僕にカーネーションは似合わない。
大嫌いだ。
みんな浮かれやがって、何がそんなに楽しいんだ。
ニコニコニコニコ、ほんと馬鹿みたい。
その日はなんだかお腹のちょっと上らへんが窮屈になって痛い。
だから大嫌いなんだ。
僕は、【母の日】ってやつが。
気付けば僕には【母親】というやつがいなかった。
ソレが全員に均等に割り振られるべきものであることだと知ったのは、幼稚園に入った時。先生のある一言だった。
「明日は母の日です。お母さんの似顔絵を描いて、プレゼントしましょう!」
僕は困った。同時にハテナした。
お母さん? はて、僕のお母さんとは誰のことだろう。僕は誰の顔を描けばいいの?
クラスのお友達はみんな、各々の【お母さん】を画用紙の上に描いていく。
「ほら、君もお母さんの絵、描いて?」
先生が僕のそばに来て言った。
おかしなことに、僕の目には、先生の顔にぼんやりと靄がかかって見えていた。
口元だけが不敵に笑って僕を追い詰める。
ねえ、先生。
僕には【ママ】がいないんだ。
結局僕は、当たり障りなく、周囲のお友達が描いたような、【笑顔の女性】を描いた。
その日、それを持ち帰り、みんなおうちでお母さんに渡すのだという。
そこでまた僕はハテナした。
僕はこれを誰に渡せばいいんだろう?
「パパ、知ってる? 今日は【母の日】なんだって。幼稚園でママの似顔絵を描いたんだ」
迎えに来てくれたパパと手を繋ぎ歩く。
そんなことを言うと、随分と高いところからパパが僕を見下ろした。
おかしいんだ。その時のパパの顔もよく見えなかった。
「ママの絵、帰ったら見せてね」
「……うん」
そっか。ママの絵を描いたらパパに見せるのか。そうか。そうなんだ。
僕は一つ賢くなった。
小学校に上がれば、僕はもっと賢くなった。
そう。ママの絵はママに見せるものなんだ。パパに見せるものじゃない。
そして、ママっていうのは僕を産んでくれた人のこと。パパの愛した人のこと。
僕は誰のお腹から出てきたのかな?
パパはどんな人を好きになったの?
僕のママは今どこで何しているの?
そんなこと、パパに聞いていいのかな?
「パパ……」
「どうした?」
「僕ね、ママがいないみたいなんだ。ううん。ママがいないと僕は産まれないのだけどね、ママは僕を置いてどこかへ行ってしまってるみたいなんだ。パパ、ママがどこに行ったか、知らない?」
「……それじゃあ今度、ママに会いに行こうか。一緒に」
驚いた。嬉しかった。
僕にもママがいたんだ!
会えるんだ!
パパと三人で!
どんなことして遊ぼうかな?
今までのことたくさん話してあげなきゃなあ。
お友達のこと、一人ずつ教えてあげて……。
今やってる難しいお勉強のことも自慢してやろう!
「パパ、ママに会えるの楽しみだね!」
「そうだな」
夏休みのことだった。
パパがお仕事を何日か休んでくれた。
僕はもちろん長〜いお休みの途中だったからなんの問題もなかった。
ちょっと宿題を後回しにしただけ。
電車に乗って、一時間もしないうちに、まわりの景色がぐんと長閑になった。
緑が増えて、なんだかとても田舎っぽかった。
ガードレールは曲がったまま放置されていて、バス停の屋根は錆びて朽ちかけている。
公園すら見当たらないようなところだったけど、凄く涼やかで心地よかった。
電車を降りると、バスに乗った。
バスの中には僕とパパしか乗っていなくて、貸し切りだった。
僕が椅子の上で飛び跳ねると、パパが少し怒って、僕をパパの隣の椅子に座らせた。
窓の外を眺めるパパの横顔は穏やかで、優しく微笑んでいるように見えた。
多分パパも嬉しいんだ。ママに会えることが。
僕も嬉しくなって、パパを見て笑った。
おっぱいとおっぱいの真ん中らへんがこそばゆかった。
バスを降りるとすぐに、腰の曲がったしわくちゃのおばあさんが僕たちに声をかけてきた。
「あら、大きなって。帰って来たんか」
「ああ、ばあちゃん。久し振り。また背が低くなったんじゃないか?」
「何を言うか。まだまだ元気よ。さっきも鍬振りかざしとったんよ」
