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認識障害

 以下に記されているのは、ある占い師と客の記録されるに値する意味も無い会話の一部である。


 ――うん、太陽。さて、何を思い浮かべた?

 思い浮かべたモノに対して用は無いんだけど。

 思い浮かべたモノに対して、どんな印象を抱いた?

 良い印象か、悪い印象か。

 日本人なら季節の影響もあるだろうが、悪い印象はそう多くないと思う。

 でも、それが赤道直下の砂漠だったらどうだろう?

 とある国で日本の缶詰が売れなかった原因はパッケージの太陽の絵だったと言う話も有るとか無いとか。

 ああ、分かり辛い?目が納得してないね。

 じゃあ、太陽は何色?と言う質問に変えた方が良いかもね。

 日本人なら赤でしょう。日の丸ってのもあるくらいだから。

 でも黄色が世界基準だと一般的なんだってさ。

 じゃあ月は何色かと言うと、白が一般的。

 認識なんてこんなものなんだよ。条件によって変容するモノが認識。

 人間は高い頻度で認識障害を起こすのよ。

 代表的な認識障害で、特定個人或いは集団に対する好意的感情の極みがもたらす美化補正現象なんてもの有名だよね?

 知らない?一般的には恋は盲目と言われる認識障害として非常に有名なパターンなんだけど。

 あれだよね、恋ってのは心の隙間を埋めるモノじゃないの。心の隙間に巣食うモノだよ。

 だからあんたもいい加減――



 その光景を見ても、鮫島繭は驚かなかった。

 目の前の茫洋とした男が、自分を追い駆けまわす異形を箒で両断したのだ。

 異形は空気中に溶ける様に消えて行った。

「あー、貴方が富宮富弥さん?」

 鮫島がそう聞くと、目の前の茫洋とした男は一瞬嬉しそうな気配を漏らして、そうですよと答えた。

「えーっと、私はある人からここを尋ねろと…」

 鮫島が全てを言い終わらない内に、茫洋とした男は存じておりますと答えた。

「なら、さっき始末してくれたアレを永遠に始末する方法がここにあるってのは…」

 茫洋とした男はそれには答えずに、アパートの中へと歩いて行った。

 その背中は着いて来いと言っていた。

 アパートの外壁に取り付けられた鉄製の階段を昇って二階へと上がる。

 階段を昇ると北側に風呂とトイレと台所が見えた。

 茫洋とした男は北側へと歩いて行くと、奥から二部屋目の部屋の前で足を止めて振り返る。

 最初からそんな顔だった様な、初めて見た様な、なんとも印象が定まらない顔が鮫島をほんの一瞬だけ見た。

 その目線は腰に下げていた鍵束に移り、そこから一本の鍵を選ぶ。

 塗装が殆ど剥げた鉄製の扉に鍵を差し込み、扉の下部を蹴りながら回す。

 ごりごりと噛み合わない機構が動く音がして鍵は開いた。

 ドアノブを捻り扉ごと持ち上げる様に扉を引くと、強い抵抗を伺わせる音と共に扉は開く。

 茫洋とした男は部屋には入らず、鮫島に向かって中へどうぞと言った。

 通常の感性を持つ人間であれば躊躇う状況だが、鮫島は躊躇わない。

 部屋は四畳半一間に収納スペースが付いたもので、誰かが住んでいる様子だった。

 後ろで扉が閉まる音と、彼になんとかして貰えるかは貴女次第です、と茫洋とした男の声が聞こえた。

 余り物が置かれていないのに散らかった印象の拭い去れないその部屋の中心で、鮫島はどうしたものかと考えようとして、止めた。

 消えてしまいたいと、鮫島はそう呟いた。

 部屋の片隅に膝を抱えて座る。

 人の部屋である。何となく、男の人の部屋だと思った。

 男かと、鮫島は呟いた。

 女だからとか、男だからとかそう言った基準は鮫島には無い。

 鮫島にとって自分以外の人間は母とそれ以外しか基準は無い。

 母は死んだ。あの女達によって。

 元凶はあの男だ。生物学的にも法律的にも、父親となっている男。

 鮫島は逃げている。外野からも、異形からも。

 あの男は嫌いだが、あの男の残したモノは誰にも渡さない。

 ただの嫌がらせとして、誰にも。

