老人の足跡
ドラウが病であること、もう長く生きられないことを、ユファレートはその日、初めて知った。
ルーアに背負われて戻ってきたドラウの口の周りには、吐血の跡があった。
なぜ、今の今まで気が付かなかったのか。
いなくなったハウザードのことばかり考え、悲しみ、唯一の家族のことをちゃんと見ていなかった。
三年前もそうだ。
病のドラウを独り残し、ユファレートは旅に出たのだった。
ハウザードの時も、気付けなかった。
そして、なにもかもが手遅れになった。
何度、同じ失敗を繰り返すのか。
自分の愚かしさに、絶望的な気分になる。
戻ってきたドラウは、穏やかに淡々と病のことをみんなに語った。
話が終わったあと横になったが、眠れはしなかった。
どうすればいいのかわからず、ティアの手を握り震えた。
ティアは、こういう時なにも言わない。
苦しんでいるユファレートを、ただ受け入れてくれる。
翌朝となった。
ドラウは、いつも通りに見える。
ルーアが背負おうとしたが、自分の足で歩くことをドラウは望んだ。
昼過ぎに、到着した。
『火の村』アズスライ。
崖を回り込み降る道の先にあり、村全体もまた、切り立った別の崖の上にあった。
背後は海であり、外界から切断されているように思える。
海の近く、村の西側に、数百軒はあるであろう鍛冶屋があった。
そこで武器防具が製造され、王都ヘザトカロスへ送られる。
ドラウが倒れたのは、村に到着して少ししてからだった。
村には小さな診療所があるだけであり、連れていってもどうしようもないだろう。
近くの宿に、ドラウを運んだ。
宿の主人は迷惑そうな顔を見せたが、ドラウ・パーターという名前を聞くと、態度を変えた。
高名な魔法使いが宿泊したという事実は、宿の良い宣伝になるのかもしれない。
例え名を騙っているのだとしても、ちゃんと宿泊代を払ってくれるなら構わない、というところか。
ドラウは、丸一日眠り続けた。
寝顔は、やはり老人のものだった。
ユファレートは、できるだけドラウの側にいた。
そんなことで、独りにしてしまった埋め合わせにはならないとわかってはいるが。
眼を覚ましたドラウは、優しい表情をしていた。
だがユファレートは、どん底に叩き落とされたような気分になった。
本当に助からないのだと、感じてしまった。
ドラウは、幼い頃にしばらく暮らした孤児院に行きたがった。
だが、もう歩くことができなくなっていた。
肉体が、急速に衰えていた。
まるで、筋肉や骨が役割を終えてしまったかのように。
村人から車椅子を借りて、ドラウを外へ連れ出した。
孤児院は取り壊されていた。
新たに、建物の土台が作られている。
学校や教会でも建てられるのかもしれない。
土台の規模から、ユファレートはそう予想した。
ドラウは少し寂しそうな顔をしたが、それだけだった。
ドラウがこの村で暮らした時期、余りいい思いをしていなかったことを、ユファレートは知っている。
その夜、ドラウは熱を出した。
それでも、目覚めると気力を取り戻す。
ユファレートと、語りたがった。
ユファレートも、ドラウとできるだけ話したかった。
この世界について。
自分たちの家でも話したことであり、確認のようなものだった。
亡き父の姿をした、クロイツという者の正体について。
これまで、祖父と孫として暮らしてきた時間のこと。
先に逝った両親のこと。
そして、ハウザードのこと。
語ることは、尽きなかった。
昼でも夜でも、言葉を交わした。
話し疲れると、ドラウは眠った。
その寝台に顔を伏せて、ユファレートも眠った。
少し眠っただけで、ドラウは目覚める。
魔法を比べ合った。
簡単な明かりの魔法である。
ユファレートは、自分の魔法に自信を持っていた。
魔法使いとしては、世界でも上位の実力があるという自負と自覚があった。
自惚れではなく、事実である。
師であり祖父である『世界最高の魔法使い』ドラウ・パーターと比べても、それほど遜色はない。
ドラウも、それは認めていた。
もう教えることはないという趣旨のことを、これまでに何度か言われた。
それなのに、ドラウの魔法と比べると、ユファレートの魔法には無駄が多かった。
