理のない剣士
斜めに走り、弓の狙いを外す。
夜の射的は、そう簡単なことではない。
デリフィスの動きを捉えきれず、兵士たちは矢を放てない。
敵の魔法使いが撃ち出した火球が足下を揺るがすが、デリフィスは止まらなかった。
一斉に矢が放たれる。
かわし、剣で払い落とし、次の矢が番われる前に、デリフィスは敵の真っ只中に飛び込んだ。
剣を振り上げる。
雪の塊を踏み抜くような音と共に、兵士の体が宙を舞った。
横薙ぎの一撃に、三人が纏めて吹き飛ぶ。
弓を捨てきれない兵士を、手の武器ごと両断する。
デリフィスは、真上に跳んだ。
足下を、魔法使いが放った電撃が走り抜ける。
跳躍しながらも、剣は振っていた。
首が二つ飛ぶ。
着地。同時に、視線を魔法使いに向ける。
魔法使いが怯む様子を見せる。
手の先でほとばしっていた光は、制御に失敗したのか散り消えた。
兵士十五人ほどに、魔法使い。
本来ならば苦戦するだけの戦力ではあるが、戦闘には勢いというものがある。
立ち止まらず、敵の中に突入した。
その時点で、敵の大半は及び腰になっていた。
あとは、陥穽に引っ掛からない程度に勢いに乗ればいい。
左右から銀光。槍の穂先に、剣。
上体を捩り突き出された槍はかわし、剣は弾く。
デリフィスが剣を振り抜くと、槍を持つ腕は落ち、兵士の体は中央辺りで割れた。
剣を持つ兵士は蹴り飛ばし、体を回転させて投擲された短剣を払い落とし、背後から振り下ろされる大剣を半歩分横に動いてかわす。
兵士が大剣を振り上げる前に、デリフィスは腕を突き出した。
剣が、厚い胸板を貫く。
蹴り付けられ転んだ兵士が立ち上がるが、向かってはこなかった。
他の兵士は、遠巻きにデリフィスを見るだけである。
魔法使いが、退却の号令も出さずに逃げ出す。
指揮官が真っ先に逃げたのだ。
敢えて立ち向かうという兵士は、いなかった。
逃げる者たちの背中を見送り、引き返してこないことを確認してから、デリフィスは追跡を再開した。
黒ずくめ、おそらくはノエルという名前の男と担がれるティアの姿はやや小さくなったが、見失うほどではない。
足止めされたのは、短い時間だけだった。
じりじりと距離が狭まっていく。
追い付ける。
デリフィスは、走る速度を上げた。
黒ずくめの背中が、迫ってくる。
激しい足音が、向こうにも届いているだろう。
黒ずくめの男は、立ち止まった。
空いている右肩だけ、竦ませたようだ。
振り返ってくる。
そこで、デリフィスも立ち止まった。
向かい合う。互いの距離は、十歩もない。
長駆し、戦闘を熟し、また駆けた。
少しだけ息が乱れている。
黒ずくめの男は、剣を抜いていない。
斬り掛かるのは、自重した。
ティアを盾にされる。
「……駄目な奴だなぁ、あいつは」
溜息混じりに、黒ずくめの男はまずそう言った。
ゆっくりと道の端に移動し、木の根元、草が生えた柔らかい地面に、そっとティアを降ろした。
デリフィスは、おやと思った。
割れ物を扱うかのような、丁寧さである。
殺すつもりも痛め付ける気もないということか。
少なくとも、今は。
「……そのまま、その女から離れろ」
「いいよ」
あっさり言って、黒ずくめはティアから離れるように移動した。
前へ、デリフィスに近付く方向に、剣を抜きながら。
返り血を浴びたデリフィスの姿に、血の滴る剣に、怯える様子はない。
「キースを、斬ったのかい?」
それは多分、あの初老の魔法使いの名前だろう。
「いや」
「ふぅん? まあ、どうでも」
「お前の名は、ノエルか?」
「うん」
頷き肯定する。
互いの距離は、もうほとんどない。
間合いが触れた。
デリフィスは、剣を振ろうとした。
ノエルの体が、沈む。
後方へ跳躍する。
そう読んだが、そのまま懐に飛び込んできた。
読みを外した。
