケモノと呼ばれていたときのこと」
静かに、息を吐いて。
「バケモノと呼ばれていたわたしを、あなたが救ってくれたこと」
──覚えているよ、と彼は言った。
忘れられるはずもなく、けれど忘れてしまいたいような、痛々しくてくだらない、もはや過ぎ去った過去のことを。
今となっては、たいしたことのないような話だ。
彼女は天才だった。決して秀才や奇才では至ることのできない、真っ当で圧倒的な才覚の持ち主だった。神が彼女に与えた才能とは、つまりその魔力量である。並の人間とは決定的にかけ離れた莫大なそれは、彼女に周囲と隔絶させた実力をもたらしていた。単に魔力が多いという、ただそれだけのことがどうしようもなく絶対的な差異を生み出していた。
それで済んでいたら、よかったのかもしれない。
しかしそれだけでは済まなかった。
ごく普通の実力しかもたない凡才は、自分では手の届かない高みにいる天才を見上げて憧れる──それだけなら、凡才が自分の凡才ぶりに失望するだけで物語は終わったのに。
しかし実情は残酷だった。
中途半端な人間にとって。彼女に比べるとほんのわずかな、塵のような魔力量しかもたない人間にとって。しかしながら魔力の存在を感じとることはできてしまう人間にとって。
彼女がもつ絶大な魔力量、それをもつ彼女が身に纏う雰囲気は。
紛れもなく、怪物のそれだったのだ。
近くにいるだけで息が苦しくなる。直視するだけで気が狂いそうになる。言葉を聞いた途端に平伏してしまいたくなる。自分が矮小な存在だと否応なく理解させられる。
そんなことを言っていた、誰かのことを思い出す。
魔術とは、極論すれば思考によって世界を変革する力だ。これはかくあるものだ、と思いこむことで、実際にそれを、そういうものにしてしまう。当然、そのために必要な思いこみ、意志の力──つまり魔力は決して少なくない。普通の人間は、そういった意志の不足を、呪文や魔法陣を使って──思考に指向性を与えることで補っている。
しかしながら、彼女にとっては事情が異なるのだ。一般人の平均的な魔力量の数千倍、数万倍をも保有する彼女は、その魔力を湯水のように浪費することで平然と魔術を行使する。極端な話、ちょっと気に障ったから、程度の理由で火の手が上がりかねない。莫大な魔力をもつとは、そういうことだと考えられていた。
故に同級生にとって彼女は、単に規格外であるどころの相手ではなかった。怪物で、バケモノで、恐怖と畏怖の対象でしかなかった。平凡な生徒はもちろんのこと、ある程度以上に優れた実力者でさえ、教員すらも、彼女のことを怖れない者はいなかった。
その例外が彼だったのだ。
彼女が圧倒的な天才だったのに対して、彼は徹底的に非才だった。
魔力を一切保有しておらず、魔術を展開する能力も皆無。生来の好奇心から座学には秀でていたものの、魔法学園の生徒としては落第に限りなく近い。
そんな彼にとって──他者の魔力を感じとることすらまったく不得手な彼にとって彼女は、どこまでも、普通の女の子だった。
「そう言ってくれたことがどれほどわたしを救ってくれたのか、きっとあなたには一生伝わらない」
なぜなら、それは彼にとって当然のことにすぎなかったからだ。魔力の、魔術の存在自体を知っていても、それがどういう感覚をもたらすのかという実感をもたない彼は。凡才が抱く劣等感も、天才が感じた孤独も、怪物に引き起こされる恐怖も、決して理解できはしないから。
「魔術なんて、呪いにすぎないと思っていた」
隔絶した天才であることが、誰よりも彼女にそう思わせていた。
「誰もわたしを見てはくれない」
それは彼女の絶望だった。
「誰もわたしを知ってはくれない」
そんな絶望は、彼によってあっさりと覆された。
彼と出会って以来、彼女はだんだん良い方向へと変化していった。雰囲気が柔らかくなった。無意識のうちに放っていた魔力を抑えられるようになった。修練次第でそれが可能であることを、諦念で思考を閉ざしていた彼女は知らなかったのだ。
彼女が怖れられていた最大の理由が消えてしまえば、彼女を敬遠する傾向も自然と薄れた。その頃の彼女はいつも彼と行動をともにしていたけれど、それを見つめる周囲の視線は格段に優しいものになっていた。
