プロローグ
その若い女は、精神を擦り減らし疲れきっているようだった。
無理もない。
ウェイン・ローシュは、テーブルに乱雑に置かれている、半端に飲み干されたいくつかの瓶を眺めた。
ラベルは様々であり、つまり中身が違うということである。
三月になろうとしている。
ホルン王国北部はまだ肌寒く、というよりも充分冬で、昼でも気温が上がることはない。
中身が腐ることはそうはないだろう。
味は落ちるかもしれないが。
ともあれ、疲れきっているであろう若い女の気苦労は、それだけでもウェインには知れた。
そう、彼のことをよく知るウェインには。
飲みたいものが、そこにない。
それだけで、彼は気分を害するかもしれない。
その瞬間、若い女の首は体から離れることになるかもしれない。
問題は、彼の気分の変化と表情の変化が、必ずしも一致しないということだ。
肩を叩き合い談笑している友人を、いきなり突き殺すことだってありえる。
彼に友人らしい友人がいるのか、疑わしいが。
若い女は数日間、彼の身の回りの世話をするように命じられていた、『コミュニティ』の者であるはずだ。
彼女にとっては、それこそ地獄のような日々だっただろう。
任務は終わりだと、ウェインが手を振ってこの宿の部屋から出ていくように促すと、女は明白に安堵の表情を見せた。
女を追い払い、ウェインは椅子を引いた。
寝台にいた男が寝返りを打ち、座り込むウェインに顔を向ける。
中肉中背の体格を覆う着衣は全て黒。
耳や眉が隠れるくらいの長さの頭髪も黒。
二十歳を過ぎてはいたはずだが、童顔といっていいだろう。
幼子の無邪気ささえ感じさせる瞳を、女が出ていった扉に向けている。
「ねえ、ウェイン。知ってるかい? 彼女、ザッファー王国の生まれなんだって」
「へえ……そうなのか」
ここで例えば、『そんなことどうでもいい』、と言ったとする。
男の剣は、寝台の脇の壁に立て掛けられている。
彼がそれを武器にするには、身を起こし、剣の柄に手を伸ばし、鞘から抜き払わなくてはならない。
ウェインならば、余裕を持って対処できる間がある。
男が、並の剣士だったならばの話となるが。
男の名前は、ノエルという。
『コミュニティ』において最も危険な剣士であり、最も扱いが難しい男である。
あのクロイツでさえも、持て余すほどに。
すでにウェインは、ノエルの間合いにいた。
迂闊にもノエルの機嫌を損ねることを口走ったら、ウェインの体は両断されるかもしれない。
されないかもしれない。
だからウェインは妥当に、いくらか興味があるかのように、微かに驚きがあるかのように、言ったのだ。
『へえ……そうなのか』と。
会話だけでも苦労しているこちらの心境を、果たして理解しているだろうか。
お構いなしに、ノエルは続ける。
「彼女は、ええと、名前は覚えられなかったけど、任務の関係で、ラグマ、ホルンと移り住んできたんだって。いいなあ」
「……なにがだ?」
慎重に、促す。
「僕は、ラグマ王国に行ったことがないから、道がわからない。彼女に、案内してもらおうかな」
やめておけ。お前と旅をするなんて、彼女は精神が持たなくなるだろうよ。
思ったが、当然口にはしない。
「ザイアムか……」
詰まるところ、そこだった。
ノエルは、師であり『コミュニティ』の頂点の一人であるザイアムに心酔している。
ザイアムはラグマ王国にいる。
だから、ラグマ王国に行きたい。
複雑な精神の持ち主であるノエルの思考は、ある意味単純明解だった。
いつもザイアムの近くにいたがるノエルがホルン王国北部にいるということは、なにか理由があるはずだ。
聞くまい、とウェインは決めていた。
自分の寿命が尽きることを知る羽目になるかもしれないのだ。