見失ったに等しい。
それでもデリフィスは、ノエルの剣を真っ向から受け止めていた。
どんな面妖な体捌きを使おうとも、剣で人を斬る事実は変わらない。
剣の勝負ならば、誰にも負けない。
剣を振り、払い飛ばす。
ノエルの体は宙に持ち上がり、羽毛を思わせる軽やかさで着地した。
追撃は掛けない。
まだ、その動きの全てを見切った訳ではない。
観察をする必要がある。
これまでに斬りたいと感じさせた者たちには、共通して剛直な部分があった。
このノエルにあるのは、しなやかさである。
しなやかな強さ。
いくら観察しても、動きを見切れないかもしれない。
それでも、斬ってみせる。
同じ人間が相手で、剣の勝負である限り、必ず。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「あいつがまだ十代の頃だな。ノエルは、私を斬ろうとした。だが、果たせなかった。人を斬ろうと思って斬れなかったのは、初めてのことだったらしい。それで、あいつは私の弟子になることを望んだ」
近くに流れていた小川で顔を洗い喉を潤すと、ザイアムの喋り方は流暢なものになった。
本来は、魔法が使えないということ以外はなんでもできる男なのだ。
それなのに、なにもしようとしない。
他人に自分のことを過小評価させようとしているように、クロイツには思えた。
「驚いたよ、全員がね。まさか面倒臭がりな君が、弟子を取るなんて、と」
「楽だからだ」
顔を布で拭くザイアムの声は、くぐもって聞こえた。
「楽?」
「ノエルは、最初から完成されていた。だから、なにも教える必要はない。私はただ座り、眺めているだけでいい。こんな楽な弟子は、他にない」
「……」
「別の理由もあるが」
「ほう?」
「弟子入りを断れば、斬られるような気がした。私は、それを恐れた」
(……恐れた?)
ザイアムが。世界でも最も強い存在である、この男が。
「……ノエルの強さとは、なんだろうか、ザイアム? 強いのはわかる。だがどうにも、掴み所がなくてね。まさか、君に勝てるほどの力があるとは思えないが」
「『ダインスレイフ』を発動させれば」
ザイアムの手が、『ダインスレイフ』の柄に触れる。
金属が擦れる音が、夜の森に響いた。
「確実に、私が勝つ」
「……やはり、君には及ばないか」
「『ダインスレイフ』を発動させる前に、私が斬られる可能性もある」
「まさか」
「剣だけでノエルに勝てる者が、果たしているかな。ノエルの動きを捉えるのは、誰であっても困難だ」
「君でも?」
「難しい。私よりも……」
虚空に視線をさ迷わせる。
しばらくして視点を定めたが、なにを見ているのかクロイツにはよくわからなかった。
「……ズィニアだな。ズィニアの殺しのセンスならば、ノエルを殺せる瞬間を見逃さなかっただろう」
「ズィニアか……」
『最悪の殺し屋』と最初に呼んだのは、クロイツであるはずだ。
誰よりも人を殺す技能に秀でた殺し屋。
狙われる者からしてみれば、最悪の存在だろう。
クロイツが最も信頼する者であったが、死亡した。
万に一つの敗北のカードを、ズィニアは引いた。
あるいは、万に一つの勝利のカードを、テラント・エセンツが引いた。
「これまでに、何度も考えた。ズィニアとノエルが戦っていたら、どちらが勝っていただろうかと。君はどう思う、ザイアム?」
「ズィニアがノエルを殺す。その瞬間、ノエルに斬られるだろうが。……逆かな。ノエルはズィニアを斬り、それと同時にズィニアに殺される」
「……互角ということか」
「違う。結果が相打ちになるだけであり、互角ではない。あの二人は、真逆だったからな」
ズィニアは正道で、ノエルは邪道。
彼らを知る者は、二人のことをそう評する。
「真逆の道を、それぞれ極めた」
