名もなきパイオニア
久しぶりに書きました。
暫く書いていなかったので酷いですね。文章は毎日書きましょう(反省)
少年は小さい頃から自分は特別な人間なんだと信じていた。自分には何か特別な能力、他の人にはない世間が驚くような能力があるのだと――少年がまだ小学生にもなっていない時の話だ。なぜそう思い込んでしまったのか今となっては本人にも思い出すことは出来ないだろう。だがその思いが失われることは決してなかった。
強い思念が初めて行動に現れたのは八歳だったか、いや、九歳になったばかりの時であっただろうか。何せ一世紀近く前の記憶であるがために、風化してしまっていて少年にも況してや他の誰にも正確なところは分からない。とにもかくにも概ねその年齢あたりから毎日奇怪な行動をするようになった。
ある日曜日の晴れた午後には鉛筆をタクトのように振り、しとしとと降り続く雨の日には絵筆の毛の部分を手元に持って呪文のような言葉を呟いた。その奇怪な行動をするときには決まって目の前に生卵が置かれていた。少年は何かに憑りつかれでもしたかのように、来る日も来る日もその辺りにある杖の代用品を手に持ち生卵に向けてぶつぶつと口内で呟いていた。時折、何かに踠き悩み頭を抱えて唸りをあげた。
中学生になった少年の儀式は今でも欠かさず執り行われている。この数年間一日も休むことなく毎日である。開始時間は決まっておらず、儀式の時間もその時によってばらばらだ。どうやら時と場所を選ばず手が空いたときに儀式をやっているようである。少年のポケットにはいつでも執り行えるように生卵と杖の代用品が入っていた。平日は学校へ行き授業を受け、休み時間は生卵とにらめっこ。給食の時間でさえ皆と交わらず、スプーンを片手に生卵と格闘した。足の爪先から気の流れを意識し、杖のようなものを持つ手へと向かうようにイメージを描く。そして体中の気を一気に放出する。少しずつではあるが、試行錯誤を繰り返して常に変化してきた仕草は最近固定化されつつあるようであった。だが相変わらず生卵に変化はなかった。
大学二回生のときだ。とある事件が起こった。いつものように生卵を前にして杖のようなもので全身の気を放出したときに、指先から放出されるはずの気が何を間違ったのか尻から放出されてしまったのだ。講義が始まる数分前の講堂に爆音が轟き、周囲一帯を屍の海へと変えた。壁に備え付けられていた瓦斯検知器が鳴り響き、アラートが確認された講堂に警備員や教授までもが飛び込んできて屍を増やしてしまう結果となった。以来、瓦斯検知器が設置されている場所には『近隣では放屁禁止!!』と書かれた紙が貼られている。
窓から見える景色は、霞のかかった連なる山々が遠くに見える。敷地内に植えられている銀杏の頭が三階にある病室の窓枠を黄色く染めている。静かな室内は潔白の寝具に包まれた老人が横たわっていた。張りがあったであろう肌は艶を失い、食べごろを逃した桃のように薄茶色のシミが点々とついている。ベッドの周りには妻と子供たち。そしてその子供たちに手を握られている孫たちが今にも泣き崩れてしまいそうな悲しい顔をしていた。
ベッド脇にあるサイドテーブルに、かつて少年であった老人が片時も手放すことをしなかった生卵。とても静かに絶妙なバランスをとりながら置かれていた。
大切な生卵の隣で天井に向かって目を閉じていた老人は、ゆっくりと目をひらいて毎日欠かさない儀式を執り行おうとする。筋肉は衰え、思うように腕が動かない中で最後の力を振り絞り生卵に手を翳す。とても弱々しく、小刻みに手を震わせながら――
するとどうだろう。静かに老人を見守っていた生卵が、一秒、いや、二秒くらいの間ふわりと三ミリほど浮き上がり、そして、ことりと静かな音をたてて元の位置へと戻った。周囲は何事が起ったのかと驚きを隠せず生卵と老人を交互に見ている。翳されていた老人の手は、周囲の驚きに構うことなく力を失いだらりとベッドの脇へと落ちる。同時に老人の目も静かに閉じられた。
その表情は未だかつて誰も目にしたことのない満ち溢れる誇った笑顔だった。
使用されていない人間の脳を覚醒させることが出来るようになった近年、新たな職業が台頭してきている。誰でも出来る職というわけではない。それはこの世に誕生したときに決められている。適正のある人々は覚醒プログラムに参加してその職へと就く。適正があっても犯罪に利用しようとする輩はプログラムが進行する過程で能力を奪われ排除される。
適正と認められる人は現在のところ多くはない。だが、今後増えてくると予想される。そして、近いうちに法の整備も検討しなければならない状況になるだろう。あの少年は何を望んでいたのだろうか。ただ自分は特別な人間であることを証明したかっただけなのだろうか。その答えは誰にもわからない。
緑が取り囲むプログラム施設の中庭には、かつて少年であった人物の像がひっそりと佇んでいる。この人物の名前は、あまり知られていない。