なにせ、尋常でない魔力量が伴う威圧感さえ除いてしまえば彼女は単なる可憐な少女だ。魔術行使への優れた才覚はそのままだったけれど、そのことが否定的な印象を与えるはずもない。同学年における彼女の評判は、ごく普通の天才少女と同様だった。
「あなたのおかげでわたしは──恐るべきバケモノじゃなくって、ちょっとすごいだけの、かわいらしいばけものになれたんだ」
自称するのはちょっと照れるけど、と笑う彼女は、声に万感を宿している気がした。夕陽で緋色に輝く瞳は、彼にその真意を読ませない。しかしその眼差しは、彼女が十年以上も変わることなく抱き続けた感謝に彩られているように思えた。
「だからわたしは、絶対にあなたのことを忘れない」
その一言で雰囲気が一転した。つい先刻までの柔らかさは影を潜めて、彼女は鋭い覇気を纏っている。
「病気だか、『忘却』だか知らないけどさ」
それは過去ではなく、現在の彼女のものだ。孤独で空虚な、才能しかもっていなかった女学生とは違う。最愛の人を得て、努力と鍛錬と実戦を重ねた、王国が誇る騎士の戦意。
「そんなよくわからないやつに屈するわたしじゃないってことを」
彼のほうへと向き直った彼女は、夕陽に紅く染めあげられながら、挑戦的に笑う。
「わたしがばけものだってことを、思い知らせてあげるんだ」
それは宣戦布告だった。
目の前にいる彼にではなく、どこにいるのかもわからない、そもそも実体すら定かではない、運命とか、神様みたいなものに対しての。
そのために、ここへきたのだろうか。自らの病に抗おう、という決意を示すために。絶対に忘れたくない、という愛を誓うために。彼女という人間が彼を愛していたことを、刻みつけて呪うかのように。
そのことが、その決意が、その呪いが、わけもわからないくらいにうれしくて。
「ああ」
気がつくと彼は、その肢体を抱き締めていた。
「誓うよ」
それはまるで、姫の求婚に応える騎士のように。
「僕も絶対に──きみのことを忘れない」
互いの一生を呪縛する、永遠の契約が結ばれる光景だった。
◇◆
異変に気づいたのは帰路のことだった。
否──気づいたという表現は正確ではない。それが異変なのではないかと思うようになった、というべきだろうか。
往路とは異なる道筋で、往路以上に旅を楽しみながらも、不安が拭われることはなかった。
彼女の記憶が失われていない。
医師に宣告を告げられてから一ヶ月以上が経っている──余命が一ヶ月を切っている。それなのにいまだ、彼女の様子に異常はない。
異常のないことこそが異常だった。
もちろん、確かに医師は言っていた──『忘却』という病がどういう病状を生じるものなのかはわからない。次第に記憶が失われていくはずだというのも、蓋然性が高いと思われる推測にすぎない。彼女が体調に異常をきたしていないからといって、そのこと自体が異常であるわけではない。
しかし、である。
これは死期のはっきりしている病のはずだ。二ヶ月が生命に許された刻限で、そのときに必ず命が失われる。それは医師の『天恵』から明らかなことだ。
にもかかわらず。
二ヶ月後のその瞬間にまで、一切の変化が起こらないようなことがあるのだろうか。
彼も彼女も知らないような、尋常とは異なる病気であることは百も承知だ。しかし、なにひとつとして兆候を見せないまま突然に顕在化して人を殺めるというのは、病という言葉の印象にはそぐわない。
それはまるで、暗殺だとか、あるいは──。
思考が堂々巡りする間も旅は続き、そしてあっさりと終わりを告げる。出発してから一ヶ月と少し──病の刻限までは半月足らず。長いような短いような旅は幕を下ろし、彼らは王都へと帰還した。
出発前の予定では旅から戻ってきて以降は仕事に復帰するつもりだったが、気が変わった。そう妻や周囲に告げ、彼は休暇申請を引き延ばした。
目的は、これまでと違っている。
死を受け入れ、生を諦めて旅に出るのではなく。
死に抗い、生へ手を伸ばすために仕事を休んだ。
医師の宣告の信憑性を疑おうと、彼は決めていた。
◇◆
そして、その日は訪れた。
医師の診断から、ちょうど二ヶ月。直近の一ヶ月間で唯一、この医師が診断を受けつける日。彼は診療所へと足を運んでいた。
予約が半年先まで埋まっているとの噂すらある医師は、数日前に彼が行なった突然の予約申請をあっさりと受諾した。一度診察した者としての責任だからと言われればそれまでだが、医師にも自身の所業への自覚があるのだろうと彼は踏んでいた。