ほぼ完璧だと思っていた構成に、隙がいくつも視えた。
決して、ユファレートが未熟な訳ではない。
ドラウが、凄すぎるのだ。
死の床にありながら、ドラウ・パーターという魔法使いは、更に輝きを増していた。
子供のように、ドラウは笑った。
もうすぐ、この笑顔も見れなくなる。
ドラウに頼まれて部屋にみんなを集めたのは、アズスライに到着して三日目、窓から見える東の空がすでに暗く見える、夕刻のことだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
眼が、おかしくなった。
異変に気付いたのは、目覚める前からだった。
眼を閉じていても、視界が白み明るい。
明かりを入れていない部屋も、外の景色も白い。
それなのに、夜が近いことがわかる。
おかしな感じだった。
(そろそろだね……)
アズスライに到着して、三日目か四日目か。
もしかしたら、一週間くらいは過ぎたかもしれない。
今日の夜を迎えることはないだろう。
寝台に顔を伏せて眠っているユファレートの髪に、ドラウは触れた。
と、部屋の中央に顔を向ける。
音はしない、空気の流れもない。
だが、侵入してくる。
馴染んだ気配だった。
「……君のことだから、死ぬ間際には現れると思ったよ」
「本当は、もっと早くに来るつもりだったが」
白む視界の中で、白い人影のエスは肩を竦ませてみせた。
「なかなか、彼の束縛から逃れられなくてね」
「クロイツかい?」
聞くまでもないドラウの問いに、わざわざエスは頷いた。
表情を、静かに変える。
憐れんでいるように見えなくもない。
「君は、実によくやってくれたよ、ドラウ・パーター」
「……ありがたいね」
皮肉のつもりはなかった。
エスにとって、ドラウは道具の一つに過ぎないだろう。
壊れる道具に言葉を残すのは、無駄を省くエスらしくない。
戦いをやめたリンダにも、もうコンタクトを取ってはいないだろう。
エスにとっては、無駄な行為なのだから。
(無駄も、時には重要なのにな……)
だから、エスは気付けない。
オースター孤児院に、エスの力を盗み出そうとしている者がいることを。
「君を失うことは大いなる痛手だが……これからは、君の孫たちに期待しよう。君と比べたら、余りにも小さすぎるがね」
「そんなことないさ……」
小さいということは、弱いということだった。
そして、若いということでもある。
これから大きくなれるか強くなれるか、本人たち次第だった。
廊下からの気配に気付いたか、エスはちょっとだけ肩越しに眼をやった。
「……さて。そろそろ私は、行かせてもらうよ」
「ああ。さようなら、エス」
「さようなら、ドラウ・パーター。君が安らかに眠れることを、私は祈っている」
「……僕も、いつか君が安らかな眠りを迎えられることを、祈るよ」
それを、皮肉と取ったのだろう。
エスが、笑った。
感じ入ったというような、凶悪な笑み。
初めて見る表情である。
そして、エスは消えた。
あっさりとした別れだが、そんなものだろう。
残された時間の短さを、エスなりに考えてのことかもしれない。
入れ替わりになるようエスが調整したのか、扉がノックされた。
しばらくこの部屋に、ユファレートと篭りきりだった。
それを心配して様子を見にきたのか、訪れてきたのはティアだった。
つい息を呑むのがわかる。
最近は鏡を見る気が失せてしまっていたが、手の甲は視野に入る。
染みが以前よりも拡がっていた。
体も、また痩せただろう。
ティアの瞳には、死ぬ間際に映っているのかもしれない。
「……水、持ってきました。ここに置いときますね」
水差しを、机に置く。
「ありがとう」
礼を言うと、ティアは表情を歪ませた。
それでも、無理矢理笑顔を作る。
「ドラウさんは、死んじゃ駄目ですよ。みんな悲しみます」
「そうかな?」
「そうに決まってます。ユファも……独りになっちゃいます」
「君がいてくれるだろう?」
そこまで会話をしたところで、ユファレートは眼を覚ました。
エスと言葉を交わしていた時に目覚めなかったのは、彼がユファレートに音が伝わらないようにしていたからかもしれない。