「ズィニアは、テラント・エセンツという者に殺された。ズィニア以上に、殺しの才能がある者だ。ズィニアが、それを認めた。彼ならば、ノエルも殺してしまうのだろうか?」
「……その才能は、誰が相手でも発揮されるものなのか?」
「……」
クロイツは、一瞬言葉を失った。
ザイアムは、テラント・エセンツを直には知らないはずだ。
調査をしてもいないだろう。
それなのに、的の中心を射抜く。
ズィニアに対する怨念。
ズィニアを殺すという執念。
テラント・エセンツのあれは、妻の仇であるズィニアが相手だからこそ発揮された力だろう。
「……私は、多くの剣士のデータを、ズィニアにダウンロードした」
「そうだな」
「ノエルのデータをダウンロードしたこともあるが」
「翌日にでも、削除するよう頼まれたか?」
「……驚いたな。その通りだ」
苦虫を噛み潰したようなズィニアの表情を思い出す。
感心したように、ザイアムは頷いた。
「さすがは、ズィニアだ」
「どういうことだろうか?」
「ノエルの剣や動きを理解しようとすることは、他の者の技術を全て否定し、捨て去る行為だからだ」
「……」
「それでも、ノエルのことは理解しきれない。ノエルのデータを残し中途半端なノエルになるか、削除し『最悪の殺し屋』のままでいるか。ズィニアは後者を選択した。それだけだ。賢明な選択だと思う」
「……よくわからないな。ノエルの強さの秘密が」
「言っただろう? 理がないと。ノエルは、人の理から外れている」
「……」
わからない。
しばらく考えを纏めたが、明確な答えを出すことはできなかった。
「……人間離れな動きをする。つまり、野性的ということだろうか? 獣のような」
「違う。人間には人間の理があり、獣には獣の理がある。そして、人間だろうと獣だろうと、理により動く」
「……わからない」
「……例えばだ」
ザイアムは、空を仰いだ。
枝の隙間から、わずかに星々が覗いている。
横顔からは、面倒だという雰囲気は窺えない。
未知の者を説明することに、あるいは楽しみを覚えているのかもしれない。
「……前に進もうと、脳が指令を出す。前へ進むために、筋肉や腱を遣い、全身の関節が連動する。前へ進むための動きを、骨が支える。そうなると、人の体はどう動く、クロイツ?」
「質問の意図が……」
「普通に答えればいい。お前の、七百年を超えるデータを駆使してな」
「……」
クロイツは、ザイアムの質問を反芻させた。
どう繰り返し考えても、答えは一つしかない。
「……当然、人の体は前に進む」
「ところがノエルは、そういうふうに筋肉や腱、関節や骨を遣い、後退することができる」
「……」
「あるいは、横へ移動する。相手の背後に回り込むかもしれない。その場で跳躍するかもしれないし、そのまま前進するかもしれない」
「……」
「剣を振り下ろす体の遣い方で、剣を振り上げるかもしれない。剣を投げ付けてくるかもしれない。眼球を潰すために指を突き出してくるかもしれないし、足を振り上げるかもしれない」
「……」
クロイツは、ザイアムの言葉をまた反芻した。
長い時間考える。
「……そんなことは、有り得ない」
考え抜いて、それがクロイツの出した結論だった。
「なにを基準に、有り得ないと言った?」
「……」
「お前の中にある、七百年を超える人類のデータからだろう?」
「その通りだ。人間に、そんな動きは不可能だ」
「だがノエルは、実行している」
「……」
口を開けてはいるが、言葉は出なかった。
先程から、何度も絶句しているような気がする。
「ノエルは人間だ。だが、人間の理から外れている。人間の理から外れた動きをする。理のない剣士、もしくは、ノエルだけの理で動く剣士だ」
そして、にやりとザイアムは笑った。
「忠告したはずだ。ノエルのことを理解しようとするな、とな。お前の大切なデータが壊れるぞ」
