青年と少女
右肩を左手で押さえた赤毛の男が、テイルータたちの前に立ち塞がった。
「腕が一本使えない。実力の半分は発揮できないと言ってもいいと思う」
容易く足を前に出す。
負傷の影響か、バランスを崩した歩き方だった。
足下には、道。
テイルータたちの足下にも、道。
道は繋がっている。
そして、東、アズスライの外まで続いている。
大勢の兵士から逃げて逃げて、村の西半分を一周した形だった。
マーシャの手を引き、あるいは背負い、何時間も逃げ回った。
体力は尽き掛けている。
いつまでも逃げ続けられるものではない。
あと一歩近付いてきたら逃げ出そう。
そう考えたところで、赤毛の男は立ち止まった。
「ここにいるのは、俺だけだ」
「……」
「俺の背後には、誰も配置していない」
俺さえ倒せば、逃げられる。
そう言っている。
だが、勝てるのか。
戦いを避け、背中を見せて逃げるか。
いずれは夜も明ける。
闇を味方に逃亡することはできなくなる。
状況は、不利になっていく。
「……テイルータ・オズド。お前には、他の選択もある」
「……なんだそりゃ?」
「お前には、用はない。その娘を、置いていけ。それで、お前は無事にこの道を通れる」
「黙れ……」
マーシャが、手に触れてくる。
「あのね、テイルータ。わたし、べつにいいよ……」
「黙れ……」
テイルータはマーシャの手を払い、その手で剣を抜いた。
どいつもこいつも、うるさい奴らばかりだ。
「そこをどけ……」
唸る。
赤毛の男は動じず、左手を肩から離す。
素手だが、触れられない。
あの手は、訳のわからない力を持っている。
「邪魔臭えんだ、てめえはよ……!」
右手に剣、懐から短剣を取り出し、テイルータは赤毛の男へと向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
昔は、大きな家に住んでいた。
父親は、髪の毛も髭も真っ白で、顔には皺がたくさんあった。
他の家族はいない。
使用人は、たくさんいた。
父親は、マーシャのことを大切にしてくれた。
だけど、ある日死んでしまった。
その後、まだ若い女性が現れた。
母親だと言い、マーシャを小さな家へと連れていった。
二人きりの生活が始まった。
母親は、昼は寝てばかりいる。
夕方になると起きて、化粧をして、それから出掛ける。
戻ってくるのは、朝になってからだった。
会話は、ほとんどない。
マーシャは、一人ぼっちだった。
母親がいる昼間も、一人ぼっちだった。
数ヶ月過ぎたある日、母親に手を引かれ、マーシャは外に出た。
母親は、マーシャのことを見ようとしない。
どこに行くのか聞いても、教えてくれない。
連れていかれたのは、広いのに息苦しい場所。
暗く、じめじめして、それを怖いとマーシャは感じた。
知らない男の人と、母親は話している。
そして、たくさんのお金を受け取り、そのままどこかへ行ってしまった。
広く、息苦しく、暗く、じめじめした怖い所で、今度は知らない人たちとの生活が始まった。
たくさんの大人たちが会いにくる。
白衣を着た人が多かった。
よくわからないことを、色々聞いてくる。
母親と違いマーシャの顔を見るが、父親のような温かい視線ではなかった。
なにかが、頭の中で囁くようになった。
声に従うと、なにかが崩れ、別のなにかに作り変えられる。
眠っている男の人が、眼を開いたこともある。
お前のせいで、また死の苦しみを味わわなければならない。
男の人はそう言って、真っ黒になった。
君の力はなんだろう。私にも解析できない。
学者のような雰囲気の人は、興味深そうに、だけど冷たい眼でマーシャを観察する。
力。その人は、マーシャの頭の中で囁く声のことを、力だと言った。
力の言う通りにすると、なにかが起きる。
そして、マーシャの体にも変化が起きる。
どこかがなくなったり、違う形になっていく。
聞くまいとしても、声は聞こえる。
そして、言うことを聞いてしまう。
父親の優しい声と、少し似ているような気もする。
ずっと続くのだと思った。
透明なガラスの容器のような物の中に閉じ込められ、外に出されることもなく、ずっと。
だから、その人が現れた時、マーシャは不思議な気分になった。
父親とは違う、母親とは違う、ここにいる大人たちとも違う。
普通とは、きっとちょっとだけ違う。
だけど、白衣の人たちよりは普通の人。
母親とは違い、真っ直ぐにマーシャを見ている。
学者みたいな人とは違い、眼差しに感情が込められている。
同情かもしれない。
この人だと、マーシャは思った。
きっと、連れ出してくれる。
もっと広い所に。