ユファレートが、安堵の表情を見せる。
まだドラウが生きていることに、安心したのか。
なにかティアと言葉を交わすが、それを聞き取ることがドラウにはできなかった。
視界が傾いていくような気がする。
これは、眠たいのだろうか。
(いよいよだな……)
眠気のようなものがあるが、ドラウは抗った。
死ぬまで起きていようと思った。
「ユファ、ティア。みんなを呼んできてくれないか」
頼むと、二人はそれぞれに返事をして部屋を出ていった。
一人になると、ドラウは身を起こした。
胸を張って堂々としていたいところだが、それは無理なようだ。
枕とシーツを積み、背中を支えさせる。
机の引き出しに、眼を向けた。
手紙がある。
ストラームとリンダ、故郷であるミムスローパで暮らす旧い友人二人に宛てたものである。
たいしたことは書いていない。
ありきたりな、別れの言葉と感謝の言葉。
友人は、孫ができると喜んでいた。
それを祝う言葉。
もう一人の友人は、病がちだった。
彼には、励ましの言葉を。
リンダへの手紙には、これからも家族を大切に、と書き加えた。
彼女ならば、書くまでもないことだが。
ストラームへの手紙には、先に逝くと。
引き出しには、遺言書もあった。
自分の遺体は、この『火の村』アズスライで火葬にするよう書いてある。
それが目的で、わざわざこの村にまで来たのだ。
また、視界が傾いた。
体が上に持っていかれるような感じもある。
ユファレートとティアが、ルーア、テラント、デリフィス、シーパルを連れて戻ってきた。
寝台の横に、六人が並ぶ。
この六人が、ドラウの最期を看取る者たちだった。
(こんな死に方、できるとは思わなかったな……)
多くの者を、失ってきた。
余りに無力で、守ることができなかった。
だからなんとなく、孤独にひっそりと死ぬことになるのではないかと思っていた。
今、ドラウ以外に六人がいる。
「僕は、もう少しで死ぬ」
ティアとシーパルが、声を漏らした。
ユファレートは、無言でドラウを真っ直ぐに見ている。
最後の時間を共に過ごした。
ドラウが刻一刻と死に向かっていることを、理解し覚悟していたのだろう。
一人一人の顔を、ドラウは見つめていった。
彼らとは、個別に言葉を交わしたことがある。
長々しく語る必要はない。
また、その時間もない。
「テラント」
「はい」
「君が、君たちの中では最年長になる。しっかり引っ張っていきなさい」
「そうですね。まあ、俺なりに」
「妻を取り戻せることができるように、祈っているよ」
「……必ず、取り戻してみせますよ」
表情が、精悍なものになる。
ドラウが死のうとしていることについて、動揺は見せていない。
人の死には、慣れている方だろう。
ある意味、重要なことだった。
戦闘の場では、敵も味方も身近に死があるのだから。
「デリフィス」
静かな表情をしていた。
彼も、多くの者を見送ってきただろう。
「前に言ったことを、覚えていると思うが……」
「あなたは、難しいことばかり言った」
「君にしか斬れない者が、きっといる。忘れないように」
「覚えておきましょう」
美形だが愛想がないと、ユファレートからは聞いていた。
外見よりも、剛直な雰囲気が印象に残る男だった。
「シーパル」
「……はい」
シーパルは、眼を真っ赤にしていた。
素直なところがある青年だった。
「デリフィスが剣ならば、君はみんなの盾というところかな」
「……みんなを治すのも守るのも、僕の役目、ですよね?」
「……うん」
「必ず、守ってみせます」
「精進しなさい。それについては、なにも心配はしていないが」
「はい」
「ルーア」
「ああ」
最も手間が掛かった。
彼が最も未熟であり、最も伸び代があったから。
それは、可能性だった。
いつか、ドラウのことを恨むだろうか。ふと思った。
道を示したつもりだ。
ドラウが示さなくても、いずれ彼はその道を進むはずだから。
それは、地獄に繋がる。
いつかくる破滅を、確実に近付かせることになる。
恨みたくても、その時ドラウはいない。
心残りといえば心残りだった。
「短い間だったが、できるだけのことはしたつもりだ」
「……ああ。本当に」