「……」
「理解しようとするな。利用しようなどと考えるな。組織の中にあり、その刃をこちらに向けない。それを僥倖だと思え」
「……利用できるとしたら、君だけだが」
ノエルは、ザイアムの言葉にだけは従う。
ティア・オースターを捕らえたのも、ザイアムの指示があったからだろう。
「だが、面倒だ」
いつもの台詞を、ザイアムが吐く。
クロイツは、腰を上げた。
いつ座り込んだか、思い出せなかった。
風が吹く。
ラグマ王国の、湿った風だ。
肉体を置いたはずだが、それを感じた。
「満足したか?」
いくらか皮肉気に、ザイアムが言う。
「……ある意味ね」
ノエルのことを理解するべきではないということだけは、理解した。
「戻ることにする。話し相手をしてくれて、感謝するよ」
「戻り、そしてパサラの所に行くか?」
背中に掛けられた言葉に、クロイツは眼を細めた。
後ろ姿を向けているため、当然表情の変化は見られないはず。
部下であるパサラのことは、公にしていない。
ザイアムにその情報を渡してもいない。
だが、ザイアムはなにかを掴んでいる。
ズィニア亡き今、パサラは最も信頼できる部下だった。
だが、ヨゥロの側に付けているため、動かせない。
最も信頼できるからこそ、ヨゥロの管理を任せているともいえる。
背後で、ザイアムが寝転がる気配がする。
図星を衝き、だがそれ以上の発言をしようとしない。
クロイツは無言で、肉体の中に精神を収容させた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
遠くから、鎚を付く音がする。
『火の村』アズスライの西部が静寂に落ちることは、まずない。
金属的な音に混ざり、水が流れる音が微かに聞こえた。
近くに沢か、小川でもあるのだろう。
吹き始めた微風に、草木が擦れる音もする。
『火の村』アズスライの夜に、白刃が閃く。
ノエルという男の剣は、いちいち意表を衝くところから飛んでくる。
それを、デリフィスは丹念に捌いていた。
魔法を使えるようではない。
ティアのように、刃から光を飛ばしたりもしない。
剣は、剣で防げる。
前に立つノエル。見失う。
それについては、諦めた。
どうやら、時間を掛けても動きを見切るのは難しいようだ。
見失った直後に、見付けるしかない。
ノエルの姿が消える。
この男は、移動する際に音をほとんど立てない。
勘だけで、デリフィスは剣を左に向けた。
回り込んだノエルの姿。
下から掬い上げるような剣を、弾く。
今はまだ、勘で防げている。
だが、いずれ勘は外れる。
その前に、捉えることができるのか。
ノエルの剣は、鋭く速い。
剣撃の重さは、それほどでもない。
力を重視していない戦い方。
デリフィスが剣を強く振ると、あっさりとノエルの体は浮き上がった。
滑るように着地する。
ノエルの体の中心に合わせ、デリフィスは剣を構えた。
基本的な構えであるが、この男に対して意味があるのか。
「あ」
ノエルが、自身の足下に眼をやった。
「蟻の行列だ。こんなにも寒いのにね」
夜である。
頼りない月明かりだけで、視界が悪い。
それなのに、足下の虫が見えるのか。
相当に視力が良いか、夜目が利くのだろう。
だが、そんなことよりも。
「……」
ノエルは、足下を見つめたまま、顔を上げない。
デリフィスのことも、デリフィスの剣も見ていない。
踏み出していた。
剣を振る。
空気が破れる音がする。
ノエルは、軽く後ろに下がりかわした。
続けて、剣を振った。振り続けた。
ノエルは、なんでもないことのようにかわす。
デリフィスのことを、剣を、斬撃を見ないまま。
手加減はしていない。
いつも通り、いつも以上に鋭いはずだ。
だが、当たらない。
ノエルが、前進してきた。
