3
奴の娘フィルメリアは、これまた賢い子どもだった。賢いというのは、物覚えがいいだとか、物事の理解が早いだとか、そういう事ではない。
人の心の機微に非常に敏感な子どもだったのだ。
物陰からこっそりとこちらの様子を伺い、ラードルフたちの機嫌の悪い時には絶対に近付いて来ない。その観察力を培うまでに、フィルメリアは顔に青アザを何度も作ったりしていたから、子どもが子どもなりに生きていく術を見つけ出した結果の能力だろう。
慎重に、部屋の端からひょっこりと顔を出し、僅かな物音にも脅え隠れる姿は、さながら懐かない野生の小動物、と表現するのがピッタリな光景だった。事実、フィルメリアはラードルフ達を警戒して、必要以上は踏み込んで来なかったのである。
ラードルフはその事に、内心安堵と憐憫が入り雑じる複雑な思いを抱きながら毎日を過ごす。
子どもが傷付くのを見るのは気分のいいものではない。けれど下手に懐かれて情でも湧いてしまえば、それこそ奴の思い通りになる。それはそれで癪だ。男の矜持とやらが、ラードルフに一歩を踏み出す事を邪魔したのである。
一歩進めば二歩後退するような関係が続く中、そして転機が訪れた。
思えば獲物は確かに違和感が強かった。
小汚い馬車なのに、それを押している馬は妙に毛艶がよく、いつか見た軍馬のように引き締まった身体をしていたし(襲撃の際に足を負傷。走れない馬の末路は決まっている。後で美味しく頂いた)、御者台で事切れていたそれを操っていたらしき人間は、馬車に似合う簡素な旅人の服を着ているのに、妙にでっぷりとした巨大な体躯に顔の色艶が妙に良かった。これは明らかに、良い物を食べている食に困ったことの無い者の証であり、そして小汚いそれらは何か高価な物を運ぶためのカモフラージュだということだ。
どうやらなにか『商品』を売った後だったようで、沢山の収穫があった。
これらを見ると、皆とても盛り上がって喜んだ。いわく「護衛代ケチったのが仇になっちまったなぁ、てめえの命は金で換えねえってのに」「ま、おかげで楽に殺らせてもらったがな」だ。
ところが、売れ残りの“商品”があったのである。
フィルメリアが臆病な小動物だと例えるのならば、そいつは手負いの獣だった。
手負いの獣ほど厄介で恐ろしいものは無い。生存本能のままに、決死の覚悟で牙を立ててくるのだから堪らない。
どこか諦めたような気だるい動作で従いながらも、俯く髪の隙間から僅かに覗いた瞳からは、虎視眈々と獲物を狙う獰猛な獣を思わせる物騒な光が見えた。
その目を見たとき、ラードルフの背筋は震えた。それは、長年危険な場所に身を晒してきた者特有の勘というやつかも知れない。
―――“これ”はヤバい……
目の前で、年端もいかないと子どもが殺されるのは目覚めが悪いと、赤髪から“これ”を庇ったのはラードルフだ。それなのに、今はとんでもない事をしてしまったような気がしてならない。一瞬だが、確かに見た。―――赤い瞳。血のような不吉な色。初めて見るその色に、ラードルフは慄いてしまった。
しかし助けた手前、赤髪の目もあり仕方なく砦へと連れ帰る。
肩には気絶したフィルメリア。そして左には得体の知れない少年。
「……おい、名前はあんのか? どっからきたんだ?」
「…………」
どんなにラードルフが話し掛けようと、少年は沈黙を貫く。仮にも檻から助けた恩人に対する態度ではない。
見慣れない褐色の肌に、悪目立ちする薄い色素の髪色。
結局は助けた“それ”を、もて余してしまったラードルフは、苦肉の策として地下の薄暗い牢屋に閉じ込める事にしたのである。
子どもは子ども同士、気が合うのかも知れない。
手枷が外れた少年に、フィルメリアはあっという間に懐いた。
「アディール、って、いうんだって」
嬉しそうにラードルフに報告するのは、ふにゃっと顔を緩めたフィルメリアだ。
「アディールの言葉はね、魔法の呪文みたいなんだよ」
にこにこと、ご機嫌な様子でフィルメリアは続ける。
「それでね、アディールは“だめ”と“いいよ”と“ごはん”をもう覚えたんだよ!」
「そうか。まあ、あれだ。お前の弟分になるんだから、ちゃんと面倒見てやれよ」
「……おと、と、ぶん?」
「ええと、あれだ。一緒に付いてやって駄目な事を教えてやったりだ」
そう、何故かラードルフも懐かれた。牢屋に入れたアディールとやらに、罪悪感が芽生えたラードルフが馬車へ手枷の鍵を探しに行ってからである。
つい最近では、ラードルフが大事な武器である斧を研ぐ様を、フィルメリアは近くでしゃがみ込み、じーっ、と見てきた。これにはラードルフも戸惑った。
子どもが、しかも女の子がこんなものを見て、楽しいのだろうか?