「ハハハ、元気なばあちゃん。まだ当分大丈夫やね」
「そらそうよ〜? わたしゃ、ぽっくりとは逝ってやらんよ」
パパのお友達らしかった。
僕はおばあさんに頭を撫でられた。
小さな手で、温かかった。
「よう似てきたな〜。前見た時はまだ猿と見分けつかんような頃やったからの。悪戯小僧の顔しとる」
おばあさんがそんなことを言うから、僕はちょっとムキになって、「僕、悪戯なんてしないよ!」と言った。
そしたらおばあさんはまた歯のない口を大きく開けて笑うんだ。
「口答えするとこなんかもうお前そっくりや!」
僕は今日もハテナした。
四方八方田んぼに囲まれた、小石の転がる道を行く。
太陽に汗をかかされるけれど、その後すぐに風が吹いて熱を冷ましていく。
その繰り返し。
Tシャツの腋の辺りが不愉快だ。
「ここだよ。ここがパパが小さい頃住んでいたおうちだ」
そこはテレビでしか見たことないような昔っぽい家。
大きな家だったけど、全然オシャレじゃない。
「ただいまー」
パパは玄関を入ると大きな声を出した。
僕は初めて来るのにパパは「ただいま」と言う。
なんだか背中がそわそわした。
玄関といっても車一台は楽々入りそうなほどの広さがあって、タイルも何もなくそのまま土だった。
靴を履く時に座る段差があって、その向こうのガラス戸から女の人が出てきた。
さっきのおばあさんよりは若い。
でもしわくちゃ。
そして、なんだかさっきのおばあさんとよく似た柄のついた割烹着みたいなものを着ている。
この町ではこういったファッションが流行っているのだろうか。
本日二つ目のハテナだ。
「おかえり! よう来たね。さあ、入り入り! クーラーで冷やしとるよ」
おばさんが満開の笑顔でそう言ってくれたから、僕はなんだか優しい気持ちになった。
パパに倣って、口を脱いで端に揃え、後をついていく。
テレビに向かうソファーにパパが腰を下ろしたから、僕もその隣にちょこんと座る。
バスの中でのテンションはどこかへ隠れてしまった。
パパがそんな僕を見て、「借りてきた猫だな」と笑ったんだけど、僕にはよくその意味がわからなかった。
もし覚えていたら、帰って調べようと思った。
おばさんが出してくれた麦茶はキンと冷たくて少し頭が痛くなった。
手作りしたというおはぎは甘く、モチモチとしていて、歯の裏にくっついてしかたなかった。
でも凄く凄く美味しかった。
電話が鳴り、パパとお話ししていたおばさんが席を外した。
その隙に僕は聞いた。
「ねえ、あの人がママ?」
パパは吹き出した。お下品だ。
「違うよ! あれはおばあちゃん。パパのママだ。お前のママではないよ」
「そっか。おばあちゃんか。じゃあさ、僕のママは? 今日は僕のママに会いに来たんだよね?」
「ああ。そのうち来ると思うよ。この家で待ち合わせてるからね」
「そっかぁ。早く会いたいなぁ……」
パパの言う通りだった。
それから十分もしないうちにピンポンが鳴った。僕のおうちとは少し音が違うような気がした。
おばあちゃんが玄関へ向かう。
「ママかなぁ?」
「多分、そうだよ」
僕は背筋を伸ばした。
ひざの上で拳を作って、手のひらを濡らした。
ドキドキする。
胸が大きく高鳴りすぎて、感覚すらない。
これもハテナだ。
おばあちゃんの後に続いてお部屋に入ってきたのは、髪の長い綺麗な女の人だった。
お化粧が濃かったり、凄くオシャレな格好をしているわけじゃないけど、真っ白な歯や大きな瞳がとても綺麗だった。
男っぽい格好をしていて、おばあちゃんみたいに大きく笑いながら僕を見た。
「君か! めちゃくちゃ可愛い子じゃない! 理屈的で愛想がないなんてよく言うよ! まるで猫みたいじゃない」
また猫。本当にどういう意味なんだろう。
その女の人は明るく声が大きかった。
僕の隣に遠慮もなくどかっと座ると、頬っぺたを両手で挟んでグリグリとして遊び始める。
「初めまして。私が君のママだ」
「は、はじめまして……」
僕は今彼女の勢いに圧倒されている。