詳しく調査してみれば、医師の評判はそれほど良いものではなかった──否、むしろ黒い。『神託』という『天恵』の噂がひとり歩きしているだけのようなありさまで、実際に診断を受けた者からの印象はあまりよくない。
曰く、予言されたとおりの病状が現れなかった──というのである。
まさしく今の妻の状況そのままだったが、昔の患者たちはその先にも進んでいる。つまり、医師を訴えようとしたのだ──そして医師の応答は単純だった。
神託を受け、未来を知って行動したのなら、その結果として未来が変わるのは当然のことだ、と。
そう言われてしまえば反駁のしようもない。高い金を払って診察を受けた患者たちにとっては受け入れたくない主張だったが、的確な反論をする余地もない。仕方なく泣き寝入りしたのだと、そう語る者が少なからずいた。
そして彼もまた、先達と同様に診療所の戸を叩いている。しかしその目的は古人とは異なる。彼が聞きたいのは医師の謝罪ではなかった。
真実を。
妻が本当に死んでしまうのかどうかを、彼は知りたかった。
そのことを、そのままに医師へと告げた。賠償を要求するつもりも、評判を貶めるつもりもないと。本当のことを聞かせてほしい、と。
「──確かに」
長い沈黙の末に、重苦しく医師は口を開いた。
「奥さんが、決して治ることのない『忘却』の病に掛かっていると述べたこと──これは欺瞞でした」
「…………そう、ですか」
「『忘却』という病名を選んだのは、貴方がたの職業を伺ってのことです。騎士と学者なんて風変わりな組合せの顧客は初めてでしたから。せっかくなので、世にも稀であるような。それでいて、騎士という職務なら──たとえば遺跡の探索で未知に触れるなどして──想定できるような、『忘却』という名を告げることにしたのです」
それを耳にして湧きあがってくる感傷を、彼は決して言葉にできないように感じた。それは歓喜なのか。あるいは徒労なのか。有限の言葉では言い表せない、複雑な感情だった。それでも一言だけ、感想を振り絞るとしたら──
──よかった、と。
そんな安堵を吐き出そうとした彼を、睨みつけるようにして。
「ですが」
その喉元に刃を突きつけるように、医師は言った。
「奥さんの余命が二ヶ月ちょうどであったこと。これは疑いようのない、真実でした」
◇◆
その言葉を耳にして湧きあがってくる感情は、今度こそ決して言明できるはずもないものだった。混乱という言葉では軽すぎる。絶望というには昏すぎる。それ以前に、理解が及んですらいなかった。
「あの日──私が奥さんの病名を告げた直後に、動転したことを覚えていますか」
医師は言う。
『……え?』
覚えているかというその問いは、限りなく皮肉なものにも思えた。
「あの瞬間に私の身に起こったことを知れば、貴方にも私の感じた衝撃が理解できると思います」
信じられないかもしれませんが、と医師は苦笑して。
「偽物の病名を告げた途端に、それが本物の病気として奥さんを襲うことを『神託』された、なんて」
「…………」
それは、どういうことなのか。
理解の追いつかない様子を見て取ってか、医師は言葉を加える。
「つまり、私が奥さんの病名を──彼女の死を告げた、まさにその瞬間に、奥さんの運命が──彼女の死が確定したのです」
「────」
意味がわからなかった。何を言っているのかはわかる。何を言いたいのかはわかる。しかし、それがどういうことなのかがわからなかった。
「……無理もない反応ですね。私も最初は同様でした。一応こういうことではないか、という推測はできているのですが、それでも今も信じがたい。
──順を追って説明しましょう」
まず、と医師は指を立てた。
「奥さんにとって私の言葉は、神のお言葉に等しい絶対の真実だった。このことに留意が必要です」
──『神託』。医師が授かっている『天恵』。神の言葉を、直接拝受する力。
「私が奥さんに『忘却』という病名を告げたことで、彼女にとってそれは確定した未来になった──たとえそれが、嘘であっても」
それが第一に起きたことです、と医師は言う。
確かに、と彼は思う。この医師を彼に紹介したのは妻自身だ。就職から十年目の定期検診で、どの医師の診察を受けるかの指定はなかった。そこでこんな事態になるとは夫婦のどちらも想像さえしていなかったが、この診療所自体は妻の選択だった。
