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すっかり遅くなってしまった。
見張り台に続く階段から、そっと顔を出す。
そこには案の定、フィルメリアの探し人がいた。それもそのはず、今まで日の出ている内の見張りの仕事はフィルメリアの役目だったのだ。それを少年と代わりばんこに勤めるようになったのだから、フィルメリアが見張りをしていない今、少年が見張り台にいるのは当然の事だ。
とはいえ、日は随分と傾いているので、夜を見張る大人と交替している可能性もあったが、紅の空の下で寂しそうにポツンと佇む背中を見て、フィルメリアは安堵の息を付いた。間に合ってよかった。
「あのね、手を出して」
思い切って話し掛ければ、細い肩が僅かに揺れた。ゆっくりと振り返る少年の様子を確認したフィルメリアは、もう一度話し掛ける。
「ね、手を出してみて」
まるで握手を求めるかのように、フィルメリアは見張り台に居る少年へと手を伸ばす。
斜陽の光が頬を照らす中、いつかみたいにならないように、フィルメリアは少年が動くまで、根気よく手を差し伸べて待った。
フィルメリアの方が背が低いから、少年の表情が俯いていても下から覗き込めて良く見える。常に無表情を保っていた口が、ようやく躊躇いがちに小さく動いた。
「……***、****」
フィルメリアはキョトンと目を瞬く。
「えっ、何? なんていったの?」
全く聞いたことのない言葉。耳触りの無い異国の言葉は、フィルメリアには不思議な呪文のようにも聴こえた。しかし、そんな感想も一気に吹き飛ぶ。
大変だ、何を言っているのか全然わからない! どうしよう!?
慌ててふためくフィルメリアは、少年に差し出していない、もう片方の手に握り締めていた硬い鍵の感触でようやく目的を思い出す。
「うんと、うんとね」
しかし何と伝えたらいいか、検討もつかない。
もしかしたら、とフィルメリアは思う。少年は、ずっとフィルメリア達が何を言っているか分からなかったから、黙りと口を噤んでたのかも知れない。
「ええと、手! 手! 手を、だすの!」
身振り手振りで意思を伝える。
「かぎ、かぎっ! 手っ、手!」
ずっと握り締めていた鍵を少年に見せれば、それまでは緩慢な動きだった少年に変化が見れた。ひゅっと息を吸い込んだかと思ったら、静かに息を吐いてはゴクリと息を飲んだ。
ピリッと緊張した空気が辺りを漂う。
やがて、ゆっくりと恐る恐るといった様子で手枷の付いた手をフィルメリアに差し出した。
直ぐに鍵穴へと鍵を差し込む。くりんと回せばカチリと手に確かな手応えが返ってきた。
音を立てて落ちる手枷。ずっと俯いていた少年がようやく顔を上げた。自由になった両手を、確認するように何度も指を開き手首を回し、瞳を瞬く。
フィルメリアは驚いた。
真っ赤な目。
そんな色の目をしている人をはじめて見た。いや、そう言えば一度だけ、馬車の中でも見かけたような気もする。あの時はとにかく気が動転していて、気が付かなかった。
固唾を飲んで様子を伺うフィルメリアに気付いた少年は、突然顔を両手で覆った。
「えっ、なんで隠すの!?」
よく分からないが、顔を見られるのは嫌ならしい。
だが腕の隙間からは赤色の目がフィルメリアを覗く。
そんな少年の様子に、フィルメリアは口を尖らせた。
なんだかズルい。少年はフィルメリアをじろじろと見るのに、自分が見られるのは嫌だなんて。それに赤色の瞳は夕焼け空みたいに綺麗だった。
もっとよく、見てみたい。そんな欲求と、枷を外した強みがフィルメリアを大胆にさせた。
「夕焼けと一緒、僕にもっと見して! 自分だけ隠すのはズールーイー!」
無理やりひっぺがそうと掴みかかったフィルメリアに、少年は抵抗する。しかし、いつかみたいに思い切り腕を動かし、振りほどいたりはしない。
「*****!」
「なんていってるか、わかんないもん!」
しかし、それは少年も一緒だ。今までと比べて強い調子のそれは、拒絶の言葉にも聞こえる。どうすれば伝わるのだろうか。
手の力を緩めれば、再び隙間からこちらを窺う視線を感じる。
フィルメリアは頭を悩ませる。さっきは鍵を見せたら、意図が伝わった。その要領でなんとか伝わらないだろうか。
ふと、頬を照らす強い光に気が付いた。
これだ!
右手で真っ赤な夕陽を指差して、左手でフィルメリアは自身の目を指差す。
「目っ、目っ、いっしょいっしょ!」
ぽかんと立ち竦む少年にも分かるように、両手をうんと大きく広げる。
「きらきら、キレイ、だから見たいの!」
ゆるゆると顔を覆っていた腕の拘束を解きながら、呆気に取られた少年の表情に、急にフィルメリアは不安になってきた。
「……わかる?」
首を傾げる。
少年はくしゃっと顔を歪ませた。泣いているような、笑っているような不思議な表情だ。
この顔を見たフィルメリアは、よくは分からないが、胸を締め付けられるような感覚を覚える。
「*****、******」
何かを乞うような声音だが、やはり何を言っているのか分からない。けれど、フィルメリアに初めて真正面から向き合ってくれたことは素直に嬉しく感じる。
緩まる頬に力を込めながら、少年の一挙一動を見守った。
やがて躊躇いながら夕陽を差した少年はそのまま指を自身の目を差す。伝わった!
フィルメリアは、にこにこしながら何度も頷く。やれば出来るものだ、と達成感溢れる気持ちでいっぱいだ。
「アディール」
再び聞き慣れない単語にフィルメリアは首を傾げて少年を見上げた。
「あでー?」
少年は自身に指差しながら何度も同じ言葉を繰り返す。
「アディール」
「アデ、イール」
「アディール」
「ア、デール」
「アディール」
「アディール」
何回か繰り返す内に上手く言えるようになった。赤色の瞳は期待に満ちながら、じぃとフィルメリアを見てくる。
これはもしや! フィルメリアはピンと閃いた。
「アディール」
少年の目を見ながら、先ほど覚えた不思議な言葉を言うと、今度こそ、ちゃんと笑った。やっぱり、これは名前だ。
そしてアディールは、自分を指差し「アディール」と言ったかと思えば、フィルメリアを指差して首を傾げてみせた。
これは、もしかしてフィルメリアの名前を聞かれているのだろうか? だとすれば、フィルメリアは少し頭を悩ませた。
実はフィルメリアは、父親から名前を言わないように言い付けられていた。どうしても、名乗らないといけない場合だけ、“フィル”と名乗るように、と約束したのだ。その約束は、約束の意味が理解できたなら、名乗ってよい、とも言われた。
残念ながらフィルメリアは、なぜ父さまがそんな約束をしたのかまったく分からない。でも、父さまの言うことは、ちゃんと守らなければいけない。
今も一生懸命、約束の意味を考えたけれど、検討もつかない。
だったら、仕方がない。父さまがフィルメリアが大きくなったら分かるといっていたから、それまで待とう。
「……えっとね、僕はフィル」
「エットネ?」
違う違うと首を振る。
「フィル」
「フィ、ル」
真っ赤な瞳がフィルメリアを見詰める。
「フィル」
久方ぶり他人の口から発せられた名前。名前を呼ばれる事が、こんなにも嬉しいことだったなんて。
フィルメリアは、にこにこと何度も頷く。
嬉しそうに何度もフィルメリアの名前を繰り返すアディールに、くすぐったい気持ちになった。