前に幼稚園で描いた【お母さん】とは随分印象が違う。
もちろん、想像よりうんと若かったし綺麗だった。けれど、うんと騒がしい。
落ち着いたパパとは正反対。
そんでもって、こんなに賑やかな人から僕のような子供が産まれるのかとハテナした。
それから、おばあちゃんの計らいで親子三人初めてのお買い物に行ったり、ずっと夢だったお父さんとお母さんに挟まれて手を繋いで歩くというやつをしてみたり、僕とママの溝はすぐに簡単に埋まってしまった。
晩御飯はパパのおうちで食べた。
おばあちゃんとママがキッチンに並んで立っている。
それをパパが微笑みながら見つめていて、僕はこれが家族なんだと噛み締めた。
ママはどうやら不器用らしく、ワチャワチャとしていたが、ずっと笑ってお料理を楽しんでいた。
僕はそんなママを見ていると、凄く幸せな気持ちになった。
「パパ」
「うん? どうした」
「ママに会わせてくれてありがとう。僕、パパもママも大好き!」
パパは少しだけ驚いた顔をした後、僕の頭を優しく撫でた。
そういえばこれもハテナだ。
今まで何年もいなかったママが、その年の冬頃から僕とパパのおうちに引っ越してきたのだ。
普通にママをやってくれていて、参観日にも教室の後ろに立ってくれている。
もちろん僕は凄く凄く嬉しいけれど、だったらなぜ今まではいてくれなかったんだろうとハテナしている。
あの夏休みから半年以上も経ち、三人での生活が当たり前になった。
クリスマスにはママが不恰好ないちごケーキを作り、お正月には三人でおばあちゃんのおうちに遊びに行った。
バレンタインデーにはママから僕とパパにチョコレートがプレゼントされ、ホワイトデーには僕とパパが二人でママの代わりに晩御飯を作ってあげた。
ママが来てから僕は、パパと二人だけだった時よりもたくさん笑っている。
そりゃあママから口うるさく「宿題は終わったの?」と聞かれると嫌な気分にもなったけれども、それすらも嬉しい日々が続いた。
四月になり、僕も小学三年生になった。
ランドセルは少しだけ汚れ、制服もすっかりサイズがあってくる。
その頃から僕には一つの思惑があった。
「パパ! お仕事疲れたでしょう? 僕が肩叩きしてあげる!」
「おっ、本当か? だったらお言葉甘えて」
「うん! 十分百円ね!」
「金、取るんだ……」
「当たり前だよ。僕はパパの肩を叩くっていうお仕事をしてるんだから」
「ハハハ……」
断られたら意味がない。
だから僕はパパがうんとかすんとか言う前に肩叩きを始めた。
そんな様子を見ていたママが洗い物を終えて僕たちの方へ来た。
「いいね〜上手いね〜! パパ羨ましいな〜。ママもしてほしいな〜」
「いいよ。後でね。その代わり、十分百円だよ」
「いいわよ〜? お仕事だもんね」
「うん!」
僕は笑っている。
瓶の中に詰められた百円玉の山を見て笑っている。
「よしっ、溜まってきたぞ〜」
五月になっていた。
その日まであと十日。
今までお仕事頑張ってきたから、たくさん集まったぞ。
肩叩きやお洗濯、お風呂掃除に洗い物。
いっぱいいっぱい働いた。
働くと百円玉が貰えた。
それって凄く気持ちいい。
誰かの役に立つとお金が貰える。
働くって凄く楽しい。
パパがお仕事から帰ってくるたびに愚痴を言っているのは、ハテナだ。
金曜日。明日はついに【母の日】。
僕はランドセルの中に百円玉の入った瓶を隠し持ち、登校した。
大丈夫。ママにもパパにも気付かれていない。学校でも細心の注意を払い、先生にもお友達にもバレなかった。
授業中も僕の頭を占領するのは【母の日】のことだけ。
ああ、早く学校終わらないかな。
早くプレゼント買いに行きたいんだ。
僕は賢いから知ってるんだ。
【母の日】には真っ赤なカーネーションって花を買うんだ。
そしてママに感謝を込めてプレゼントする。
ママが出来てから初めての【母の日】。
ずっとやってあげたかったんだ。
【母の日】。
放課後になって、僕は集団下校の列に並ぶ。班長さんが人数を確認して、先生にオッケーをもらえたらみんなで並んで帰る。
