第十話:千里(前)
千里の過去編です。
前後編か前中後編になるかわかりませんがお付き合いください。
ラブストーリーです。え?千里でラブストーリーとか思わないわけじゃないよ。私も。
儚いうたかたよ。そう遠くへは行けはしまい。
だけど叶うなら、彼岸に眠る彼の人まで…。
どうか届いておくれ。
清々しい朝だった。
だと言うのに、外へ出てすぐに千里は顔をしかめた。
微かな血の匂いが、千里の鼻腔を掠める。
千里はそれを辿るように裏庭の木に近付いた。
「なんだ?縄張り争いにでも敗れたか?」
見上げる千里に、木の上の人型は少し驚いたような気配を見せた後、隠れるのは無駄と悟ったのか、フンと鼻を鳴らした。
「犬猫じゃあるまいし、そんな低俗な真似、俺がするはずがないだろう?」
光が差して、見えた人型の顔は白い鱗に覆われていた。
「…蛇の眷属と見えるな。見たところかなり力を持っているように見受けるが、その怪我はなんとした?」
「如何にも、俺は蛇神と呼ばれた大妖。…それなのに、恐れ多くもあいつ、俺の縄張りに卵を生み付けおったのだ」
「なんだ?やはり縄張り争いか?」
「争いなどではない!争う間でもなく、あの地は俺のものだ。…あの卵が、孵化さえしていなければこんな傷も屈辱も、受けることはなかったのに…」
千里は首を傾げた。
「なんだ?負けたのか?」
「口に気をつけろよ、人間。俺が負けるものか!子どもを生んで力を付けた様だがあの程度、傷が癒えたらすぐに捻り殺して、俺の縄張りを取り換えしてやる!」
息巻く妖怪に千里は笑う。
「だったら降りてこないか?いい薬がある。それにちょうど、朝食もできている」
「馬鹿にするな。人間などに施しを受けるものか」
「何、気にするな。お前は蛇神なのだろう?神に尽くすのは人の役目だ」
言って、スタスタと家に戻る千里の背を見て、妖怪はしばらく逡巡していたが、焦れたように声を上げた。
「おい、人間!日傘を持って来い!日の光は傷に毒だ」
千里は振り向く。
「ああ、それは気付かなかった。日傘なんて洒落た物はないが待っていろ、衣を持って来る。頭からかずいたら日も遮断できるだろう?」
「…」
家の中に入り、衣を抱えて戻ってきた千里に、妖怪は尋ねる。
「女、名は?」
「ん?私は千里だ。お前は?」
千里の差し出した衣を受け取るために述べられた手は、骨張って爪が長く、大きくて、やはり鱗に覆われていた。
「白雨だ。この衣、少し汚れるぞ?血が止まっていないのでな」
「傷がひどいのか?」
「フン、奴の子どもを何匹か殺したのでな。数百匹といる子どもの一部に過ぎずとも、やはり親にとったら子は子ということか。弱くとも怨みの傷。そう簡単には塞がるまい」
頭から衣をかずいて地に降りた蛇神のその様は、妖怪と分かっていても神々しさを感じるもので、血に濡れた左肩さえ、彼の彩りの様だった。
白雨の見た目は青年だった。
しかしもう何年も生きている。そしてまた、何年も生きるという。
分かっていた。人と妖怪が同じ時間の中に生きられないこと。
それでも、二人は惹かれあっていた。
「白雨、薬を付けるから家に入れ」
千里に呼ばれて、白雨は庭の木から降りる。
左の袖から腕を抜き、千里に背を見せて三和土に座り込む。
「じきに冬になる」
「…ああ」
「木の上で眠るのは、そろそろ無理があるのではないか?」
後ろを向く白雨に、千里の表情は見えない。
「心配するな。俺は冬の間長く眠る。そうすればこの傷も完全に癒えるだろう」
「…そうか」
「だがだいぶ癒えたな。千里のお陰だ。小物とは言え、妖怪が付けた怨みの傷を癒すとはな」
千里は微笑んで、傷を撫でる。
「傷が癒えたら、ここから離れるのか?」
「……ああ」
「また戦うのだな?」
「無論だ、あの地は、俺のものだからな」
「相手も力を付けていよう?」
「どれほど力を付けようと、俺の敵ではない」
「そうか…」
千里は薬の壺を開き手を付ける。先程、傷を撫でたのと同じ手付きで薬を塗り、布を貼る。
「千里」
「なんだ?」
「それほど俺と離れ難いなら、俺と共に来い」
「…」
白雨は千里に向き直り、微笑んで口付ける。
「返事は急がん。どうせじきに冬になる。その間、俺は動けんからな。ゆっくり考えればいい」
「…白雨…」
「俺は、千里が来てくれると心強い。敵の、子どもたちも成長しているだろう。負ける気はせぬが、傷を負わんとは言い切れん。お前が癒してくれると有り難い」
「……包帯を巻く。後ろを向け」
「ああ、頼む」
長い冬は千里を迷わせた。冬の間、一目として見れない愛しい姿。ゆっくり考えろと時間を与えられた冬は、思いのほか長かった。
毎年、この長い冬を過ごすのはひどく辛いことに思えた。
しかし、それは耐えられないことではない。春になればまた共に過ごせる。耐え難いのは、白雨にもこの思いを味わわせること。
人の寿命は短い。
千里が死んだ後、白雨は明けぬ冬を過ごすのか。
そして千里は、人の道を、一つ外れる。
春を迎え、目覚めた白雨に、千里は微笑んで告げた。
「お前と、共に行く」