クロイツからの知らせによると、ラグマ王国に到着したザイアムは、山中を南下しているらしい。
歩みは余りに遅く、君は亀かと背後から蹴り飛ばしたくなる、とクロイツに言わしめていた。
口にはできても、実行はできない。
足が斬り飛ばされる。
師弟揃って厄介極まりない。
ザイアムは数百メートル歩いては、気怠そうな様子を見せ、数時間の休憩を挟むらしい。
休憩を挟むではなく、休憩と休憩の合間にちょっと進む、という方が正しい。
早く馬車を拾うなり調達するなりすればいいと思うが、それさえも面倒なのだろう。
仕方ないな、諦め顔が脳裏に浮かぶようなクロイツの声が、印象的だった。
「……話を変えていいか?」
「ん? 別にいいけど」
内心軽く恐れながら、ウェインは言ってみた。
ノエルに気分を悪くした様子はない。
見た感じの様子など、当てにはならないが。
理由は定かではないが、ノエルに余り嫌われてはいない、とウェインは感じていた。
第三者に言わせると、ザイアムの次に好かれている、ということだ。
「要望が……と、その前にだ。忘れるとこだったな」
要求を口にする前に、ウェインは防寒着のポケットから、派手な装飾の腕輪を取り出してノエルに渡した。
「クロイツからのプレゼント。気に喰わなければ捨ててくれ、ってことだ」
「なんだい、これ?」
「魔法道具、『ブラウン家の盾』」
「あの、ランディ・ウェルズの使用した?」
「正確には、クロイツが複製したやつらしい。んー、複製だとおかしいか? 性能としては、本家よりも劣るらしいからな」
「へえー……」
クロイツの名前が出ても、拒むことなく腕輪を装着する。
気に入ったらしい。
「使うか?」
「まあ、ランディ・ウェルズが使ってたくらいだしね。使い勝手が良さそうだ」
言葉の端々に、ランディ・ウェルズが嫌いではないという響きがある。
故人である。
『コミュニティ』の最大の敵であるストラーム・レイルから絶大な信頼を寄せられた、彼の右腕だった男。
ノエルとランディ・ウェルズに、面識があったという記録はない。
「ザイアムが、ランディ・ウェルズはなかなかの男だと褒めてたよ。直接は知らないくせにね。ここ数十年で最大の損害を、『コミュニティ』に与えた男だって」
つまり、ザイアムが認める者はノエルも認める、ということか。
ランディ・ウェルズは生前、『コミュニティ』の財政面で協力している者たちを、次々と斬り捨てていった。
彼の死後一年以上が経過したが、『コミュニティ』の財政難は未だ続いている。
なにがおかしいのか、ノエルは『ブラウン家の盾』の複製品を弄りながら、けらけら笑っていた。
そして、唐突に笑うのをやめる。
「こんな物なくったって、別に怖くないけどね。魔法も、旧人類の魔法も」
含むように言って、悪戯っぽい視線をウェインに向ける。
『ブラウン家の盾』は、装着した者に害を与える、あらゆる魔法や魔法に準ずる力を阻む、準絶対魔法防御壁を作り出す魔法道具である。
ウェインは、魔法使いであると同時に、能力者でもあった。
「怖くないのか? 使える俺でも、怖いけどな。魔法も、超能力も」
「またまた。『百人部隊』の隊長様ともあろう方が」
冗談を口にする時のノエルは、おそらくかなり機嫌が良い。
「本当さ。俺はいつだって、内心びくびくしながら魔法も能力も使っている。いつ暴発するか、わかったもんじゃないってな。人間には過ぎた力だと思う。現代の魔法も、旧人類の魔法も」
「怯える必要なんてないんだ、ウェイン。だってそれらは、全然たいしたことない力なんだから」
どうやら、本気で言っているらしい。
「どんな破壊的な魔法だろうと、どんな強力な能力だろうと、死んでまでは使えないだろう。使う前に、殺してしまえばいい」
「……」
