4.別れの時
いつものベッドで目を覚ました怜は、窓辺に寄り添っている愛の方へ近づくと、そっと後ろから抱きしめた。
「眠れなかった?」
「・・・怜ちゃん・・・。」
「泣かないで愛。泣いては駄目よ。吸血族が食欲を感じるのは血だけじゃないって、魔族の体液全てに情欲を抱くって、習ったでしょう?」
「うん、うん、でも、もう会えないかもしれないから。」
「ゼフィーニアから迎えが来たら、もう泣いちゃ駄目よ。」
「うん・・・。」
「大丈夫よ、愛。留学の期間は1年だけ。そこを無事乗り切ることが出切れば、また一緒に暮らせる。もし愛がゼフィーニアに囚われたままでいたら、必ず私が迎えに行く。心配しないで、愛。」
「うん、怜ちゃん、気をつけてね。」
「ええ、大丈夫。私は、大丈夫よ。愛も、しばらくは自分の身は自分で守るのよ。」
「・・・うん。」
力強くお互いを抱きしめる。森の木々のこすれあう音と、鳥の鳴き声だけが室内を満たす。そこに、無機質な扉を叩く音が響く。
「失礼いたします。アイ様、レイ様、そろそろご準備を。」
「わかった。私はドレスは着ない。乗馬用の服を持ってきて。アイは乗馬は苦手だから、普通に馬車に乗って行くといいわ。」
「うん。」
数ヶ月の間にいろいろなことを身に着けた。乗馬もしかり、怜に至っては剣術の手ほどきまでうけた。もともと運動部であったこともあり、体力もあり勘も良い。一方愛は昔から運動が嫌いであったため、怜が武術などを学んでいる間は、魔術についてより深く学んだ。この世界での魔術は基本的に魔方陣を必要とする。この世の理をぎっしり詰め込んだ魔方陣を媒介にして、魔力を発動させる。魔方陣なしで行える事と言えば、愛と怜が必死になって身に着けた魔力の防御壁や、軽く風を起こす程度だ。魔術があると知った怜は当然移動も魔方陣の上に乗って瞬時に移動するのだろうと思っていたのだが、侍女はやんわりとそれを否定した。
「お手紙や小物でしたら転移可能ですわ。けれども、人程の高さがあると途中で切れてしまうのが現状です。転移の魔方陣はまだ未完成な状態なのです。レイ様やアイ様がいらしたように、界を渡るのと、転移とは全く別の物ですわ。」
かくして移動は馬や馬車が主流という。予想以上にローテクノロジーな世界に怜は思わずため息をついた程だった。
「でも確か女王は・・・。」
魔方陣もなしに怜と愛をこの国に呼び寄せ、言葉を与えたのではなかったか。
「母様と。陛下は、あのお方は特別なのです。ああいったことは普通の魔族に出来ることではありません。」
どう特別なのかとさらに聞き出そうとしたが、侍女がのらりくらりと怜の質問をかわしたので、結局わからず仕舞いだった。
「アイリフィア様、ゼフィーニアからの使者がご到着なされました。」
「は、はい!」
緊張のあまり、愛の声はどこか上ずっている。
「謁見室にいらしてください。女王陛下と使者の方が既にお話をなされておいでです。」
「はい・・・。」
何度も深呼吸をし、元いた世界では着たこともないような、裾の長いドレスを踏みつけないようにゆっくりと歩く。後ろから怜が付いて来てくれているのが心強い。
「し、失礼致し・・・ます・・・。」
最後は蚊の消え入りそうな声になったが、それでも愛にしては頑張ったほうだった。顔をあげることは叶わず俯いたまま前にすすむ。
「おお、アイリフィア、来たか。」
それまで女王と面会していた使者十数名が一斉に立ち上がり、愛に向き直って片膝をつく。
「彼等がゼフィーニアの使者故、挨拶をすると良かろう。ゼフィーニアも気を使って、魔族のみの編成にしたようじゃ。これならアイも怖くなかろう?」
「は・・・はい。あの・・・えっと、アイリフィアと申します。どうぞ、お手数をおかけいたしますが、・・・その、よろしくお願いいたします。」
ゼフィーニアの使者団のリーダーと思しき男がさっと顔を上げる。
―王女自らが望んでの、留学ではなさそうだ。
それが愛を見た最初の印象だった。ついで、愛の大きく真っ黒な目に涙が浮かぶのを見て面食らう。吸血族にとって食欲と性欲は表裏一体だ。それ故、魔族の女性であれば、血を流すな、涙を見せるな、と幼少の頃より叩き込まれるものだ。吸血族の食欲と性欲を誘うそれは実に卑猥なもので、人目に見せるのは恥ずかしいことなのだと教えられる。魔族の女性が涙を見せるのは、男を誘う時のみだ、と。
愛の涙からは芳醇な魔力の香りが漂う。使者団は表にこそ現さないが内心ではかなり動揺を見せていた。魔族同士であってもやはり強い魔力には惹かれてしまうものなのだ。
「愛、涙!」
怜に後ろから声をかけられ、弾かれたように慌てて愛は涙を服の袖で拭く。けれども恐怖から涙は止まらないようで、堪らず後ろを振り返ると怜に駆け寄った。怜は愛を優しく抱きとめると頭を撫でる。
「それで、そちらの自己紹介は?」
怜の鋭い睨みを受けて、男は慌てて持っていた剣を床に置くと、しっかりと怜の顔を見据える。
―彼女が双子の姉ですか。なるほど、良く似ているが、こちらは気が強そうだ。
