第一話:心太
「おやまぁ…」
個体は言った。
個体の前の木の根元に、なにかモヤモヤしたものが凝っている。
「この時代にまだ神隠しなんて起こす力を持つモノがあるのかねぇ」
個体はそう言って、モヤモヤしたものをそっと撫でた。
するとそれは徐々に形を表し、木の下に蹲った少年になる。少年は自分に触れた個体を見上げた。
それは左右で色の違う目を持った若い女だった。
右は黒で左は金の目を持った不思議な女は少年を見下ろす。
「名は?」
女は問うた。
「…桜田、心太」
少年が答えた。
「歳は?」
「十五」
女は心太の意識がはっきりしていることを確かめてから、自分も名乗る。
「私は千里だ。お前は神隠しにあって、ここへ来た。分かるか?」
「分かる」
「冷静だな?お前の周りでは神隠しは珍しくないということか?」
心太は少し考えてから頷いた。
「…うん。実際に神隠しになんてあった人は見たことないけど」
「ふん?まぁいい。お前は賢そうだからウチで使ってやる。ついて来い」
心太はしばらくその場を動かずにいたが、振り向かない千里の後ろ姿に焦れたのか、徐に立ち上がって千里の後を追う。
「千里…さん、ここは、どこなの?」
問うと、千里は立ち止まって振り向いた。
「狭間の国さ」
「狭間?」
心太は首を傾げた。
「現世でなく、常世でない所さ」
「…」
訳が分からず黙りこくる心太を嘲笑うように千里はまた訳の分からないことを言う。
「神でなく、人でないモノの世界さ」
「あれでなく、これでないばっかりか…。それじゃ結局ここはどこで、俺はなんなんだ?」
心太の問いに千里は笑い、また前を向いて歩き始める。
「…ふん、さっきから言ってるだろ?ここは狭間の国。そしてお前は」
千里は再度振り返り、心太を見下ろして少し笑う。
「心太、だろ?」
「…そんな、当たり前のこと、訊いてない」
心太は、納得できないと言うように口を尖らせた。
「そうか?しかし私は学がないからな、当たり前のことしか分からないさ」
「…大人のくせに?」
「大人になるほど当たり前のことしか見えなくなるのさ」
心太は首を傾げたが、何も言わずに歩き始めた千里を追いかける。
「最初、俺じゃなかった俺に触れただろ?そしたら俺は俺の形を取り戻した」千里は薄く笑う。
「お前は他のモノの気に浸されてふやけてたんだ。けれどお前はずっとお前だったさ」
「よくわからない」
「わからなくていいよ。あたしの言う通りに働いてくれればいいんだ。そのうち理解もするだろう」
心太は不満げにしていたが、ふと気付いて問う。
「…俺はあんたのとこで何の仕事をするの?」
「何、使いっぱしりさ」
千里は悠々と笑って遠くに見える小屋へ向かって行った。
「あたしは目が見えない」
小屋に入るなり千里は薄く笑って言った。
小屋は千里の家で、昔の百姓の家みたいな粗末なものだった。
板間の中央に囲炉裏があり、広い土間の隅には藁や薪が置いてある。
千里は板間にあぐらをかいた。千里があぐらをかいた途端、勝手に囲炉裏に火が入り、それを見ていた心太は驚いた。
心太は驚きついでに千里を見る。
「…見えないってどういうこと?」
「そのままさ。盲目ってことだよ」
心太は不思議そうに千里を見る。彼女はまっすぐ心太を見返す。
「見えてるだろ?」
「見えるのはこの世界でだけだ。現世ではこの目は利かない」
心太は左右非対称な千里の瞳を見た。
「どういうこと?」
「聞いた通りさ。人間の世界では何も見えないんだ」
千里は言ってから首を振った。
「いや、違うな。何も見えない訳じゃない。こちらの目は見えないが、こちらの目には人でないものが映る」
千里は最初に黒い目を示し、次に金の目を示した。
「人で、ないもの?」
千里は頷く。
「あたしは昔からそういうのがみえたんだ。人間の世界にいたときからね…」
「人間の、世界…」
心太の呟きに千里も寂しげに笑う。
「恋しい我らの故郷さ」
千里は言い、そして話を続ける。
「あたしは盲目だったが、代わりに人には見えないものを見る力があったから、この国に送られて、ここの奴等の世話を任された」「…力?送られてって、誰に?」
「ここより現世から少しだけ遠い国、常世。そこに住まう神々さ」
千里は狭間の国で、教師をしていた。
きまぐれに子供たちを集めて地面に字を書いて教えたり、小石を使って算術を教えたり、山へ連れて行って毒草や薬草、きのこの種類などを教えていた。
最初、心太の仕事はその手伝いや千里の家の家事などだった。
「心太」
裏の井戸端で食器を洗っていた心太は呼ばれて振り向く。
「ちょっと遣いを頼まれてくれないかい?」千里は一方的にあれしろこれしろ言うだけで、やってくれるか?などと訊いたことはない。心太は怪訝そうにしながら問い返す。
「なんですか?」
「ちょっとね、ある地方豪族の姫が狭間の国に来ちゃっててね、帰らせてやってほしいんだ」
千里の言葉に心太は過剰に反応する。
「帰れるんですかっ!?」
しかし千里の返事は困ったような、残念そうな苦笑と共に返る。
「あんたはダメだよ。まだ現世で姿を保つことはできない。でもその姫さんは自分から来ちゃった迷子だからね、帰れるのさ」
心太は落胆したが、不思議な言葉に首を傾げる。
「…自分で来た?」
「まぁ普通は来れないんだけど、よほどの力があるのかね?」