それは彼女が、医師の評判を──『神託』の威光を、信じていたからではないか。
「次に」
医師はそう言って、二本目の指を立てる。
「魔術とはどういうものなのか。今の状況を説明するために、そのことの理解が欠かせません」
「……どうして」
「魔術とは、思考によって世界を塗りかえる力です」
彼の疑問を遮って、医師は言葉を続ける。
「自分の思いこみを世界に押しつける力、と言ってもいい。世界とはかくあるものだと、世界に思いこませるわけです」
「…………」
「火が燃えている。風が吹いている。そう思いこむことで、現実に火や風を生じてしまう。それが魔術というものです。……これがどういうことか、わかりますか?」
彼は首を振った。生来魔力というもたない彼は、根本的に魔術に疎い。学者といっても、その専門分野は魔術と直接関係しない領域である。
「つまり──魔術というのは、この世にないものを現実にする力です。嘘を真に変える力です」
『魔術なんて、呪いみたいなものだと思っていた』
「本当は存在しないものを、存在するということにしてしまう力なのです」
「──まさか」
「そこで重要なのが、三つめの事実です」
三本目の指。
「これはあの日の私も知らないことでしたが──調べればすぐにわかりました。奥さんがもつ優れた魔力量のことです。王都直属の騎士団でも、魔力量だけなら最高峰だと言われるほどの」
「────」
「加えて四つめ」
四本目。
「これは推測ですし、不可欠な情報でもないのですが──奥さんは、その魔力量だけでなく、頭も非常によかったのではありませんか」
「……確かに」
「特に、頭の回転は極めて速かったはずです」
学生の頃、彼女から聞いた覚えがある。魔術戦において重要なのは、とにかく頭を回すことだと。状況を判断し、敵の動向を見極め、常に最善の一手を打ち続けることだと。彼女が魔術に優れているのは、魔力量だけでなくその操作の巧緻も一因だった。
「やはりそうでしたか──ですが、これはあくまで傍証です。他の三つ、極端な話最初のふたつだけでも、どういうことなのかは理解できたはず」
「……ええ」
認めたくない。
わかりたくない。
理解したくない。
しかしながら、否定することもできはしない。
「奥さんは、自身が『忘却』という名の病に掛かっているという虚構を現実だと信じた──そしてそう信じたことが、その虚構を、現実のものにしてしまったのです」
「…………、」
ありえない、という一言を、どうしても口に出すことができなかった。
なぜなら、ありえなくないからだ。
辻褄が合ってしまっているからだ。
医師の『神託』を信じた彼女は、それ故に『忘却』という嘘を信じた。彼女の莫大な魔力量と迅速な思考は、彼女が強く信じたことを魔術的に現実のものとしてしまった。
現実を、塗り替えてしまった。
世界とはかくあるものだと、思いこませてしまった。
「……でも」
でも、である。
それならば、実際のところ彼女が受けるであろう被害、『忘却』という病による症状とは、どういうものになるのだろう。
彼が今日医師を訪ねたのは、まさにそれを知るためだったのだ。
「ここで重要なのは、あくまで奥さんが信じていたのは『忘却』という言葉だけだったということです」
医師は言う。
「『忘却』という病がどういうものなのか──それこそが、奥さんの考えが最も強く影響したことでした。なぜなら、そんな病気は実際にはありはしないからです。奥さんがこの病について考えたことは、そのまま『忘却』が引き起こす病状となりうる。そこで問題となったのが、つまり」
そこで言葉を切ると、意味ありげな笑みを浮かべて。
「貴方への愛だった、というわけです」
『だからわたしは、絶対にあなたのことを忘れない』
「…………はは、」
『僕も絶対に──君のことを忘れない』
「……そういうことに、なるんですか」
声は、掠れていた。
医師が主張しようとしていることに、薄々感づいてしまっていた。
「『忘却』との名を冠しているからには、そこで何かが忘れ去られることは確実です。それは確定した運命のはず。奥さんがそのように、運命を書き換えたのですから」
そうなれば。
「奥さんが病を身に受けているのですから、影響は自然とその周辺に限定されるはずです。誰が『忘却』の影響を受けることになるのかといえば、奥さん自身か、奥さん以外。何が『忘却』されるのかといえば、それはおそらく、記憶でしょう」