この男は、攻撃する前に視界から消える。
だから、それを待ってから防御のための行動を起こさなければならない。
先に身を固めると、見失った後の剣を防げない。
柔軟に備えなければ、対応できない。
だが今度は、真っ直ぐに踏み出してきた。
下を向いたまま、剣の先で地面を掻くようにしながら。
武器を手にした敵が、視界の中、間合いの中にいる。
剣を向けるなという方が無理というものだ。
そして、剣を向けた瞬間見失った。
背中に痛み。
いつの間にか、後ろに回られていた。
それでも、本能的に身を捩っていたようだ。
傷は浅い。
よそ見をしているノエル。
体を回転させ、その胴を断ち割るように剣を強振する。
ノエルが跳んだ。
後退するかと思ったが、退かずに跳躍した。
剣を振り下ろしてくる。
逃げるな。
地に足を付けていなければ、魔法でも使わない限り人は自在に動けない。
ノエルが跳躍している今は、好機だ。
前に出て、右肩で剣を受けた。
前進した分、剣の根元や柄が肩に当たる。
そこでは、人は斬れない。
剣を振り上げる。
勝った。
かわせるはずがない。
だが、デリフィスの剣が裂いたのは空気だけだった。
大きく離れた位置に着地する姿に、戦慄する。
今、跳んだ。
跳躍した状態から、更に跳躍した。
空気を蹴ったかのような動きだった。
肩を軽く叩かれたかのような感触があったが、それだけで説明できる移動距離ではない。
人の動きではない。獣の動きでもない。
ノエルが顔を上げた。
やや幼い顔付きに、張り付いた笑み。
また、前進してくる。
デリフィスは、剣を上げて一歩後退した。
ノエルの姿が大きくなったような気がした。
次の瞬間には、懐の中にノエルがいた。
跳び退く。
間一髪、デリフィスがいた空間が、ノエルの剣で裂けていく。
胸に微かな痛みがあった。
剣の先が掠めたらしい。
また、ノエルはよそ見している。
地面を爪先で叩き、リズムを取り。
デリフィスは、体を右に向けた。
剣先を地面に付けてよそ見をしているノエルが、そこにいた。
右に回り込んでくると見極めたという訳ではない。
単純に、当てずっぽうの勘が的中した。
体の向きを変える勢いをそのまま利用し、剣を振る。
刃が、ノエルの首筋に触れる感触があった。
確かに触れた。
このまま剣を振り切れば、首を飛ばすことができる。
刹那のことであり、そこまで思考した訳ではないが、デリフィスは剣を振り抜いていた。
「……!?」
剣を振り抜いた先に、ノエルがいた。
首筋に、デリフィスの剣を触れさせたままで。
馬鹿な。
みっともなく悲鳴を上げそうになりながら、デリフィスは後ろに跳躍した。
今のノエルの動き。
剣を触れさせたまま、デリフィスが剣を振る方向に、デリフィスが剣を振る速さと同じ速度で移動した。
刃が肌に触れていても、摩擦や圧力が零では斬れない。
それがどんな鋭利な刃物であってもだ。
だが、そんな動きが人に可能なのか。
目の当たりにしても、信じられない。
皮一枚でかわすという程度の次元の技術ではない。
デリフィスが後退した分、張り付いているようにノエルは前進してきた。
姿は、視界の中にある。
剣だけを見失っていた。
死角から、デリフィスの頭部目掛けて突き出されている。
弾くために、剣を向けた。
突きの軌跡が変わる。
剣が曲がったかのように思えた。
手首や肘の関節を捻ったということなのだろうが。
デリフィスの二の腕を削っていく。
防ぎきれなくなってきた。
防御を固めているだけでは、じり貧である。
剣を翻し、先から打ち下ろす。
肩を貫かれる前に、ノエルは上体を捩った。
捩りながら、水平に剣を振る。
腹を掠めかけた。
反応が遅れたら、体が二つになっている。
ノエルは、体を捩ったままだった。