「気が向いたら、僕の教えを思い出しなさい」
短い間だったが、師と弟子のように過ごした。
その時の言葉に、伝えたいことはある。
「頑張れ」
ルーアは、頭を下げた。
「ティア」
「……はい」
「ユファは、いい友達を持った。心から、そう思うよ」
「あたしなんかじゃ……」
ティアが、横に首を振る。
「君がいてくれれば、僕も安心だ」
ハウザードはいなくなった。
ドラウももうすぐ、いなくなる。
それでも、ティアがいてくれればユファレートは立ち直れるだろう。
「これからも、ユファの友達でいてください」
「はい……はい……もちろんです」
すでにティアは泣き出していた。
「ユファ」
「はい、御祖父様」
ユファレートは、泣いていない。
ハウザードが消えた時も、泣くのを我慢しようとした。
それが手向けとでも、思っているのかもしれない。
「僕は、たくさんの人たちを失った。家族、師、友人、仲間、弟子……ハウザードも……」
「はい……」
「だけど、お前がいた。死なないでくれた。お陰で、僕は独りにならないですんだ」
「わたしは、馬鹿です……御祖父様を置いて旅に出ました……」
肩を震わせるユファレートに、ドラウは微笑んだ。
頭を撫でたかったが、腕はもう上がらなかった。
「離れていても、孫が元気に生きている。それを喜ばないおじいちゃんが、いるもんか」
ユファレートが、表情を崩した。
ぼろぼろと涙が零れてくる。
「僕の孫に産まれてきてくれて、ありがとう」
「御祖父様の孫であり弟子であるということが、わたしの誇りでした。これからも、ずっと……」
「それは、嬉しいな……」
ドラウ・パーターの孫として産まれた。
それは、産まれた時から『コミュニティ』の敵であるということだ。
辛いことの方が、多いはずだ。
それでも、そんなふうに言ってくれる。
こうして、看取ってくれる。
素晴らしい友人や仲間と共に。
これで、最後だ。
ドラウはもう一度、六人の顔に眼をやった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ドラウが一人一人に言葉を掛けていく。
それが遺言であると、ルーアは気付いた。
他のみんなも、気付いているだろう。
言葉の中に、特別なものは少ない。
ルーアに教えてくれたことの中にも、特別なものはなかった。
誰でも言えること、誰にも教えられることばかりである。
だがそれらは誰もが忘れがちなことであり、そして大切なことだった。
考えていなかったことに意識を向けさせてくれた。
眼を開かせてくれた。
そんな想いが、ルーアにはある。
ドラウ・パーターとは、そういう男なのだろう。
多くの者を導き、足跡を残していった。
寝台にいるドラウは、小さかった。
ようやく身を起こしているだけの、弱々しい老人だった。
それでもルーアには、胸を張っているように見えた。
ストラームにもランディにも、ザイアムにもない、独特の存在感。
ドラウ・パーターだけの深さがある。
ユファレートに言葉を残した後、ドラウは全員の顔を見回した。
最後だ。
最後の言葉になると、なぜか確信した。
「君たちは、『コミュニティ』という組織と関わり過ぎた。戦いは、これからも続く」
みんな、ドラウを見つめている。
涙を流して泣いている者がいた。
涙を堪えて、だが泣いているも同然の者もいる。
死を受け入れて、話を聞いている者もいる。
特別ではないドラウ・パーターの、特別ではない言葉。
だが、彼の言葉は誰もが聞き流さない。
「戦いが終わるとしたら、二つに一つ。君たちが死んでしまうか、『コミュニティ』という組織がなくなるか」
ドラウの微笑み。
最後の、微笑み。
「勝利が君たちの元に訪れることを、一人でも多く生き残れることを、僕は祈っているよ」
言い終えると同時に、なにかがドラウから抜ける。
ドラウの手を取っていたユファレートが、声を上げた。
寝台のドラウは、眼を開けたままだった。
眼を開けたまま、死んでいた。
ドラウ・パーター。
多くの者の心に、足跡を残していっただろう。
ルーアの中にも確かな足跡を残して、この世を去った。
新暦七百二十一年三月四日のことだった。