それは、遠く離れた場所から魔法で狙撃されても言えるのだろうか。
だが実際に、ノエルの発言に近いことを体現してきた者たちがいる。
『コミュニティ』では、まずザイアム。そして、死んだズィニア・スティマ。
敵側の人間では、ランディ・ウェルズにリンダ・オースター。
最近の敵では、テラント・エセンツやデリフィス・デュラムか。
もちろん、ノエルもそうだった。
魔法使いや超能力者たちが持つ優位性を覆す者たち。
「その気になれば、化け物さえも斬れる」
言葉の響きに冷たさはない。
しかし、衣服の隙間から虫が入り込んでくるような心地があり、ウェインは身震いしそうになった。
ノエルは、『ブラウン家の盾』を身に付けた。
ウェインでは倒せない存在になったということである。
味方であるはずなのに、戦闘になった場合のことを考えている。
クロイツは、なぜ『ブラウン家の盾』をノエルに渡させたのか。
『コミュニティ』最大の危険因子の強化がどういうことか、わからない彼ではあるまい。
ザイアム次第で、ノエルは簡単に組織を裏切るはずだ。
ランディ・ウェルズが奪った本物の『ブラウン家の盾』は、彼の死後、ブラウン家嫡男の元へ返還された。
クロイツは、それには見向きもしない。
秘密裏に複製を試み、空き時間を利用し、一年以上経過し、ようやく完成した物は本物より性能が劣る。
滔々と語りながらも、クロイツは落胆しているようであった。
『ブラウン家の盾』が欲しいのならば、持ち主を襲うはず。
クロイツは、それをしようとしない。
魔法道具を複製する技術を求めたのだろうか。
実験対象がたまたま、『ブラウン家の盾』だった。
ノエルに渡すように計らったのは、単純に彼への御機嫌取り。
(……そんなところ……なのか?)
なぜ、複製を試みた。
増やしたい魔法道具でもあるのだろうか。
「ウェイン」
ノエルの声に、思考を遮られる。
「要望っていうのは?」
「……ああ、そうだったな」
少し慌てて、ウェインは頷いた。
本来の用事を忘れかけた自分に、苦笑してしまいそうになる。
「スカウトしたい奴がいるんだが、どうにも厄介な能力の持ち主でな。俺一人の手に余るかもしれない。それで、お前に手伝ってもらおうと思ってな」
「手に余る? 『百人部隊』隊長様の?」
「……茶化すなよ」
能力者たちの部隊を率いているといっても、ウェインには特別強力な力がある訳ではなかった。
隊長の地位は、周囲の者たちに押し付けられたようなものだと思っている。
「それに、スカウトだからな。倒すとか殺すとかならともかく」
生け捕りにしなければならない。
強力な能力者を捕らえるのは、かなり困難な任務だった。
ノエルを使えとは、クロイツの指示である。
自分たちの方に、少しでも引き込んでおきたいのだろう。
ノエルは、微かに口角を上げた。
「いいよ」
意外にもあっさりと頷いてくれる。
「ただし、僕にも用事がある。それと被ったら、当然用事の方を優先させる。いいよね?」
「まあ、それは仕方ないよな」
「それでさ」
ノエルは剣に手を伸ばし、柄を弄び始めた。
剣身と鞘が擦れる音が響く。
「どんな能力なんだい、そいつは?」
なんとなく、だが。
斬りたいのではないか、と感じられた。
スカウトの意味がわかるか、と問いたくなる。
口にはしない。
「不完全で、不明瞭で、不可解で、神に次ぐ力」
「……はぁ?」
「だそうだ。クロイツに言わせればな」
「……ふぅん」
半眼になり、ノエルが更に剣を鳴らす。
気持ちのざわめきを表すように。
化け物さえも斬れる。
ノエルの台詞を思い出し、ウェインは小さく溜息をついた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
あれは一昨年の夏の出来事だった。