アンジェリカは花を編んで造った冠や、木の実に穴を開け紐を通した簡素な首飾りをあげたら喜んだ。他にも木で動物を象ったものを作ってあげても喜んだ。けれど、ここにはそんな物はない。
なにか、喜びそうなもの。なにか子どもが喜ぶようなものは無いか?
「なに見てやがる。んなもん見て、何が楽しい?」
沈黙に耐えかねたラードルフが発した言葉は、お世辞にも子どもに優しくない。オマケとばかりに仏頂面に不機嫌な低音だ。
ところがフィルメリアはそんな事には動じずにパチクリと瞳を瞬かせては、こっくりと頷く。頷いては、ラードルフが作業する一挙一動を見守るように、じーっと見てきた。
妙にむず痒いような、くすぐったい気持ちに教われながらの手入れは大変だった。
子ども同士の仲間が出来た事で、どうやら子ども本来の顔に戻ってきたようである。何にでも好奇心旺盛で、大人に甘える子ども本来の顔。
そしてそれは、アディールにも言えた。
「アディール、“だめ”! アディール、“だめ”!」
フィルメリアの可愛らしい声に制止されて、ぴたりと動きを止める少年アディール。「うんとね、うんとね、」と一生懸命に“だめ”な事を説明するフィルメリアと、それを真剣な様子で聞くアディールはなんとも微笑ましさを誘った。
他にも「アディール、“ごはん”。“ごはん”だって」と呼ばれれば大人しくフィルメリアの隣に佇み、更には「あ、アディールだ!」とフィルメリアに呼び掛けられれば、嬉しそうに近寄って行く。
…………犬?
傍目からどう見えるかはさておき、当人達は言葉の壁をものともせずに親愛を深めて行ったのである。
砦の外に向かう小柄な人影に、ラードルフはギョッと目を見張った。
急いで見張り台へと視線をやると、ぽつんと佇む小さい姿にほっと胸を撫で下ろす。いや、安心している場合ではない、フィルメリアでなければ、出ていった人影は間違いなくアディールだ。砦の周辺は満足な手入れはされておらず、直ぐ近くに鬱蒼と茂る木々のおかげで獣が近くに潜んでいても分からない。気休めでも安全とは言えない。
子どもが一人で出ていいような場所では無いのだ。
しかし、得体の知れない異国の子どもは、本当にただの子どもなのだろうか。ラードルフが初めて出会った時に感じた、あの得体の知れない胸騒ぎ。もしかしたら、魔物が人の形を……
そんな考えを振り払うように、慌てて後を追ったラードルフが見たのは、目を地面に凝らしながら何かを探すアディールだった。
「勝手に外に出るんじゃねぇ!」
ラードルフが怒鳴ると、親に悪戯がバレてしまった時のように顔を歪ませる。
「***、********……」
しょんぼりと肩を落としながら何かを喋るが、ラードルフには全く理解できない。と、よく見れば、片方の手が着ている服の裾をまる捲り上げている。痩せた腹が丸見えだ。服をまるで入れ物のように使っているらしい。
ラードルフが中を覗き込めば、中に何かを入れている。茶色の木の実だ。砦内に落ちている木の実だ。
いや、耳慣れない言葉の中にラードルフも良く知っている単語があった。
“フィル”だ。
つまり、まさか。ラードルフの中で、不可解なアディール少年の行動が繋がる。
言葉も通じない相手に手っ取り早く好かれる為にする事といえば、成る程、この木の実は全てフィルメリアへの貢ぎ物と言うわけか。……フィルメリアのやつめ、あんな子どもの時分から男に貢がせるなんて、将来は一体どんな事になるのやら。
せっかくなので、ラードルフも近くに落ちていた木の実の一つを拾って即席の入れ物に入れてやる。
「ほれ、こんだけありゃ十分だろ。戻るぞ。……ええと、“だめ”だ。ほれ、“だめ”」
細い肩を掴みながら、砦へ戻るように促す。
アディールはと言えば赤い瞳を真ん丸くさせてラードルフを見上げていた。そこに初めて会った時に感じた、あの得体の知れない戦慄は微塵も感じない。
……なんだ、普通の子どもじゃないか。