捩りが、下部へと伝わり、体が倒れ込んでいく。
寝転がったような姿勢から、だが後頭部も背中も地面に付けず、足の裏だけで体を支え、剣を振る。
デリフィスの足を狙っている。
斬り落とされる訳にはいかなかった。
足を失えば、立っていられない。
戦うことができなくなる。
地面に剣を突き立てるようにして、ノエルの剣を受け止めようとした。
本当は腹を貫いてやりたいところだったが、どうせかわされると思ってしまった。
斬撃の軌跡が、変わった。
デリフィスの剣の腹を先で擦りながら、ノエルの剣が跳ね上がる。
このままでは、手首を斬られる。
デリフィスは、左手だけを剣の柄から離した。
斬撃の軌跡が、そこでまた変わった。
デリフィスの腹から胸を、下から上に裂いていく。
呻きながら跳び退く。
浅い。浅いはずだ。
まだ戦える。
ノエルの体が、バネ仕掛けの玩具のように跳ね上がる。
向かってくる。そして、見失う。
左。ノエルの剣を弾く。剣だけを。
くすりと漏れるような笑いが聞こえたような気がして、デリフィスは体を今度は右に向けた。
ノエル。素手で。
剣を捨てた。その必要性はなかったのに。
指。デリフィスの顔に、手を伸ばしている。
デリフィスの眼の中に、親指を突っ込もうとしている。
瞼を閉じ、首から傾けた。
瞼と眉の辺りに痛み。
爪で引っ掻かれたのだろう。
剣を振っていた。
すでにその時、ノエルはそこにいない。
背後に回り込まれた。
いつ回収したのか、その手には剣があった。
突き出してくる。
また、眼を狙っている。
剣で払うことを考えた瞬間、突きは止まった。
「!?」
足下から痛み。いや、足首から痛み。
左足首を、踵で踏み抜かれていた。
無理矢理足を伸ばしたような状態でデリフィスの足を踏み付けているが、考えられないような衝撃があった。
よろけたところで、再度剣が向かってくる。
首を掠める。
合わせるように剣を突き出すが、ノエルは後ろに体を傾け避ける。
衝撃があった。
体を倒しながら振り上げたノエルの足が、デリフィスの脇腹を蹴り付けている。
打撃を受けながらも、剣を振る。
ノエルはかわす。掠りもしない。
ノエルの剣を見失った。
ふと気が付くと、右手に持ち替えられていた。
前に出していた右足の膝を斬られる。
かわせない、その剣を。
次の突きをなんとか受け止めるが、弾き飛ばされた。
左足首、右膝。両足を負傷し、踏ん張りが利かない。
転んでいた。
立ち上がるのにも苦労する。
見切れない。その動きが、剣が。
ノエルが、歩く速さで向かってくる。
顔にある笑みには、皮肉気なものも含まれていた。
真っ直ぐにデリフィスを見ていない。
よそ見をしている。
これは戦いなのか。
疑問が頭を過ぎった。
一方的に技を見せつけられて、翻弄されているだけではないか。
ノエルも、戦いだという意識が希薄なのではないか。
だから、よそ見もする。
歯噛みしたその時、一陣の風が吹いた。
砂が舞い上がるほどの、強い風。
久しぶりにアズスライの村を風が吹き抜けた、とデリフィスは思った。
砂が入ったか、ノエルは眼を閉じている。
これ以上ない好機。
だがデリフィスは、身を翻しノエルから距離を取っていた。
道のすぐ脇には、木が繁茂していた。
そこに飛び込む。
なにかに躓き、転んだ。
斜面を転がっていく。
なにをしているのだ。
転がりながら、考える。
俺は、なにをしている。
止まった。水の匂いがする。
小川の辺であるようだ。
見上げると、生え茂る木々が見えた。
結構な距離を転げ落ちたようだ。
膝までありそうな草が、倒れたデリフィスのことを隠している。
少しは時間を稼げるだろう。
(……時間を稼ぐ? ……隠れて?)
なんだそれは。
草を踏み分ける気配がある。
(……逃げたのか、俺は? 戦闘の最中に……敵から?)