連日のように強い雨が降り、川が氾濫していたことを覚えている。
ホルン王国王都ヘザトカロスの近郊にある集落に、テイルータはいた。
一人ではない。
テイルータ含め五十人で行動をしていた。
全員が戦闘訓練を受けた経験があることは、身の熟しですぐにわかった。
敵を押さえ込むようなものではない。
敵を破壊し、殺すための技術を磨く訓練。
五十人の殺しのプロが、その日、その集落にいた。
異常な集落だった。
住民には、共通点があった。
それは、全員が『コミュニティ』の構成員であること。
テイルータたちの目的は、集落の地下にある『コミュニティ』の研究施設から、ある人物を回収することだった。
激しい戦闘となった。
地上に十数人、地下の施設にも同数ほどがいたか。
半数以上は、戦える者だった。
何人か、魔法使いがいる。
相当な手練れも、二人いた。
人数では、こちらが勝る。
苦戦しながらも、テイルータは地下の施設を進んだ。
(……妙だな)
やがて最奥らしき部屋の扉の前まで行き着き、テイルータは怪訝に感じた。
この研究施設は、『コミュニティ』にとってはかなり重要なものだろう。
それにしては、防備が薄い。
五人一組で行動していた。
一人が死に、今は四人。
二人が、左右から薄く扉を押し開く。
室内の饐えたような空気が廊下に流れ出る。
乏しい明かりしかない地下の廊下で、四人の影が揺れた。
室内に、人の気配はない。
「二人で突入しろ。俺たち二人が、後方から援護をする」
テイルータが小声でした提案に、三人が首肯する。
地上や施設のあちこちでは戦闘が続いているが、ここからは遠い。
すでに逃げ出したか、近くに『コミュニティ』の研究者たちの姿はない。
事を起こすなら、今だろう。
二人が部屋に突入すると同時に、テイルータは廊下に残った隣の男の脇腹に、剣を突き立てた。
剣はそのまま捨て、投擲用の短剣を二本取り出す。
室内の二人に、投げ付けた。
一人はかわすが、一人は喉に短剣が突き刺さり崩れるように倒れる。
「貴様、裏切るつもりか!?」
生き残った者が、テイルータへと構える。
「悪く思うな、とは言わんが、恨むなら、けちなスポンサーを恨むんだな」
踏み出す。
突き出される剣は片手で払いのけ、空いた手の指を男の眼と口の中に入れた。
そのまま指を引っ掛け、床に倒す。
踵で顎を踏み砕くと、男は敢え無く絶命した。
「さあて……」
指に付着した血と唾液を服に擦りつけ、テイルータは室内に視線を回した。
廊下よりも更に暗い。
かなり広いらしく、全てを見渡せない。
軽く進みかけて、テイルータは驚愕した。
おそらくは室内の中央ほどに、痩せた中年男がいた。
学者のような雰囲気の男。
こうして存在に気付いても、気配というものがほとんどない。
虚ろな眼差しで、天井を仰いでいる。
「雨が、止まないな……」
ぽつりと、声。
先程殺めた男の手から剣を奪い、テイルータは中年男に突進した。
悟る。
施設の防備が薄いのは、この中年男がいるからだ。
化け物に、人間の護衛など必要ない。
テイルータが接近しても、中年男は反応しない。
「雨が……」
また呟く。
その時には、剣が中年男の腹を貫いていた。
続けて抜き取った短剣を、首筋に打ち込む。
武器を手放し、テイルータはすぐに後方へ跳躍した。
(おいおい……なんだ、この化け物は……)
人体の急所を二箇所刃物で貫かれても、中年男に堪えた様子はない。
首筋に刺さった短剣を抜き捨てる。
血が吹き出すが、手を傷口に近付けるとすぐに治まった。
魔法で癒したのだろう。
腹を貫いた剣は、そのままである。
みるみる衣服は赤く染まり、足下に血溜まりができていく。
気にする様子もなく、中年男は突っ立っていた。
本当に、どうでもいいのかもしれない。
