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白いあがない

作者: 彰子

  白いあがない


 老人が道端で死んでいく。

 その日は、雪が降っていた。

 月が見えているにもかかわらず。

 あたりには老人のほか、だれもいない。なにもいない。

――雪よ、桜になれ。

 老人の願いは、この世でかなうはずのないもの。

――雪よ。きれいな悲しみよ。

 雪のつぶてが大きくなった。牡丹雪だ。

――皮肉なことだ。


 皮肉なことだと老人は思う。

 老人がまだ若かった頃の、雪の日。

『地面に落ちているものは、ごみと呼ばれる』

 今日で卒業してしまう初恋の人を坂の上から見送りつつ、青年は心でつぶやく。

『しかし、本当にそうだろうか』

 背の高い彼女の肩から落ちた雪のかけらを眺めながら、青年はそれが桜のようだと思う。

『雪、桜』

 これで自分たちが最高学年だと大はしゃぎしている同級生達から少し離れて、青年は校舎の窓から坂道を眺めていた。

 小高い丘の上にある高校と、町とをつなぐ坂道。そこに、雪が散り敷いている。ふと視線をあげた。厚い雲に少し切れ目ができて、夕日が差し込んでいる。道の一部がそれを受けてきらきらと反射し、そしてまた光を失っていく。それが凍った水たまりのせいだと気づいたのは、彼女が視界から消えた後だった。

『これが、ごみだろうか?』

 違う。

『ごみでないとすれば、なんと呼べばいいのだろう』

「皆さん、下校の時刻です」

 卒業式の日も変わらない、放送部の下校の合図が校内に響いた。

『帰ろう』

 考えるのをやめた。


 やがて、大人になった青年は、ささいなことですべてを失った。気がつけば、彼はホームレスになっていた。


 帰る場所から無理矢理に解放されたとき、初めてあの時の疑問を思い出した。そして、自分も地面に落ちているものの一つだということに気がついた。答えは簡単だった。

「地面に落ちているのは悲しみだ」

 皮肉なことだと老人は思う。


 老人は、地面に落ちているものを拾って、生活に使う。段ボール、空き缶、サッカーボール、枯れた花束、新聞紙、ライター、破れた本、食べかけのおにぎり。それらは悲しみであってごみではない。ごみではないから、汚いとは思わない。

 生活に必要なものは、コンクリートの上から調達する。資金が必要な場合は拾い集めた空き缶を売ってまかなう。


 ホームレス仲間の死体も拾ったことがある。手だけが、かろうじて美しかった。炎にくべると、腐臭が強くなった。

『牡丹の花が好きな人だったな』


 大きな屋敷の庭先から落ちてくる牡丹をいつも拾い集めていた仲間の手だけを、老人は思い出す。

 ホームレスの仲間は冬にいなくなる。寒さに耐えられないのだ。

 老人も、もう冬を越せない。


――牡丹か。

 手を伸ばす。

――この手はうつくしいのだろうか。

 白く見える。汚れているはずなのに。

――ああ、月が出ている。

 こんなに雪が降っているのに。

――きっと、おれはもうすぐ死ぬのだ。だからこんな幻想を見ているのだ。


 覚悟していたはずなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。こんな人生に未練なんかないはずなのに、どうして胸が苦しいのだろう。

――月影よ、みにくく死んでいくおれを照らさないでくれ。

 こわい。死ぬのがこわい。道で倒れたときから、覚悟していたはずなのに。


――だれだってこわいんだよ。

 誰だろう。こんなにやさしい言葉をかけてくれるのは。

――でも、振り返らずに前に進まなくちゃ。


 ああ、先輩だ。やさしい言葉を残して、都会の大学へ行った先輩。おれが坂道を見送るだけしかできなかった、先輩。

 声なのに、白い。思い出だからなのか。

 なぜ、後ろ姿しか見えないのだろう。

 ああ、そうか。

――おれが顔を思い出せないからなんだ。

 白い秋。白い雪。白い光。白い声。

 先輩との思い出が、白く光って目の前に現れる。

 後ろ姿と声しか、現れない。

――思い出せないのとは、違うよ。思い出せないことは、思い出したくないことなんだって。精神科の先生が言ってたから、確かよ。

 壊れてしまいそうなほど繊細な心と優しさが入り交じっている、そんな先輩にあこがれを抱いていたんだ、おれは。


 でも、先輩の卒業の日、おれは間違った選択をした。

 先輩が一瞬、窓の方にいたおれを見たような気がした。だけどおれは、届かないはずのあなたが振り返ってくれたことが、なぜか怖くなって、そのときだけ目を離した。見えないふりをした。

――皮肉だな。

 きっと、いま顔だけが思い出せないのは、その報いだ。


――じゃあね。

 牡丹が降る中を、先輩が歩いていく。紺の制服。赤い傘。背の高い影が雪に落ちている。

――待って。

 歩みは止まらない。

―振り返って。

 止まるはずがない。

――本当だったら、いなくなった妻や娘の顔を見たいと思うのが普通なんだろう。だけど、おれはなぜか、あなたの顔を見たい。最期の望みとして。


 足がすこし止まる。

――間違いだらけだった。ずっと。

 おれはどうやら、泣いているようだ。汚れた涙。幻の中だけなら、白く光ることができる。


――許してほしい。

 だれに、なぜ許しを乞うているのだろう、おれは。

――すべての人に。人間としてまっとうに生きられなかったことに。


――なんで泣いてるの?

 先輩の声が、近い?

――ごめん。やっぱり、振り返っちゃった。

 ああ。

 あなたの顔はこんなに優しかったのですね。いつも。あの日も。

 いつでも、そばにいたんだ。


 そして、老人は事切れた。

 いつもの都会の、冬の朝。


 この町にまだ雪は降らない。


Fin


こんな下手な短編ですみません(汗)

でも、町で倒れているホームレスを去年の冬みて、突然書きたくなったんです。

ご容赦。

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