「ゼフィーニア第二近衛隊隊長、ルーイガント・ヴィルヒアイスと申します。第二王子メディシス・フォル・ラ・ゼフィーニア殿下の命を受け、アイリフィア様をお迎えに参りました。」
「そう、アイはこの通り泣き虫なのですが、どうぞ、しっかりとお守りくださいね。」
怜から発せられる禍々しいばかりの魔力に圧倒されながら、ルーイガントはしっかりと頷く。
「お任せを。」
その言葉を聴いて脅すように使者団を覆っていた自分の魔力を怜は収束させる。
「愛、大丈夫?さあ、泣き止んで、悪くなさそうな人達だし、きっと大丈夫よ。」
「うん、最後までゴメンね、怜ちゃん。」
「最後じゃないわ。近いうちにまた会いましょう。遅くとも、1年後には。」
「・・・うん。」
王宮の外に出るまで怜の手をしっかりと握り、まるでドナドナの子牛のように、何度も怜の方を振り返りながら、ゼフィーニアの使者団が用意した馬車に愛は乗り込んだ。
「・・・怜ちゃん・・・。」
「愛、しっかり気をもって!」
「・・・うん。」
「それでは、1年間、王女をお預かりいたします。」
「私の妹に何かあったら、その命、無いものと思いなさい。」
低く発せられた怜の言葉に苦笑するどころか、ルーイガントは真っ直ぐに受け止めて深く腰を折る。
「承知いたしました。この身に変えましても、必ずやお守りいたします。」
「行って良い。」
「はっ。」
怜の許可を受けてルーイガントは軽やかに馬に飛び乗り、部下に出発の合図を出す。動き出した馬車の窓から心細そうに顔を除かせている愛に、怜は手を振り続けた。そうして馬車が見えなくなってもしばらくその場から動けなかった。
「レイ様、風が冷とうございますから、どうぞ中へ。」
侍女に声をかけられ、仕方なく怜は一度王宮内に戻る。
「ゴルディアの使者はいつ頃来るの?」
「午後には。」
「そう。」
侍女はちらりと怜の顔を盗み見る。その表情からは何も読み取れない。怜はこの数ヶ月で驚くほどの強さを見せた。魔力の防御壁はそう何日もしない間に、どの侍女でも打ち破れないほど強固になったし、その膨大な魔力を怜は自由に操って見せた。まったく魔力がないように、気配を消すことも出来るようになった時には、驚きで目を見張ったものだ。その強さが仇にならなければいいのだが、と侍女は不安を覚えずにはいられなかった。
日が高くなり昼食も一通り取り終わった頃、ようやくゴルディアの使者団が到着したとの連絡が入った。謁見室へ向かえば使者は六名、ゼフィーニアよりもずっと少数の部隊だった。ゼフィーニアの使者団が貴族のごとく紳士的で穏やかそうであったのに対し、こちらはあらゆる戦場で揉まれてきたような、精悍な顔つきの男達ばかりだ。ただ1人、女性が混じっており、彼女だけは吸血族のようだった。怜を見るや否や、彼女はさっと前に出て両膝を付き剣を床に置く。
「レイラディア様とお見受けいたしました。私は帝国ゴルディアが十三部隊隊長、フローディア・ドルツィエと申します。以後どうぞ、お見知りおきを。」
「・・・よろしく。」
二人の視線が絡み合う。警戒心を露にしている怜に対し、フローディアは相好を崩す。
「吸血族は初めてでございましょうが、ご覧の通り同性でございますれば、どうぞお気を楽になさって下さい。ところでそのお格好をなされているということは、馬車ではなく馬で移動なされるご予定でしょうか。」
「そう、馬車には荷をのせる。壊れ物はないから粗雑に扱ってもらって構わない。ゴルディアへ抜ける道は治安が悪いときくから出来るだけ早く抜けたい。」
「畏まりました。仰せの通りに。」
フローディアは内心ほっとしていた。怜の言うとおり、フィオールからゴルディアへ抜けるには、森を突っ切らねばならないが、この森が実にやっかいで、ガルドの領地でもフィオールの領地でも、ましてゴルディアの領地でもない、無法地帯が存在する。山賊が多く出るし、何より今はガルドが怖い。行きは猛スピードで駆け抜けてきたが、帰りは深奥の姫君を連れており、多少の困難は覚悟していたが、その姫君は実に肝が据わっている様子で、しかも帯剣までしている。フローディアはこれまでも様々な国の王女を見てきたが、皆フリルたっぷりの衣服に身を包み扇子を片手に微笑んでいるようなタイプであったため、まさか姫君が乗馬用のパンツ姿で現れるとは予想だにしていなかった。
「では行こう。日が暮れるまでに安全圏まで突っ切る。」
「はっ。」
そのまま出て行こうとする怜にフローディアは慌てて声をかける。
「女王陛下にご挨拶はよろしいのですか?」
言われてようやく怜は振り返り、壇上に座すルディベッラと目を合わせる。
「行って参ります。」
「達者で。」
それは本当に母と子の会話かと思われるほど短い別れの挨拶だった。ルディベッラはまだ穏やかな笑顔を向けて送り出しているが、怜に至っては無表情だ。カイルから何も聞かされていないフローディアは、まさか赤の他人だとは露ほども思わず、何て淡白な母子だと、逆に関心した程だった。