しかし。
「同時にそれは、奥さんが望まないことでもあった。当然です。よほどひねくれた人間でもない限り、自分が誰かに忘れられることも、自分が誰かを忘れることも、決して望みはしないでしょう。奥さんはそこまで歪んだ性格ではないはずです」
しかし、
「『忘却』もまた、覆すことのできない運命だと、奥さんは信じていました。ここに葛藤が生まれます。奥さんは煩悶に苛まれたはずです──その類稀なる脳の回転速度をもって、一瞬のうちに」
そして。
「思考とは魔術です」
つまり。
「奥さんの思考の中では最終的に均衡が生まれたはずです。忘れてしまう、という運命と、忘れたくない、という意志との間に。なんらかのかたちでそれらが釣り合った結果、奥さんの運命は引き延ばされることになりました──二ヶ月後に」
それが、医師が推測したところの結論だった。
「そうして、私の『神託』は確定した未来として奥さんの余命を告げたわけです。刻限が二ヶ月後であったことは偶然でしょう。ですが、それが二ヶ月後ちょうどであったことは当然の帰結でした。なぜなら、それはまさにその瞬間決定されたことだったからです」
「…………」
「あるいは、もうひとつ別の可能性もありますが──」
こちらは流石に無理筋でしょう、と医師は言う。
「私の診察の時点で確定していたのは、あくまで奥さんの病だけだったのかもしれません。それは運命、あるいは呪いとして奥さんを襲い──そして奥さんは、それに抗い続けた」
──二ヶ月後まで、ずっと。
「その限界を私の『神託』が予言した、という可能性ですが……仮にそうだとすれば、奥さんは常に高密度の魔力を展開し続けていたと思われます。そのことを、奥さんの傍にいた貴方が見抜けないはずもありません」
「……あ、」
「どうかしましたか?」
気づいて、しまった。
もしそうだとしたら。
医師が言う、第二の可能性が正しければ。
妻を襲う病を──彼女の決死の抵抗を理解してやれなかったのだとしたら、それは。
彼が無能だったからだ。
彼が、一切の魔力を感じとれない非才だったからだ。
「……なんでもありません」
そのことを口にできるはずもなくて。
口にしたら自分の罪が決定的なものになる気がして、彼は医師の疑問に答えられなかった。
「そうですか──では話を続けますが」
ここで医師は目を伏せた。
「残念ながら、実際に奥さんを待ち受ける未来がどういうものなのかは断言できません」
「……それは、仕方がないでしょう。これほど混みあっていることを、妻の魔術的才能という一点のみで解釈できただけでも充分です」
「いえ、私が言いたいのはそういうことではなく。早く奥さんのもとへ向かったほうがいい、ということです」
「────」
お忘れかもしれませんが。
「あの日に私が言った二ヶ月後とは、まさしく今日のことなのですよ」
──その言葉を聞いた瞬間、彼は部屋を飛び出していた。
◇◆
街をひたすらに駆け抜けながら、意識の隅で彼は思考する。
──果たして、彼女の人生は幸せなものだったのだろうか。
学生時代の──彼と出会う以前の彼女なら、きっと答えは否だったはずだ。けれど、今の彼女は違っている。
彼女はきっと、幸せだった。
それは彼と出会ったからだ。
それは彼といられたからだ。
驕りではなく、純粋に彼はそう思う。
周囲のことに気を配る余裕もなく街を走り抜けながら、意識の一端で思考が展開する。
彼と彼女が出会ったことが、バケモノでしかなかった彼女の人生を、少しだけ幸せなものにしてやれた──そう彼は信じている。
それは彼の誇りだった。
それは彼の幸せだった。
そして今、その誇りは打ち砕かれようとしている。
彼が彼女を忘れてしまったら、きっと彼女は幸福でいられない。彼女が記憶を失くしてしまったら──それは、幸福だった彼女がいなくなるのと変わらないことだ。
誰が、何を忘れても。
彼女は幸福のままでいられない。
そのことを認めたくなくて、彼はただ駆けていた。
一瞬が永遠のようで、永遠が一瞬のようで。時間という概念が抜け落ちてしまったかのような錯覚。
瞬く間のうちに彼は自宅へと帰り着いていた。
違和感。
それを瞬時に捨て去って、家の中へと入りこむ。
絶句。
同時に、納得。
家の中を隅々まで確認して。つい先刻抱いた違和感を確かめるために玄関へと戻って。ついでに近所の人に軽く聞きこみをして。