ただ、喋るのに不便だから、喉の傷だけは治した。
そんな感じだった。
「防音について、もっと考えるべきだった。雨が降る音が、ここまで聞こえる……」
首を回し、中年男はこちらに視線を向けてきた。
わずかに後退する。
逃げるべきではないか。
まともな相手とは思えない。
依頼放棄による損害は痛いが、金よりも命が惜しい。
「私には、娘がいてね」
「……あ?」
「私は、研究ばかりに気を配り、余り彼女に構えなかった。良い父親とは言えなかったと思う。彼女が私を嫌っていた時期も、短くはない」
「……」
突然始まった中年男の話に、やや面食らいながらもテイルータは付き合った。
時間稼ぎは、悪くない。
出血はかなりのものであり、否が応でも中年男から体力を奪うはずだ。
急所を傷付けられても平然としていられる者には、致死量の失血など意味のないことかもしれないが。
警戒する姿勢は、崩さない。
「ところが、彼女に白衣を贈られてね。初めて娘から貰った誕生日プレゼントだった。私は、嬉しかったよ。娘に、父親として認められたような気がした」
暗がりの中で、中年男は微笑しているようだった。
と、それが自嘲的なものに変わる。
「だが、ある日、私はその白衣を雨で濡らしてしまってね」
また、天井を仰ぐ。
まるで、中年男が雨に打たれているかのような錯覚にテイルータは陥った。
「なぜ、微塵の危険性を私は無視したのだろうな。濡れた白衣を魔法で乾かそうとし、だが私は、魔法を暴発させてしまった。あれが、生涯最初で、最後の暴発になると思う。娘から贈られた白衣は、塵となった。物質修復の魔法でも、再生不可能なまでにね」
視線を、再度テイルータへ向けてくる。
意思の光が、今までよりも宿っているように感じられた。
「その時から、私は雨が大嫌いになった。なにかを失う日は、大概雨が降っていたように思える」
少しずつ、テイルータは立ち位置を変えていた。
部屋の出入り口が背後になるように。
得体の知れない雨嫌いの男を前に、逃げることを考えていた。
飛び道具を持つ者や魔法を使える相手に真っ直ぐ退くのは、愚かしい。
敵としては、狙い撃つことが容易くなる。
それでも、最短距離で駆け去りたかった。
「さて、今日も雨が降っている。君は、なにを私から奪っていくかな?」
中年男が、眼を光らせる。
テイルータは、後ろ足に重心を預けた。
攻撃の予兆であると感じたのだ。
中年男が、手を振る。
それは、攻撃ではなかった。
中年男の腹に刺さる剣が消え、変わりのように椅子が現れる。
背もたれとクッションのある、寛げそうな椅子だ。
腹の傷はそのままに、中年男は腰掛ける。
「雨が降る日は、どうにも気力が湧かなくてね。雨音を聞くだけで、なにもかも放り出したくなる。雨が空から落ちるのを見ると、呼吸さえも億劫になる」
「……つまりあんたは、変人てことでいいか?」
「君は、何者だ?」
テイルータの言葉は聞き流し、中年男が質問してくる。
それは黙殺し、腰の後ろにある短剣に手を伸ばした。
「答える気はないか。ならば、勝手に覗かせてもらうよ」
「……!?」
微かな刺激があり、テイルータは額を押さえた。
含み針でも飛ばされたのかと思ったが、なにも刺さってはいない。
「テイルータ・オズド、二十三歳。ほう。政府機関『グン』の出身かね。現在は、反政府組織『ホリール』の一員。だが、同じく反政府組織『ペリ』から誘いを受け、鞍替えを考えている」
中年男の口から自分の情報が流れ出し、テイルータはぎくりとするのを感じた。
「表向きは『ホリール』の者として『コミュニティ』の実験体の回収に来たが、裏では『ペリ』と繋がっているか。ふむ。まあ確かに、『ペリ』の方が払いはいいな」
(なんだよ、こいつ……?)