僕は早く学校を出たくて出たくてたまらない。クラスメイトのお友達がふざけて列に並ぼうとしないから、僕はついつい声をあげて怒ってしまったが、その子は静かになって列に並んでくれた。
ついに僕たちの班にも先生からのオッケーが出た。
班をはぐれると大事になってしまうのはわかっていたから、とりあえず一度は家の前まで帰った。
マンションのエレベーターには乗らず、そのまま今来た道を戻る。
なんだか小さな探検をしている気分。
近所に花屋さんがあるから、そこへ行こうと決めていた。
ついでに言うと、先週の時点で花屋さんの店員さんに「母の日のお花を買いに来るので、置いておいてください」とお願いもしてある。
僕は走った。転けそうになるのも気にせず走った。
【母の日】がこんなに楽しいのは産まれて初めてだ。みんな、こんな気持ちだったんだ。
花屋さんに着くと、先週の店員さんが僕を見て笑った。
「来たね、坊や。置いてあるよ、カーネーション」
「ありがとう! これ、お金!」
僕はランドセルから百円玉の瓶を取り出し、そのまま渡した。
「何本欲しい?」
「んーっとね……十本!」
「了解しました」
店員のお姉さんは瓶の中から百円玉を取り出して数え始める。
十本も頼んじゃったけどお金足りるかな?
僕はソワソワした。
「はい。お花代だけ抜かせてもらったよ」
戻ってきた瓶にはまだ十枚くらい百円玉が残っていた。
たくさん働いたからだ。
これは今度パパのために使おう。
しばらく待っていると、「どうぞ」と赤い花束が僕に差し出された。
ピンク色の紙で包まれていて、とても可愛らしい。花の中にはハートの飾りが突き刺さっていた。
「ありがとう!」
「またのご来店お待ちしております」
僕はまた走った。
早くママに届けたい!
「ママ!」
家に帰ると、靴を脱ぐより前にママを呼んでいた。
ママが「なあに? どうしたの?」とキッチンから声をかける。
僕は靴を脱ぎ捨て、揃える間もなくママのところへ走った。
「ママ! これ!」
僕の腕の中にあるカーネーションの花束を見て、ママは驚いていた。
「どうしたの、これ? ママに?」
「そうだよ。母の日! いつもありがとう、ママ。僕のママになってくれてありがとう。ママがママで良かった! パパに負けないくらいママのことが大好き!」
ママは泣いていた。
ハテナだ。
僕は笑ってほしいのに。
ママは何度も「ありがとう」と言って僕を抱きしめた。
温かい。これがママの温かさなんだ。
この温かさはママにしか出せないよ。
その夜のダイニングテーブルには、カーネーションが飾られていた。
あれから数年。2017年。
僕は高校生になった。
相変わらず僕は母さんには似ていない。
「今年も来たな、坊や」
花屋のお姉さんは、気付けば花屋のおばさんになった。もちろん、本人にそう言うと怒られるのけれど。
「母さんの花……今年も十本」
「はいはい」
アルバイトを始めて、稼いだお金。
今になってみて、父さんが愚痴をこぼしていた理由が少しわかる。
案外社会には理不尽が多い。
働くというのは大変だし、辞めたいと思うことも多々ある。
でも甲斐はある。
こうして今年も母さんに「ありがとう」を渡せる。
「来月は薔薇、買いに来るから」
「わかってるよ」
父さんにももちろん「ありがとう」を渡している。
恥ずかしくないのかと聞かれれば否だ。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
けれどこの日でなければ僕はきっと素直になれない。
反抗して、時には傷付けるような言葉を投げかけたかもしれない。
それでもこの日だけは無視出来ない。
ずっとこの日を恨んできたけれど、僕にはもう母さんがいるから。
僕の母さんは、素敵な人だ。
そう言えはしないけれど、そう思っているんだと伝えたい。
多分、来年も再来年も。
僕は【母の日】を祝い続けるだろう。
僕にカーネーションは似合わない。
あなたのそばに咲くカーネーションこそ、この世で最も美しい。