「あれえ? どこ行ったかな?」
ノエル。捜している。
のんびりとした声。
神経を逆撫でさせられる。
俺はここだと、叫びたい。
それなのに、デリフィスは息を殺した。
見付かれば、斬られる。
「……まあいいや」
たいして捜しもせず、あっさりと声の主は諦めたようだ。
引き返していく。
(……なんだ、それは?)
まあいいや、だと。
逃げられても構わない程度の存在でしかないというのか。
向かい合い、戦い、剣を合わせ、なんの脅威も与えられなかったというのか。
「ふざけるな……」
呻き、身を起こす。
両足を痛めている。
剣を杖代わりに、立ち上がった。
全身が痛む。
胸も腹も背中も、腕も斬られた。
首筋からも、血が流れている。
剣を付き、足を引きずり、デリフィスは斜面を登っていった。
元の道まで戻る。
ノエルは、まだいた。
ティアを担ぐところだった。
剣は、すでに鞘に収められている。
「……待て」
声を絞り出す。
ノエルは、見向きもしない。
ティアを肩に担ぎ、背中を見せて去ろうとしている。
「……待て」
また、声を出した。
溜息が聞こえる。
一瞥だけしてきた。
困ったような顔をしている。
「君の名前は知ってるよ。確かデリフィス、だったかな。悪いけど、それ以上は知らない」
「……」
「僕が用があるのは、この子だけなんだよ。君には興味ない」
愛おしそうに、担いだティアの腰を撫でる。
「でも君は、そこそこやる。そこそこ手間が掛かる。僕はね、早くこの子を連れていきたいんだ。君になんか、構ってられない」
「俺は、まだ死んでいない……」
「で?」
「まだ、終わりではない……」
「そっちまで行くの、めんどい。続けたいなら、こっちへ来なよ」
言われずとも。
デリフィスは、足を震わせ、足を引きずり前へ進んだ。
だが、ノエルの姿は遠くなっていく。
ティアを担いだノエルに、追い付けない。
「待て……」
戦い、敗れた。
これが敗北というものか。
負ければ、死ぬ。それだけのことだと思っていた。
だが、逃げた。
敵を前にして、みっともなく背中を見せた。
自分を誰よりも優れているなどと思ったことは、ただの一度もない。
だが、剣を誇りにしていた。
心の拠り所にしていた。
それを、完膚なきまでに砕かれた。
ノエルは、勝者だ。
勝者は、敗者を蹂躙するものだ。
「待て……」
戻ってこい。戦え。
俺にとどめを刺せ。
斬り、殺せ。
「待て……」
遠くに霞んでいく後ろ姿に、手を伸ばした。
その拍子に、転んだ。
土の味がする。
敗北の味か。
戦い、剣で敗れた。逃走した。
とどめを刺してももらえない。興味も持たれない。
こんなにも、俺は弱いのか。
これ以上に惨めな敗北があるのか。
もがいた。
ノエルの姿は見えない。
砂の多い、アズスライの道が見えるだけだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
金属が叩かれる音が、大きくなってきた。
ノエルが目指しているのは、アズスライの村の南西部だった。
目的であるティア・オースターの身柄を確保した以上、もうアズスライに用はない。
だが、女を担いだまま村の出口へ向かうのは目立ち過ぎる。
まずは、キースたちが利用しているアジトがある方へ向かった。
アズスライの西部には、鍛冶場が集まっている。
遠目には、それらの建物が見えるようになってきた。
このまま進めば、深夜とはいえ人目につくかもしれない。
(そろそろだけど……)
道の脇にある木の陰から、女が姿を現す。
ノエルにちょっと合図を出してから、粗末な民家へと入っていった。
それを追う。
家の中は、暖かかった。
小さな暖炉があり、火が点っている。
床に敷かれてあるシーツに、ノエルはティア・オースターを横たわらせた。
女がすかさず、鼻や口を塞ぐようにハンカチを当てる。
麻酔薬でも染み込ませているのだろう。
ノエルは、ざっと室内を見回した。
大きな木箱がいくつか。
開くと、刀剣が詰められていた。