頭の中を全て覗かれた気分になり、テイルータは短剣を抜いた。
薄暗闇の中で鈍く輝く刃に、しかし中年男は動じてくれない。
「……どうしたのかね? 早くしたまえ」
腹から血を流し、尊大なまでの態度で言う。
中年男の言葉通り、急がねばならない。
戦闘の音が、近くなっていた。
やがてここに、他の者たちが到着するだろう。
廊下と室内には、『ホリール』の構成員たちが死体で転がっている。
テイルータが殺害したことを中年男が口にしたら、終わりだった。
他の『ホリール』の者たちに殺されるか、捕らえられ組織まで連れていかれ拷問される。
その果てに待つのは、やはり死だろう。
早く、逃げなければ。
「逃げる? 君は、能力者である彼女を回収し、『ペリ』に売るつもりではなかったのかね?」
中年男が、軽く手を振る。
いきなり、室内の壁が白く、そして淡く輝き出した。
壁の材質はわからない。
無機質な輝き。
部屋の奥、円形の筒が立てられていた。
筒はガラスのようでもあるが、多分違う。
テイルータは、息を呑んだ。
「彼女に実施した能力実験は、二十九回。結果は、いずれも暴走。機器には、エラー表示が出る。解析不能。少なくとも、現在に残された機器ではね」
中年男の言葉が、遠くから響いて聞こえた。
それが、頭痛と吐き気を誘う。
円形の筒は、薄緑色の液体で満たされていた。
そしてそこに、裸の少女が浮かんでいる。
まだ十歳にも満たないように見えた。
口を押さえる。
その奇異な姿に。
少女の腹には、丸太が通りそうな穴が空いていた。
左腕と左足がない。
その分ではないだろうが、右腕は少女の身の丈よりも長かった。
手首から先は変形し、肉の塊として筒の底にある。
「……人体……実験……」
呻き、中年男を睨み付ける。
「てめえは、糞だな……」
「憤るか? なぜ? ああ、君は『グン』の出身だったな。ふむ。友人たちが、人体実験の果てに死亡しているな。君も、同じような目に遭いかけた」
「……」
『グン』は、ホルン政府が秘密裏に設立した機関だった。
政府容認の暗殺者を育成する組織である。
そこでは、非合法である人体実験さえも行われてきた。
現在の国王により『グン』は解体されたが、苦い記憶はテイルータの中から消えることはなかった。
「憤る理由はわかった。だがそれを私にぶつける権利が、君にあるかね。君はつい先程、殺人を犯した。私は命を弄び、君は命を奪った。そこに、一体どれだけの違いが?」
「……」
不意を衝かれ、テイルータは踏み出しかけた足を止めた。
中年男の指摘通り、自分がやってきたことも、同じく非道なことである。
逃げるような心地で、中年男から視線を外した。
向ける先には、筒の中の少女がいる。
雨嫌いの中年男以上に、虚ろな眼差し。
「雨が降っていると、どうもね……。君が連れていくというのなら、私には阻むことができない。装置を止める手順は……。……まあ、君としては壊す方が早いな」
中年男の言うことを、まともに聞くのはやめよう、テイルータはそう決めた。
腹が立つ物言いでありながら、的を射るようでもある。
聞いても、心を乱されるだけだ。
「解析できない能力は、まともに利用もできない。ここに置いていてもね。しばらく前に、預けていた弟子が成長して戻ってきた。この少女も、誰かに預けることで変わることができないだろうか、と考えていたところだ」
中年男の言葉は聞き流し、テイルータは少女を見つめた。
少女は、虚ろな眼差しでテイルータを見つめ返している。
唇が、微かに動いていた。
(聞こえやしねえよ、糞っ垂れめ。そんなとこにいたらよ)
同類だ、この少女は。子供だった頃の、テイルータと。
一歩近寄る。
中年男は、椅子に座ったまま身じろぎしない。
筒に繋がる箱のような物体を、テイルータは短剣の柄で殴った。
少女の名前は、マーシャという。
これが、出会いだった。