マーシャは、力を使った。
そして、マーシャにとっての理想の姿を、彼女は手に入れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
テイルータの父親は、ホルン政府の高官だった。
出世のことばかり考えているような男である。
そのためなら実の息子たちさえも利用した。
テイルータには兄が三人いた。
王宮でそれなりの地位に就き、そして父親の言い成りだった。
幼いテイルータは、ある日の夕食の席で、些細なことで父親に反発し、テーブルに置かれた花瓶で頭部を殴り付けた。
死にはしなかったが、父親は激怒した。
そして、自身が設立した『グン』という機関にテイルータを放り込んだ。
政府容認の暗殺者を育成する機関である。
激しい訓練を課せられた。
吐き気を催すような人体実験も行われていた。
気の知れた友人のようなものもできたが、やがて全員がいなくなった。
次は、自分の番かもしれない。
与えられた部屋で、テイルータは震えた。
王が崩御し、新たな王が立った。
その際に、『グン』は解体された。
殺しの技術しか知らない大人となってしまったテイルータは、今度は世間に放り出された。
父親は、数年前に死亡している。
兄たちは、テイルータに会おうとしなかった。
テイルータは、すでに死んだことにされていた。
生き方は、自然と狭められた。
裏路地、建物の影、闇、そこがテイルータの生きる場所になった。
マーシャという少女と出会った。
それが出会いだったのだと、今では思える。
夢も希望もない、死んだような眼差し。
まるで昔の自分のようだと、テイルータは苛立った。
その少女は不思議な力を使い、テイルータとその場を脱出した。
異形の姿をしていたが、普通の少女の姿となっていた。
説明を求めたが、マーシャの話はいまいち要領を得なかった。
不思議な力があっても、知能は普通の幼い少女のそれであるようだ。
ただ、異形の姿となったのは、力を使ったためらしいということだけは理解できた。
だからテイルータは、その力を使うことを禁じた。
マーシャの両親についても、テイルータは自分で調べた。
父親はヘザトカロスの富豪だったが、すでに故人である。
他の家族とは別居していたようだ。
マーシャは、愛人との間にできた子供だった。
母親は、いわゆるコールガールである。
大金と引き替えに、マーシャを『コミュニティ』に売っている。
助けを求めても、無駄だろう。
同じだと思った。
家族に捨てられて、独りになって。
組織の中に、囚われて。
二人旅になった最初の頃は、テイルータが側を離れようとするだけで、マーシャは不安そうな顔になった。
これだから、子供は面倒臭い。
用事が終わったら、すぐに戻るというのに。
俺は、お前の知っている大人たちとは違う。
どれだけの大金を積まれようとも、お前を売ったりはしない。
お前の父親のように、お前を残して死にはしない。
お前が大人になるまでは。
一人で生きていけるようになるまでは。
誰か一緒に生きてくれる奴を見付けるまでは。
俺は、いなくなったりしない。
◇◆◇◆◇◆◇◆
人間は、いつまでも全力疾走を続けられるようにはできていない。
息が上がればまともに体が動かなくなるし、力尽きた状態では、例え追い付いたとしても剣を振れなくなる。
黒ずくめの男との距離を計りながら、慎重にデリフィスは駆けていた。
黒ずくめの男は、ティアを担いでいる。
ティアの体重がいくつかは知らないが、十八の女である。
華奢な見掛けだといっても、四十キロ以下ということはないだろう。
担ぎながら走るというのは、筋力のある者でもそれなりの重労働であるはずだ。
いつまでも逃げられる訳ではない。
焦ることなくペースを考えて走れば、必ず追い付ける。
ただし、黒ずくめの男に協力者がいなければの話になるが。
しばらく走り続けたところで、前方を塞がれた。
『コミュニティ』の兵士たち。
十五人ほどか。
率いているのは、あの初老で貧相な魔法使いである。
逃げ出したが、兵士たちと合流して引き返してきたのか。
黒ずくめの男のために、デリフィスの足止めをするつもりか。
たったこれだけで。
魔法は確かに脅威だが、この魔法使いにシーパルやユファレート、ルーアのような力はない。
独りきりで戦うのは、いつ以来になるか。
随分と久しぶりであるような気がする。
周りを気にすることなく、全力で暴れられる。
剣を抜き、地面を蹴った。
「諦めろ! 貴様ごときでは、追い付いたところでノエルには勝てん!」
知るか。
魔法使いの叫びを聞き流し、デリフィスは速度を上げた。