完全に彼は、事態の全容を把握していた。
すでにもう、手遅れなのだと知りながら。
◆◇
思い出す。
『「忘却」の名を冠しているからには、そこで何かが忘れ去られることは確実です』
思い出す。
『だからわたしは、絶対にあなたのことを忘れない』
思い出す。
『僕も絶対に──君のことを忘れない』
背反しているように思える三つの事実。第一の命題が他の命題を一切拒絶しているかに思える状況。
そのすべてに矛盾しない解が少なくともひとつ存在していたことを、彼は身をもって理解していた。
家に帰ってきたとき──表札に、あるはずのものがなかった。
家の中に入ったとき──そこに、あるべきであるはずのものがなかった。
近所に聞きこみをしても、誰も、そのことを認識していなかった。
彼の妻が存在していた痕跡は、この世界に一切残っていなかった。
余すところなく完全に、世界から忘却されていた。
唯一の例外を除いて。
彼の記憶を除いて。
彼女は誰のことも忘れていない。彼女自身が忘れられる側だったからだ。
彼は彼女のことを忘れていない。彼以外のすべてがそれを忘れていても。
そして『忘却』という状況は、その名に嘘偽りなく完璧に成立している。
否定しようのない、抗えるはずのない、絶対的な結論だった。
彼女は幸せなままで、世界から──彼の前から消えていった。
どうしようもなく決定的で、完結している過去の存在として。
そうして彼女の未来は閉ざされ、眼前には彼だけの未来が開けている。これから先、数十年も何十年も、彼はひとりで生きていかなければならない。誰も知らない、彼女の記憶を抱えたままで。
──忘れたら、楽になるだろうか。
そんな思考が、脳裏をよぎる。
彼が彼女のことを忘れてしまえば、彼女を知る者は誰もいなくなる。周囲に理解されない思い出を抱えたまま生きていく必要なんてない。すべて忘れて、ありふれた人間として生きていけばいい。
それはきっと、簡単なことで。
『誰もわたしを見てはくれない』
でも。
『誰もわたしを知ってはくれない』
それは決して、できないことだった。
『たとえ記録にどれほど反していても、それは自分が経験したことで、確かに存在したものだと──それでも信じられること』
それが記憶だから。
確かに彼女は生きていたのだと、そう証明できるのは彼だけだから。
周囲からバケモノと疎まれ、誰にも理解されなかった彼女のことを、ただひとり認めてやれたのが彼だったから。
そして、何より。
『僕も絶対に──君のことを忘れない』
どうしようもない楔が、彼のことを縛りつけていたから。
彼女の存在が世界から完全に滅却されたことを、彼は思い知っている。表札に彼女の名前はなかった。家の中に、彼女と関連するものは、彼女が使っていたものは、何も残っていなかった。衣服も武具も、すべて余さず。近隣にとって彼の印象は、ただの独身男性だった。
もはや誰も、彼女のことを覚えていない。
彼女の髪の色も、彼女の瞳の色も、彼女の顔立ちも、彼女の美しさも、彼女が好んだ服装も、彼女が好んだ食べものも、彼女が嫌った食べものも、彼女が口ずさんだ詩も、彼女が好んでいた物語も、彼女が日々励んでいた仕事も、彼女が誰かを救っていたことも、彼女の強さも、彼女の弱さも、彼女の孤独も、彼女の希望も、彼女の絶望も、彼女の夢も。
彼女が彼を愛していたことも。
彼が彼女を愛していた理由も。
彼以外の誰も覚えていないのだ。
彼しか覚えていないことなのだ。
そんなもの、忘れてしまったほうがいい。周囲の無理解に苦しめられて、周囲との隔絶を理解して、それでも生きていく必要なんてない。
──そう思うことが、どうしてもできない。
「……まったく」
彼女が彼と親しくなったのは、彼女がバケモノだったからだ。
彼が彼女を忘れなかったのは、彼女がバケモノだったからだ。
「本当に、ひどいばけものだよ……」
家の前に棒立ちでうなだれて、雨も降っていないのに濡れていく足元を訝しみながら。彼はずっと、彼女のことを思っていた。
『だからわたしは、絶対にあなたのことを忘れない』
それは。
『僕も絶対──君のことを忘れない』
夕陽に染められた屋上で交わしたあの約束は。
どうしようもないくらいに甘美で、絶望的な。
決して解けることのない、永遠の呪縛だった。