 この部屋は、自分を追い駆けるどちらからも、見えない。

 鮫島はその理由や原理は知らない。

 それが正しい確証は無い。

 ただそう聞いただけ。

 でも信じてみようかと思う。なぜかと言われれば、そう言った女は明らかに人間じゃないだろうから。

 男なら惚れていたなと、鮫島は思い返す。

「いつかは、惚れた男に殺されたいな」

 自身が普通だと思っている未来図を呟いて、立ち上がる。

 押し入れが眼に入ったからだ。

 狭い。暗い。そういった場所に鮫島は惹かれる。

 襖を勢いよく開くと、そこにも殆ど物が無い空間が続いていた。

 押し入れによじ登り、襖を閉める。

 暗かった。狭いかどうかは、良く分からない。

 徐々に暗闇に目が慣れて行くその感覚を楽しみながら、鮫島は未だ会ったことも無いこの部屋の住人に思いを馳せる。

 異形を滅ぼせる男であれば、自身を殺すのも容易い筈と、胸をときめかせながら。

 どの位そうやって待っていただろうか。鮫島の眼は暗闇に慣れ切っていた。

 壁と壁が直角に繋がる角に目を凝らす。

 目を凝らせば凝らすほど曖昧になるその角を堪能しながら、ただ押し入れの中で時間を浪費していた鮫島は、男が戻って来た物音に気が付かなかった。

 そして襖は開かれる。

 闇に慣れ切っていた鮫島の眼は、通常の明度がまぶしく感じる。

 男に後光が射している様に見えた。その様に見えただけだが。鮫島には見えている。

 中肉中背の男だった。髪は長くも無く、短くも無く。

 眼鏡は掛けていない。アクセサリーも着けていない。服装もこれと言った特徴は無い。

 匂いもしない。体臭とか香水とか煙草とか、そう言った系統の話では無い。

 人間の匂いが薄かった。

 左右の眼は少し違った方向を見ていた。

 虹彩が異常だと、鮫島は最初にそう思った。

 何がと言われても良くは分からないが。

 総合的に、鮫島が抱いた感想は一言である。

 殺されたい。

 これは一目惚れと言うべきなのか。

 突き出されるナイフを見ながら、鮫島はそう自己分析していた。

「待って!」

 殺されるのは本望なのだが、今ここでそれは無いと思った。

 ちゃんとした状況が欲しいと、何だか初めてキスされるのに幼稚園児の遠足が執り行われる公園は違うとか、そう言った感情が鮫島に声を出させていた。

 現金を見せたのは、鮫島にとっての誠意みたいなモノである。

「ちょっと頼まれてほしい事があるの。お金ならもっとあるわ」

 そう言って自らの顔の横に札束を一束、掲げた。

「それは報酬か?」

 男の声は思ったより少し高かった。でも嫌いじゃないなと思って、満足感を表現する為に数度頷いた。

「私を世間から隠して欲しい。手段は問わないから。そしたらこのお金を全部あげる」

 色々と常識が変質している鮫島からすれば、告白に等しい言葉である。

 自分にとって価値がある物が、相手にとって同質の価値がある保証は無い事を、鮫島は理解しない。

 そして脈絡無く本音が漏れる。

「私を殺して」

 何とも言えない空気が漂った。その空気に鮫島は気付いていなかったが。

 だからと言って、今この場で鮫島繭を殺すのは男の美学に反した。

「…準備がいるな」

 良い声だとか鮫島はそんな事しか考えていない。

 本格的に相手を自分の物にしたくなった鮫島は、札束を男の胸ポケットに捻じ込んだ。

「前金よ」

 その言葉は照れ隠しみたいな物だったが、言われた本人は風鈴が鳴るような涼しげな笑いしか見えていないのだからどうしようもない。

「鮫島繭」

 そう言えば名前を伝えていなかったなと、鮫島は自分の名前を告げる。

 自分の名前だけを告げる。

 そう告げて、残りのもう一つの札束を取り出す。

 可愛いアクセサリーでも取り出すかの様に。

「南那洋々」

 男が自らの名前を言う。

 双方の意思が疎通された初めての会話であったが、当の本人達にとってそれは些末な事である。

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