ノエル。それだけは記憶する。
黒ずくめの男の名前だろう。
兵士たちの何人かが、弓を引く。
魔法使いの掌の先で、火球が膨れ上がっていく。
構わず、デリフィスは突っ込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
南国であるラグマといえども、初春の深夜は冷え冷えとする。
もっとも、クロイツには関係がなかった。
レボベルフアセテ地方。
ラグマ王国北西部に位置する、山深い地域である。
そこへ、クロイツは意識を飛ばし現出させた。
意識だけであり、肉体はない。
思念体のようなものであり、気温の変化などの影響は受けない。
足音を立てた。
礼儀のようなものだ。
彼は、クロイツの来訪に気付いていただろうが。
黒髪をだらし無く伸ばした大男が、地面に寝そべっている。
火も付けずに野宿すれば凍死できる寒さだが、大剣の形状の魔法道具『ダインスレイフ』は、起動していなくても持ち主を守護する。
彼を包む空気は、程よい気温と湿度に保たれているだろう。
「ザイアム」
その名を口にした。
ザイアムは、ほとんど反応しない。
薄く眼を開き、瞳をちょっとだけ向けて、また眼を閉じる。それだけだ。
クロイツは、天蓋のように頭上を覆う木々の枝を見上げ嘆息した。
「話したいことがある」
ザイアムの反応は、やはりほとんどない。
もごもごと口が動いた。
面倒だ、と言ったようだ。
「……ここ二十四時間の君の歩行は、三百八十四歩。睡眠時間は、二十時間を超える」
「……」
「……目的地に到着するのは、いつになることか」
「……」
とうとう微かな反応すらなくなり、再度クロイツは溜息をついた。
「……明日、馬車を寄越そう。君は、精一杯の気力を振り絞り、なんとか乗り込んでくれないか。あとは勝手に、馬車が君を目的地まで連れていってくれる」
「……」
それは、ザイアムにとって魅力的なことなのだろう。
凝り固まった関節をごきごき鳴らしながら、たっぷり三十秒は時間を掛けて、のろのろとザイアムが身を起こす。
ようやく、手応えのようなものをクロイツは感じた。
なぜだ、と思う。
馬車の準備をさせることなど、ザイアムならば簡単にできる。
ザイアムの命令ならば、『コミュニティ』に所属する者は誰でも聞く。
クロイツやソフィアでさえも、ザイアムの依頼は無下にはできない。
それなのに彼は、頼むことさえも面倒臭がる。
「……条件は?」
ゆっくりした口調で、ザイアムが聞いてくる。
「少し、私と話をしてくれればいい」
「……」
唇が微かに震え、また閉じられる。
おそらく、『話とはなんだ?』と聞こうとした。
そして、面倒になり聞くのを諦めた。
会話は成り立つが、対話を成り立たせるのは難しい。
それが、ザイアムだった。
とにかく怠惰な男だが、これはいつにも増して酷い。
寝起きのせいなのかもしれない。
それでも、身を起こしたのだ。
会話する意思が一応はあるということだと、クロイツは受け止めた。
「私が聞きたいのは、ノエルのことだ」
「……なぜ……、……?」
『なぜ』の後に続く言葉は、なんだろうか。
『なぜノエルのことを聞きたい?』だろうか。
『なぜノエルのことを、私に聞く?』だろうか。
どちらでも良かった。
ザイアムの口数が少ないのならば、こちらがその分口を動かすだけだ。
「君は、ノエルの師だろう? 君以上に、彼のことを理解している者はいない」
ザイアムは、ノエルを弟子としている。
『ティア』やルーアと暮らしていた頃からだ。
度々家を空けては、ノエルの剣を見ていた。
この面倒臭がり屋が弟子をとったのかと、当時は不思議に思ったものだ。
それだけ光るものがノエルにあるということなのだろう。
「……理解など、していない」
「謙遜だな。君ほど頭が回り理解力のある者も、そうはいまい」
「……ノエルを」
ザイアムが、ゆっくりと息を吐く。
万年雪が溶けるのを眺める気分で、クロイツはザイアムの言葉の続きを待った。
「……理解したいと言ったな?」
「そうだ」
「……そして利用したい、か?」
「そうだな」
クロイツは認めた。
とにかく、力はある。
死んでしまったズィニアにも遜色ないほどに。
飼い殺しにしておくだけで良い逸材ではない。
「……同じ組織の構成員である好だ、クロイツ。忠告してやる」
「……ふむ? 忠告とは?」
「ノエルを、理解しようとするな。お前の七百年の知識が、崩壊するぞ」
「どういうことかね?」
「説明は難しいが、そうだな……」
しばらく迷う様子を見せてから、ザイアムはひどく眠た気な双眸を向けてきた。
「端的に言ってしまえば、あいつは理のない剣士だ」