外には馬車があり、木には馬が二頭繋がれていた。
一頭は眠り、一頭は草を食んでいる。
ノエルが眼をやると、女はびくりと身を震わせた。
構わず、指を向ける。
「いいね、君」
ノエルがアズスライの東にあるホルン王国王都ヘザトカロスにいた時に、身の回りの世話をしてくれた女である。
『コミュニティ』の女ではあるが、戦闘などは得意ではない。
だがノエルは、使えるという印象を持った。
細かいところまで気が回るのである。
試しに、他の仕事を任せてみた。
このアズスライで民家や武器、馬車や馬を準備したのは、彼女だろう。
どうやって揃えたのかは、どうでもいい。
大事なのは結果だった。
というよりも、この女がしたことの過程に興味がない。
とにかく女は、ノエルの注文に見事に応えた。
だからノエルは、女のことを気に入った。
余り他人に興味を持つことはないが、全くない訳でもない。
『コミュニティ』の中で最も好きだと思える人物は、まずは当然ザイアム、そしてウェインか。
この女は、その次くらいに気に入ったかもしれない。
二十歳くらいだろう。
なかなか整った顔をしているが、それよりも髪の質感が良い。
背中まで伸ばした黒髪は、日に照らされると青く光沢が出る。
ザッファー王国の小数民族の血が混ざっているとのことだった。
その影響なのだろう。
ノエルは、自分の胸元辺りを引っ張り、匂いを嗅いだ。
「ねえ、血の匂いとかする?」
ヘザトカロスを出てから、人を斬ることを避けてきた。
予定では、用を済ますまでは誰も斬らないつもりだった。
予定が狂ったのは、あの男のせいだ。
デリフィス・デュラム。
追跡してきたあの男は、なかなか手強かった。
少し向きになってしまうくらいに。
お陰で、久しぶりに血を見た。
「……わたしには、わかりません」
「そう?」
女の返答に気を良くして、ノエルは笑顔になった。
寝台に、ごろりと横になる。
女は、床に座ったままだ。
「じゃあ、予定通りにいこうかな。まずは、ウェインがもう一仕事してくれるのを待つ」
「はい」
「僕たちが動くのは、それからだ。君は、そうだねえ……」
女は、伏し目がちにノエルと対している。
なかなか綺麗な外見をしているようだが、余りノエルはそれを意識しなかった。
昔から、美醜には心が動かない。
「無難に奥さんということにするよ。上手く演技してよね」
「は、はい……」
「君の演技次第で、何人斬ることになるか、変わっちゃうからね」
「……はい」
「ティア・オースターは、妹ってことにしようかな。疲れて眠っていることにして、適当に転がしておく」
ウェインと女の働き次第で、ノエルが斬らなければならない人数は何十何百となる。
それ自体は難しくもなんともないが、問題ではあった。
斬って解決できることなら、最初から女に演技をさせるな、と人は思うかもしれない。
それが気に喰わない。
だから、できれば誰も斬らずに終わらせたい。
女には、上手く演技をしてもらわなくては。
「そういえばさ」
ふとノエルは気付いた。
「君の名前、なんだったっけ?」
何度か聞いたが、覚えられなかった。
妻の名前を知らないのは、不自然極まりない。
「セシュリアンヌです」
「……セシルでいいかな?」
「……はい。ノエル様のお好きなようにお呼びください」
「『様』を付けないように。僕は、君の旦那さんてことになるんだから。ノエルでいい」
「……わかりました、ノエル」
「敬語もいらない」
セシルは、床に視線を向けた。
そこに置かれたノエルの剣を気にしているようだ。
ややあって、口を開いた。
「……わかったわ、ノエル」
「ん」
満足して、ノエルは寝返りを打った。
朝までは、まだ時間がある。
少し眠ることができるだろう。
セシルは、座ったまま動かない。
寝ずの番でもするつもりなのかもしれない。
べつに必要はないが、やりたいのならば止めるつもりはなかった。
それについては特に言葉を掛けたりもせず、そのままノエルは眠りに落ちた。